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「右舷前方! 波高三メートル、異形の波長接近! 衝撃に備えろォッ!」
見張り台からの、割れた拡声器を通した絶叫が、甲板を覆う暴風のなかに叩きつけられた。
すでに海面は単なる水のうねりではなく、何十、何百という漆黒の細かな触手のような波紋が、船首に向かって逆流するようにして押し寄せてきている。
ドックを離れてから僅か数分。
下層の海に激突したばかりのグラン・リヴァイア号の周囲には、すでに通常の船乗りたちが「死の領域」と呼んで忌む、外海特有の濃密な血の匂いと瘴気が立ち込めていた。
甲板の防腐鉄板に付着した黒い海水が、シュウシュウと不快な音を立てて蒸発し、白く濁った煙があたり一面を覆い尽くしていく。
俺は左手で手すりのねじれた鉄を掴み、腰を落として、前方で渦巻く漆黒の海面を睨み据えた。
右手首の包帯の下は、もはや熱いという領域を超え、皮膚の内側から鋭利な刃物で絶え間なく抉られているかのような激痛を放っている。だが、その痛みが、俺の脳髄をこれ以上ないほどに冷徹に冴え渡らせていた。
「来るぞ、ガキ。足場を固定しろ」
背側に佇むセイジの、低く短い警告。
その言葉が俺の耳に届いた瞬間、船首のわずか十メートル先で、外海の硬質な波が一気に垂直へと跳ね上がった。
跳ね上がった黒い海水は、重力に逆らうようにして虚空で凝固し、瞬く間に赤黒い結晶の塊へと姿を変えていった。
現れたのは、上層のベルタ島で戦ったあの四足獣の断片獣とは、その「密度」が根本から異なる化け物だった。
体長はやや小ぶりだが、その全身は、幾重にも重なる硝子の刃のような結晶の鱗で覆われている。
一本一本の四肢の先には、甲板の鉄板をバターのように容易く引き裂きそうな、歪に研ぎ澄まされた結晶の爪が狂暴に生え揃っていた。
何よりも異常なのは、それが一頭ではないということだ。波頭が爆ぜるたびに、二頭、四頭、十頭と、まるで見えない底から湧き出してくるかのように、結晶の群れが甲板のキャットウォークへと la 立ち上がってくる。
グルルル、ギチギチと、硬質な関節が擦れ合う嫌な金属音が、潮騒の音を完全に圧殺した。
「ハッ、上層のより随分と景気がいいじゃねえか。小ぶりのクジラが群れで押し寄せてきたみたいだぜ!」
バルドが吠えた。
大男は激しく上下する甲板の上で、自らの巨躯の質量を完璧にコントロールしながら、背中の巨大な鉄槌を両手で引き抜いた。
その茶色い瞳には、恐怖を完全にねじ伏せた神殿の戦士としての苛烈な闘志が滾っている。
「カイ! シオンの前に立たせるな! 散らばった奴らは、俺がまとめて叩き潰す!」
バルドが鉄の床板を激しく踏みしめ、重戦車さながらの突進を開始した。
一歩ごとに甲板がドスンと大きく揺れ、彼の放つ圧倒的な運動エネルギーが、先頭の断片獣へと真っ直ぐに指向される。
「オラァッ!」
横一文字の薙ぎ払い。
風を強制的に圧縮したかのような衝撃波が、甲板の上の黒い海水を扇状に吹き飛ばした。
バルドの渾身の鉄槌が、突進してきた二頭の断片獣の側頭部へと、寸分の狂いもなく同時に叩き込まれる。
ガキィィィィィィン!
凄絶な火花が散り、結晶の鱗が派手に砕け散った。
だが、外海の化け物の強度は、上層のそれとは比較にならなかった。頭部を大きくのけぞらせたものの、断片獣はその凶悪な突進の威力を強引に結晶の肉体で受け流し、即座にその歪な首を不気味に静止させ、再び赤い瞳の光を狂暴に明滅させたのだ。
(硬え……! バルドのあの破壊力がまともに直撃して、数本のヒビが入っただけかよ。力任せじゃ、この海の結晶は絶対に割れねえ!)
俺は鉄剣の柄を握り締め、バルドの鉄槌が放った衝撃の余波、その僅かな「凪」の瞬間に向かって、身体を滑り込ませた。
全身の筋肉は、昨日までの疲弊を完全に払拭し、極上の肉のエネルギーを満載して滑らかに駆動している。
一頭の断片獣が、俺の細い身体を格好の餌食と見定めたかのように、甲板を蹴って躍りかかってきた。
空間を切り裂いて迫る、結晶の鋭い爪。
視界の四隅が、右手首の痛みに同期するようにして、鮮烈な青白い光の糸となって世界を分解していく。
(見える。爪が振り下ろされる運動の、その最も脆い『継ぎ目』が――)
俺は無駄な叫び声ひとつ上げず、ただ一歩の踏み込みで、化け物の爪の軌道の内側へと潜り込んだ。
鉄剣を大振りする必要はない。親父から泥水のなかで骨の髄まで叩き込まれた『波断ち』の神髄は、力で叩き切ることではない。敵自身が放つ強大な力の「流れ」の結節点に、ただ己の刃のすべてを『置く』ことだ。
刃が、断片獣の右肩の関節、赤黒い結晶が最も激しく擦れ合っている一点へと、ピタリと噛み合う。
その瞬間。
ズドォォォォォォン!
