13
きつく締め直した新しい包帯の隙間から、鉄の匂いに混ざって、微かに焦げ付いた硫黄のような悪臭が鼻腔を突いた。
船室の狭い鉄の机の上、煤けたランプの仄暗い橙色の光が、俺の右腕を不気味な陰影で縁取っている。
あの深海の怪物から全速力で離脱して、すでに数時間が経過していた。
右手首の古い傷跡は、狂ったような脈動をようやく収めていたが、包帯に染み出していたあの「黒い血」の不気味な輪郭だけは、俺の網膜の裏側に、拭いきれない澱となってこびりついている。
(親父の『波断ち』は、世界の流れを斬るもんだ。だけど、あの化け物の流れは、俺の肉体に直接流れ込んできやがった……)
俺は不機嫌に舌を鳴らし、湯上がりの麻の衣服の袖を乱暴に引き下ろして傷を隠した。
船底の巨大な蒸気機関が奏でる、規則正しいが重苦しい低音の振動が、鉄の床板を通じて絶えず足の裏を震わせている。
この狭苦しい鋼鉄の箱のなかに閉じこもっていると、上空にあるという欺瞞の白い雲海のことなど、すべて遠いおとぎ話のように思えてくる。
俺となまくらの鉄剣の重み、それだけを抱えて、俺は微かに錆びついた船室の鉄扉を押し開け、夜の冷気が支配する甲板へと足を向けた。
外海の夜は、コーラルのスラムで見たそれよりも、遥かに深い暗黒に満ちていた。
見上げても星の光など一滴も届かない。そこにあるのは、下層の瘴気が凝固して作られた、白く濁った雲の天井が落す、無限に続くドス黒い灰色のグラデーションだけだ。
船首の楔型装甲が、硬質な黒い波頭を切り裂くたびに、燐光を帯びた白い飛沫が甲板へと吹き上がってくる。
その冷たい飛沫を全身に浴びながら、船首のキャットウォークの端に、ぽつんと佇む細い影があった。
シオンだ。
彼女は、昼間の汚れに塗れた聖衣を脱ぎ捨て、船内に用意されていた無骨な白い麻の平服へと身を包んでいた。
だが、その首元、鎖骨のわずかに上の肌の表面には、あのヴォイドの精神波を直接浴びた代償が、まるで焼け焦げた炭の粒子が皮膚の下に染み込んだかのような、赤黒い斑点状の『痣』となってじわりと浮かび上がっていた。
長い銀髪が、外海の重い夜風に吹かれて、その不気味な痣を隠すように、しかし夜の闇を拒絶する一筋の光の糸のように美しく舞っている。
「おい、お嬢さん。夜風に当たって風邪でも引かれたら、俺のビジネスに支障が出るんだよ。大人しく神殿が用意した安全な部屋で、ぬくぬくと祈りでも捧げてりゃいいものをさ」
俺は、わざと金属の床板を荒く踏み鳴らしながら、いつもの不敵な笑顔を顔に張り付けて歩み寄った。
目が先に笑う、他者を寄せ付けないための「鎧」としての笑みだ。
「……カイさん」
シオンがゆっくりと振り返った。その淡い青緑色の瞳は、煤けたランプの光を反射して、硝子細工のような儚さを帯びていた。
彼女は、俺の棘のある言葉をいつものように受け流すと、左手で右肘をきゅっと強く掴む、あの独特の癖を見せた。
その細い指先が、麻衣の隙間から覗く首元の黒い痣を、無意識に隠そうとするかのように小さく動く。
「部屋のなかにいると、あの深海の音が、どうしても耳の奥から離れなくて。……こうして、外海の冷たい風を肌に浴びている方が、自分がまだ、世界の形を保っていられるような気がするのです」
彼女の視線が、遥か前方の漆黒の水平線へと向けられた。
衣装を変えても、肉体に直接刻み込まれた世界の不条理なシステムの侵食は、今もなお、彼女の運命を内側から蝕み続けている。
第一聖所で彼女が命を削って詠唱を捧げたその代償の重さが、夜の闇の中で、より一層の冷酷さを持って彼女の細い肩にのしかかっていた。
「フン、世界の形だか何だか知らないが、随分と弱気じゃねえか。バルドの奴なんか、さっきまで食堂で干し肉を顎が外れるまで噛み千切ってたぜ。生き残りたきゃ、あのクジラくらい面の皮を厚くすることだな」
俺は手すりに背中を預け、腰の鉄剣の柄を右手で軽く弄んだ。
手首の奥が、彼女の纏う僅かな瘴気の気配に呼応するようにして、チリチリと不快な熱を帯びる。
「バルドは、強い人ですから」
シオンは小さく微笑んだ。その笑みには、神殿の彫像が見せる完璧な欺瞞ではなく、年相応の、どこか切ない親愛が混ざっていた。
「でも、カイさんも同じです。昼間、あの絶望的な引力のなかで、カイさんが手すりを掴んで前を睨みつけた時、私は……本当に、救われたような気がしたのです。神殿の誰も、あのような泥臭い足掻きを教えてはくれませんでした」
