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刃の鳴る音すら、聞こえなかった。
視界を真一文字に切り裂いたのは、月明かりすらない外海の闇を強制的に引き裂くような、冷徹な一筋の銀閃だった。
俺のなまくらの鉄剣が、セイジの刀の側面と触れ合った瞬間、甲板の空気が爆発したかのようなすさまじい衝撃波が吹き荒れる。
受け止める、という生易しい次元ではなかった。
衝突した刹那、俺の右腕の骨という骨が歪な悲鳴を上げ、全身の筋肉が強制的に限界まで引き絞られる。
(速すぎる――。これが、プロの、本物の刃かよ……!)
俺の身体は、なまくらの鉄剣ごと強引に甲板の上へと叩き伏せられていた。
背中が鉄板に激突し、肺腑の空気が残らず口から吐き出される。
喉の奥がカッと熱くなり、強烈な鉄の味が口内に広がった。脂汗が額からどっと吹き出し、全身の細胞が「死」の二文字を突きつけられて完全に硬直する。
「その程度か、カイ。ソウルの影を追うだけのガキが、外海の波に抗えると思うな」
見下ろしてくるセイジの灰色の目は、一滴の容赦もない。
男の刀はすでに鞘へと収まりつつあり、カチリという硬質な音が、俺の敗北を冷酷に告げていた。
手首の包帯から、またじわりと黒い血が滲み出していく。
勝負は一瞬だった。俺がコーラルの泥水のなかで培ってきた野生の『波断ち』は、世界の流れを強引に切断するこの男の圧倒的な『格』の前には、ただの子供の火遊びに過ぎなかったのだ。
「……セイジさん、もうやめてください!」
シオンが、白い麻の平服の裾を激しく揺らしながら、俺とセイジの間に割って入った。
彼女の細い肩が、恐怖と、首元に浮かび上がったあの黒い痣の激痛によって小刻みに震えている。
「カイさんは、私のために……」
「シオン、下がれ。このガキに、己の無力を骨の髄まで理解させねば、この先の海でお前もろとも全滅する」
セイジの声は冷徹そのものだった。だが、おっさんが再び刀の柄に手をかけようとした、その瞬間だった。
ドクン。
昼間のあの、世界の底から響いてきた不快極まりない重低音が、再びグラン・リヴァイア号の船底を直撃した。
それだけではない。
船の周囲の海面が、まるで沸騰した油のように激しく泡立ち、船首の楔型装甲を、ドス黒い粘液を纏った無数の結晶の「触手」が一斉に這い上がってきたのだ。
(クソが……ッ! 昼間のあいつが、まだ追ってきてやがったのか……!?)
右手首の包帯の下が、今までにないほどの猛烈な熱を持って暴れ狂い始める。
肉が内側から千切れるような激痛。視界の四隅が、どす黒い闇の色彩で狂ったように明滅を始める。
化け物たちの狙いは明白だった。甲板の中央で息を切らせているシオン――彼女の首元の黒い痣が、迫り来る触手たちの波長と同調するようにして、禍々しい紫色に発光していた。
「バルド! 機関室へ走れ! 船を止めさせるな!」
セイジが、初めてその声を荒げて叫んだ。
背後に控えていた大男が、その茶色い瞳に驚愕を宿しながらも、神殿の戦士としての条件反射で即座に反転し、船内へと猛ダッシュを開始する。鉄板をドスン、ドスンと激しく踏み鳴らす足音が遠ざかっていく。
「カイ、シオンを連れて下がれ。……ここからは、神殿の消耗品の仕事だ」
セイジの黒い外套が、外海の暴風のなかで大きく翻った。
男の指先が、刀の柄へと完全に吸い付く。
キィィィィィィィィン!
再び、空間そのものを切り裂くような鋭い耳鳴りが響き渡る。
迫り来る三本の巨大な結晶触手が、おっさんの一閃によって、高度も角度も寸分狂わぬ水平の軌跡で綺麗に両断された。
断面から弾け飛ぶ赤黒い結晶の破片が、甲板の鉄板をカンカンと叩いて跳ねる。だが、切断された先から、海面の下からはさらに太く、さらに禍々しい数の触手が、無限の網の目となって甲板を覆い尽くそうと押し寄せてくる。
「おっさん……! 一人でそんなもん、捌き切れるわけねえだろ!」
俺はなまくらの鉄剣を杖代わりにし、脂汗を流しながら強引に立ち上がった。
足の裏からは、船体が化け物の質量によって完全に海面下へと引きずり込まれようとしている絶望的な振動が伝わってくる。
「言ったはずだ、カイ。お前の親父、ソウルが十五年前に世界を壊したのは……なぜか」
セイジは、無数の触手の嵐を正面から見据えたまま、一度もこちらを振り返らずに言った。
その横顔には、かつて戦場を共にした親友への、そしてこの世界の不条理なシステムへの、深い、深い諦念と怒りが刻まれていた。
「あの男は、お前の前代の聖女を……このシオンと同じ運命を背負わされていた少女を、神殿のシステムから救い出そうとして、世界の流れを強引にねじ曲げた。結果として、世界は二つに裂け、コーラルは沈んだ。ソウルは悪人ではない。ただ、一人の少女のために、世界中のすべてを敵に回した戦士だ」
「な、んだって……?」
俺の脳裏に、泥水のなかで黙々と剣を振り続けていた、あの寡黙な親父の背中が鮮烈によみがえった。
悪名高い大罪人。世界の破壊者。
神殿の歴史書がそう書き連ねていた親父の本当の姿は、ただ、目の前の少女を救うために足掻き尽くした男の結末だったのだ。
「そして、私はあの時、ソウルを止めることができなかった。……いや、止めたくなかった。だからこそ、今度こそ私は、自分の仕事を果たす」
セイジの全身から、それまでの冷徹な殺気とは根本から異なる、圧倒的なまでの「生の輝き」が放たれた。
男の刀の刃が、外海の瘴気を吸い込んで、眩いばかりの銀色の光を放ち始める。
「カイ、お前の『波断ち』の本当の使い方を、その目に焼き付けろ。力の流れに逆らうな。世界の歪みそのものを、己の刃の結節点として受け入れろ」
触手の巨大な群れが、一斉にセイジの肉体を押し潰そうと虚空から振り下ろされた。
その絶望的な mass の前で、おっさんは、驚くべきことに刀を鞘へと戻し、深く、深く腰を落とした。
(嘘だろ……。あの数を、居合いで迎え撃つつもりかよ……!)
