12
船底から突き上げてくる振動は、もはや音というよりは、肉体の内臓を直接握り潰しにくるような物理的な質量へと変貌していた。
排水バルブからは、海水が沸騰したかのような不快な高圧蒸気がゴボゴボと逆流し、甲板の防腐鉄板は、陽炎が立つほどの異常な熱を帯び始めている。
断片獣の群れを黒い砂へと変えたばかりの俺たちの足元で、百メートルを超えるグラン・リヴァイア号の巨躯が、まるで底なしの沼に嵌まり込んだかのように重苦しく傾ぎ、その進行を完全に止められていた。
外海の濃厚な瘴気が、白く濁った雲の天井からじわりと降りてきて、視界を不気味な濃灰色に染め上げていく。
俺は右手首の、肉を引き千切らんばかりに暴れ狂う古い傷跡を左手で必死に押さえつけながら、激しく脈動する海面を凝視した。
筋肉の組織が内側から焼け付くような激痛。だが、その痛みの感覚だけが、恐怖で凍りつきかけた俺の足をかろうじて甲板に繋ぎ止めていた。
「……逃げるぞ。あれは、人間の刃が届く距離にはいない」
セイジの声から、いつもの超然とした冷徹さが消え、刃物のように鋭利な焦燥が混ざり合っていた。
刀の柄に触れたままの男の指先が、微かに、しかし確実に震えている。あの親父と共に戦場を潜り抜けてきた男が、抜刀すら諦めるほどの何かが、この海面下で目を覚まそうとしていた。
船首から数十メートル前方の海面が、不自然なほど滑らかな球体となって、ゆっくりと、しかし圧倒的な質量を伴って迫り上がってきた。
それは、波が作った起伏などではなかった。
湧き上がってきたのは、直径数十メートルはあろうかという、どす黒い半透明の「粘液の塊」だった。
その粘液の内側では、無数の人間の腕のような歪な結晶の骨格が、互いを呪い合うようにして複雑に絡み合い、蠢いている。
結晶の隙間から漏れ出るのは、第一聖所でシオンが命を削って呪詛を抑え込んだ時の、あの世界の悲鳴を何万倍にも増幅したかのような、狂気的な精神波だった。
「ヴォ、イ、ド……。下層の、本物の、嬰児……っ」
シオンの掠れた声が、暴風の中に消え入るようにして零れ落ちた。
彼女は純白の、いまや黒い斑点に汚れた聖衣の胸元を両手で強く毟るようにして掴み、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死に耐えていた。
その淡い青緑色の瞳からは、みるみるうちに光が失われ、硝子細工のような白い肌が、外海の瘴気に灼かれて浅黒く変色していく。
力が、世界の形そのものが、あの粘液の球体に向かって強引に収束していくのが分かった。
グラン・リヴァイア号の防腐鉄板が、目に見えない巨大な引力に引っ張られるようにして、ミシミシ、ギチギチと、限界に近い歪み音を立てて悲鳴を上げている。
このままあの塊が完全に海面上へと露出すれば、船体ごと、あのドス黒い結晶の胎内へと飲み込まれる。
「機関室ォッ! 推進筒のバルブを限界まで開放しろ! 浮力をすべて前進力へ回せッ!」
バルドが、甲板の拡声器に向かって、喉が裂けんばかりの咆哮を叩き込んだ。
大男の額からは、海水とも汗ともつかない大粒の水滴がいくつも流れ落ち、その褐色の肌は、かつてないほどの緊張で強張っている。
「カイ! 手すりから手を放すな! 衝撃が来るぞ!」
船尾にある四基の巨大な蒸気推進筒が、それまでの駆動音とは一線を画する、バリバリとした大気の引き裂き音を立てて咆哮した。
動力核から直接引き出された過剰なエネルギーが、鉄の筒の中で爆発的な圧力を生み出し、船体を強引に前へと押し進めようとする。
だが、海面下のヴォイドが放つ重引力は、その数万馬力の推進力すらも、目に見えない鎖となって引き留めていた。
船首が、引き裂かれるような軋み声を上げる。
俺は激しい重力変化に引き摺られそうになりながらも、右手でねじれた鉄の手すりをがむしゃらに掴み、肉体を強引に固定した。
その手すりを握る手のひら、そして鉄板を踏みしめる足の裏から、船体がこれ以上の負荷に耐えきれず、内部のフレームから崩壊していくかもしれないという、野生的な『波断ち』の危機感が、鋭い電流となって脳髄を突き抜けていた。
力の流れが、あの深海の化け物に向かって収束するベクトルと、船が前進しようとするベクトルが、まさに俺の立っているこの右舷の手すりの真下で、最も激しく衝突して火花を散らしている。
(このままじゃ、前に行く前に船の背骨が折れる……!)