「買い被るなよ、お嬢さん。俺はただ、あんな不気味な化け物の腹のなかで消化されるのが御免だっただけだ。お前を助けたのは、海図をミラージュから盗み出すための片道切符を失いたくなかったからさ」
「はい。ビジネスライク、ですね」
シオンは瞳を細め、本当に悪戯っぽく笑った。
その瞬間だけは、彼女が背負わされている「歌えば死ぬ」という神殿の残酷なシステムも、下層の海の閉塞感も、すべてが一時的に遠ざかるような、妙に静かな空気が二人の間に流れた。
だが、その平穏を切り裂くようにして、俺たちの背後の闇から、気配を一切感じさせない低い声が響いた。
「……歪な契約だ」
心臓が跳ね上がるのを、俺は表情に一切出さずに振り返った。
黒い外套のフードを深く被ったまま、セイジがそこに立っていた。
いつからそこにいたのか、この狂狂しい潮騒の音のなかで、おっさんの足音は一回すら俺の耳に届いておらず、あたかも最初から闇のなかで凝固していたかのように、そこに佇んでいた。
男の右手は、俺たちの気配を鋭く察知したかのように、腰の無骨な黒い鞘の刀、その柄の数インチ手前へと、音もなく、寸分の狂いもなく吸い付いていた。
「おっさん、趣味が悪いな。人の商談を盗み聞きするなんてさ。神殿のプロってのは、夜の散歩の時も気配を消さなきゃ死んじまう病気なのか?」
俺は唇の端を釣り上げ、鉄剣の柄を握り直した。
だが、セイジの灰色の目は、俺のその強がりの態度を、まるで見え透いた硝子板でも眺めるかのように、冷徹に見据えていた。
「カイ。お前のその『波断ち』は、ソウルの劣化模倣に過ぎない。昼間、船体の負荷をズラしたのは野生の勘としては評価するが、本物の外海の波を前にすれば、そのなまくらの鉄剣ごと、次の一撃で粉砕される」
おっさんの主語を省いた冷酷な格付けが、俺の胸の奥にある、完全復活したばかりのプライドへと、容責のない楔となって突き刺さった。
「劣化模倣、ねえ。随分と言ってくれるじゃねえか、おっさん」
俺の目が、先に鋭く笑った。
「親父がどれほどの化け物だったかは知らないが、俺はこのなまくら一本で、コーラルの地獄を生き延びてきたんだ。お前らの上品な神殿の剣術とは、鍛え上げられてる泥の厚みが違うんだよ」
「ソウルは、上品などという言葉からは最も遠い男だった」
セイジの一言が、甲板の空気を一瞬にして凍りつかせた。
男の右手の指先が、ほんの数ミリだけ、刀の柄へとさらに近づく。
「あの男は、世界の形を暴力で強引にねじ曲げ、および失敗した。結果として、お前の故郷であるコーラルは下層の海へ沈み、お前の右手には、その時の呪いの残滓が刻まれた。……カイ、お前がその手首の痛みの正体を知らぬまま剣を振るい続ければ、いずれシオンを守るどころか、その刃でお前自身が世界を終わらせることになる」
おっさんの灰色の目の奥に、かつてないほどの暗い、そして絶対的な拒絶の光が宿っていた。
親父が過去に犯したという、世界の断絶の真実。それが、俺の右手首の包帯の下の疼きと、どのようなレイヤーで噛み合っているのか、その輪郭が不気味に浮かび上がってくる。
シオンが、息を呑んで俺とセイジの顔を見比べ、その細い指先を自らの胸元へと強く押し当てていた。
「へっ……、脅かすのが上手いな、おっさん。だが、そんな御大層な呪い、俺の知ったことかよ」
俺は鉄剣の刃を僅かに鞘から覗かせ、その鈍い金属の輝きをセイジへと向けた。
「親父が世界を壊したってんなら、俺はその壊れた世界の底で、自分のやり方で這い上がるだけだ。おっさんのその御高名な刀が、俺のなまくらより本当に切れるってんなら、今ここで、その『格』ってやつを俺に叩き込んでみろよ」
「……いいだろう」
セイジの指先が、ついに刀の柄へと完全に吸い付いた。
おっさんの周囲の大気が、まるで物理的な質量を持ったかのように、ギチ、ギチと、異常なまでの高密度な殺気となって甲板を支配し始める。
無事に生き延びたはずの装甲船の夜、外海の漆黒の波が船体を激しく叩くなかで、俺となまくらの鉄剣、および世界を断絶した親父の過去を巡る、本当の『格付け』の幕が、今、静かに上がろうとしていた。
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