船体全体を揺さぶるような、爆発的な衝撃音が足元から突き抜けた。
当たった瞬間にだけ、俺の全身のバネと、敵自身の突進のエネルギーが完全に同期し、何倍もの質量となって刃の上に爆ぜる。
結晶の狼が放つ強烈な前進力が、俺の刃を通じて、そのまま自らの肉体を内側から破壊するエネルギーへと反転したのだ。
硝子が内側から爆発したかのような美しい金属音が響き渡り、断片獣の右半身が、結晶の鱗ごと綺麗に消滅して宙に舞った。
「ハァ、……、っ!」
俺は手応えの余韻に浸ることなく、即座に剣を引き抜き、次の一頭へと視線を向けた。
しかし、群れの数は圧倒的だった。一頭を屠った影から、さらに三頭の化け物が、こちらの呼吸の隙を突くようにして同時に跳躍してくる。
間合いが詰まりすぎている。鉄剣の長さを活かせる距離ではない。
筋肉が緊張し、再び右手首の傷が焼け付くような警告を放った、その時だった。
「『退け』」
背後から、大気を一瞬にして凍りつかせるような、圧倒的に冷徹な声が響いた。
セイジだ。
男の姿は、俺の視界のなかに残像すら残していなかった。
気づいた時には、俺の目の前を跳躍していた三頭の断片獣のさらに後方――キャットワークの端に、おっさんは音もなく着地していた。
遅れて、甲板の空間そのものが「ザン、」と鳴った。
キィィィィィィィィン!
鋭い耳鳴りのような音が響き渡ると同時に、三頭の断片獣の胴体がいっせいに、まったく同じ高度、まったく同じ角度で、水平に綺麗に両断されていた。
断面は鏡のように滑らかで、火花すら散っていない。
化け物たちは自分が斬られたことすら理解していないかのように、宙で一瞬だけ静止し、次の瞬間には、サラサラとした黒い砂となって、甲板の上に崩れ落ちていった。
(なんだ……、今のは。親父の剣とは、何かが根本的に違う……!)
俺の『波断ち』が世界の流れに同調して破壊を導くものだとすれば、セイジの剣は、世界の流れそのものを、その圧倒的な技量と速度によって「強制的に切断する」ような、凄絶なまでの個の完成度を誇っていた。
おっさんは一度もこちらを振り返らず、腰の無骨な鞘へと、刀を音もなく収めた。カチリ、という冷たい音が、再び甲板の轟音の中に溶けていく。
「バルド、カイ。手際が悪い。これでは目的地に着く前に船体がもたん」
おっさんの主語を省いた低い声が、俺の胃の奥をチリチリと灼くような不快感を呼び起こした。
悔しいが、その実力の格の違いを見せつけられては、言い返す言葉が見つからない。
「へっ……、おっさんにいいところを持っていかれちまったな。だが、これで一掃除だぜ」
バルドが鉄槌の柄を肩に担ぎ直し、荒い息を吐きながら、周囲の静寂を確認した。
這い上がってきた十数頭の断片獣は、俺たちの歪な連携によって、すべて黒い砂の山へと姿を変え、外海の激しい潮風にかき消されようとしている。
甲板の奥、セイジの外套に隠れるようにして立っていたシオンが、ゆっくりと胸の前で合わせていた両手を緩めた。
彼女の淡い青緑色の瞳には、戦いが終わった安堵よりも、この外海の異様な空気に対する、深い懸念の色が浮かんでいる。彼女は自身の右肘をきゅっと強く掴み、その真っ白な裸足の爪先を、甲板に溜まった黒い海水から静かに遠ざけた。
「……皆さん、無事で良かったです。ですが、これは……」
シオンの言葉が、途中で小さく震えて途切れた。
静寂が、再びグラン・リヴァイア号を包み込む。
だが、それは安息の静寂ではなかった。
ドクン、と。
船底のさらに下、この漆黒の外海の、光すら届かない最も深い髄のあたりから、脳漿を直接揺さぶるような不快極まりない重低音が響き渡った。
それは、先ほどの断片獣の群れが放っていた波長とは、その「質量」が桁違いに異なるものだった。
足元の防腐鉄板が、まるで恐怖に怯える生き物のように、小刻みに、そして激しく震え始める。
俺の右手首の包帯の下が、これまでにないほどの、肉を内側から焼き千切るかのような猛烈な熱を持って暴れ始めた。
心臓がドクドクと狂ったような鼓動を刻み、視界の四隅が、青白い光を通り越して、どす黒い闇の色彩によって激しく明滅を始める。
(くっ……! なんだ、この圧は……! 身体が、動かねえ……!)
見上げれば、上空を覆う浮遊島の岩肌が、その不気味な重低音に呼応するようにして、僅かに震えているように見えた。
隣のバルドの顔から、完全に血の気が失われ、その茶色い瞳が驚愕によって限界まで見開かれている。セイジの手が、再び、腰の刀の柄へと吸い付くようにして戻っていくのが見えた。
海面下、数千メートルの深海の奥底。
そこに、今しがた屠った群れなど、単なる羽虫の前座に過ぎないと言わんばかりの、圧倒的な「厄災の核」が、確かに胎動を始めていた。