俺は全身の骨が軋むような引力に抗いながら、手すりを掴む右手にすべての重心を預けた。
手すりから伝わる歪みの周期が、一瞬だけ、逆に跳ね返るような不自然な反発を見せる。その結節点のズレを、俺の感覚が捉えていた。
「バルド! 右舷の推進筒の逆噴射を、一瞬だけ混ぜろ!」
俺の狂ったような叫び声が、嵐のなかで響いた。
普通の戦士なら、この極限状態での逆噴射など、自滅行為だと吐き捨てるだろう。
だが、バルドの茶色い瞳が、一瞬だけ俺の顔を見た。
目が先に笑う、俺のいつもの不敵な笑みが、その極限の恐怖のなかでも健在であることを見た刹那、大男は迷うことなく拡声器へと怒鳴り散らした。
「右舷、第二、逆噴射ッ! 三秒だけ叩き込め!」
ガコォォォォォォンッ!
船尾の右側から、凄絶な白い高圧蒸気の塊が、海面を沸騰させながら前方へと噴き出した。
船体が、強烈な不均等Gによって、右側へと大きく傾ぎながら、その回頭軌道を歪に歪める。
普通の船ならその場で転覆していただろう。だが、その強引な制動によって、海面下のヴォイドが放つ重引力の軸から、船体の中心線がほんの数インチだけ、奇跡的に『ズレた』のだ。
網の目をすり抜けるような、力の流れの解放。
手すりを握る右手と、足の裏から伝わってきた軋み音が、一瞬だけ、フッと軽くなった。
「いまだァッ! 全速前進ッ!」
バルドの咆哮と同時に、四基のスラスターが、今度こそ空間を爆破するかのような大出力を解放した。
グラン・リヴァイア号の漆黒の船体が、硝子のような外海の黒い波頭を力任せに噛み砕き、楔型の船首から大量の白亜の飛沫を噴き上げながら、前方へと弾け飛んだ。
背後で、あの半透明の粘液の球体が、獲物を逃したことへの怒りのように、キュゥゥゥゥゥゥンという、鼓膜を直接針で刺すような高周波の絶買いを上げたのが聞こえた。
凄絶な衝撃波が甲板のすべてをなぎ払い、俺たちの身体を激しく打ち付けたが、船の推進力はその絶望の引力を完全に振り切っていた。
遠ざかっていく。
あの無数の人間の腕が蠢く、不条理な世界の底の嬰児が、白く濁った瘴気の霧の向こうへと、ゆっくりと沈降していく。
船体の激しい振動が、徐々に、本来の巡航速度の規則正しい重低音へと戻っていった。
俺たちは、辛うじて、外海の最初の真の深淵から、その首の皮一枚を繋ぎ止めて生還したのだ。
甲板の上に、再び重苦しい潮騒の音だけが戻ってきた。
誰もが言葉を失ったまま、自らの荒い呼吸の音だけを大気に晒している。
バルドは、拡声器の鉄柱に寄りかかるようにして、その巨躯をがくりと落としていた。
戦士としての誇りも闘志も、あの圧倒的な質量の前には、ただ生き残るための足掻きに昇華されるしかなかったのだ。彼の褐色の肌は、外海の冷たい海水と冷や汗で完全に色を失っていた。
セイジは、刀の柄からゆっくりと指先を離し、黒い外套のフードを深く被り直した。
その灰色の目は、先ほどまでヴォイドがいた海面を冷徹に見つめたままだ。おっさんの佇まいは相変わらず無音のままでしたが、その背中には、かつてソウルと共にこれ以上の地獄を見てきた者だけが持つ、言葉にできない暗い陰影が張り付いていた。
「……終わった、のですね」
シオンの、今にも消え入りそうな微かな呟き。
彼女は、甲板の防腐鉄板の上に両膝を突いたまま、力なくその銀髪を垂らしていた。
新しく神殿から支給されたばかりの清潔な聖衣は、先ほどのヴォイドの精神波を直接浴びたことによって、裾の部分から、まるで炭が侵食していくかのように、ドス黒い変色のシミをさらに広げていた。
彼女のその姿は、世界の痛みを引き受ける聖女のそれではなく、ただ理不尽なシステムの生贄として捧げられた、哀れな一人の少女の姿そのものだった。
真っ白だった彼女の裸足は、冷たい海水の熱に晒され、感覚を失ったかのようにピクリとも動かない。
俺は、なまくらの鉄剣の柄を握る右手を、ゆっくりと、しかし確実に解放した。
右手首の古い傷跡の包帯の下からは、激痛が引いた代わりに、じわりと、これまでには見たこともないような「黒い血」が、白い布地の隙間から不気味に滲み出てきているのが見えた。
この傷跡が、あの深海の化け物と、何らかの歪なレイヤーで繋がっていることを、俺の肉体が、恐怖と共に理解し始めていた。
欺瞞の空を見上げることすら許されない、この白く濁った雲の天井の下。
俺たちは、自らが足を踏み入れてしまった航路の、本当の絶望の深さを、まだ何も知らなかった。