「シオンを連れて行け、カイ。ソウルの劣化模倣ではなく、お前自身の刃で、その少女をシステムから切り離してみせろ」
それが、おっさんの最後の言葉だった。
ザン。
世界が、一瞬だけ完全に静寂に包まれた。
次の瞬間、グラン・リヴァイア号の甲板全体を覆うほどの、巨大な銀色の「円環」が空間に咲き誇った。
何十、何百という結晶の触手が、その圧倒的な一閃によって、根元から残らず一刀両断され、サラサラとした黒い砂の豪雨となって甲板へと降り注ぐ。
だが、その代償はあまりにも大きかった。
一閃を放ち切ったセイジの肉体を、海面下から突き上げてきた最大の本流――ヴォイドの嬰児の本体とも言うべき、無数の人間の腕が絡み合う粘液の塊が、強引に深海へと引きずり込んでいく。
「セイジさんッ!!」
シオンの悲痛な絶叫が、夜の海に響き渡る。
おっさんの黒い外套が、漆黒の波のなかに沈み、完全に消え去っていくのが見えた。
「おっさん……っ!!」
俺の胸の奥で、何かが完全に弾け飛んだ。
喉の奥が灼熱の溶岩でも流し込まれたかのように熱くなり、右手首の古い傷跡から、ドクドクと黒い血が濁流となって溢れ出る。
だが、もう痛みを恐怖とは感じない。
親父が命を懸けて守ろうとしたもの。おっさんがその命を賭して俺に繋いだもの。
世界の不条理なシステムが、この少女を、俺たちの未来を喰らい尽くそうとするならば。
(やってやるよ、クソが……ッ! 世界の形なんて、俺の知ったことかよ!!)
俺は、手元に残されたなまくらの鉄剣を、強く、強く握り締めた。
その瞬間、俺の右手首から溢れ出た黒い血が、鉄剣の錆びついた刃へと吸い込まれるようにして伝わり、なまくらの刃を禍々しい黒色の結晶で覆い尽くしていった。
『波断ち』の感覚が、かつてないほどの解像度で、世界の歪みのすべてを分解していく。
見える。船体を拘束している、海面下の化け物の最後の「流れの結節点」が。
俺は一歩の踏み込みで、船首の最先端へと躍り出た。
大振りはしない。おっさんが魅せたあの精密さ、親父が泥水のなかで叩き込んでくれたあの重心のすべてを、この一撃に収束させる。
黒い結晶と化した鉄剣を、ただ、世界の歪みの中心へと『置く』。
ズドォォォォォォォォォォンッ!!
海面が、縦に真っ二つに割れた。
船体を縛り付けていたすべての引力の鎖が木っ端微塵に粉砕され、グラン・リヴァイア号の巨躯が、ついにその呪縛から完全に解き放たれる。
「野郎どもォッ! 全速前進だァッ!!」
船内の拡声器から、バルドの涙混じりの咆哮が炸裂した。
四基の蒸気推進筒が狂暴な咆哮を上げ、漆黒の船体は、外海の不条理な闇を切り裂きながら、圧倒的な速度でその絶望の領域から離脱し始めた。
押し寄せる夜風が、俺の顔を冷たく叩く。
俺は膝を突きそうになる身体を強引に支え、黒い結晶の刃へと変わった鉄剣を、静かに鞘へと収めた。
甲板の端、シオンがその場に座り込み、首元の黒い痣を押さえながら、静かに涙を流していた。
彼女の淡い青緑色の瞳には、もう神殿の操り人形としての欺瞞の光はない。そこにあるのは、過酷な現実を生き抜くことを決意した、一人の人間の強い光だった。
俺は彼女の前に歩み寄り、黒い血で汚れた右手を、そっと差し出した。
「立てよ、お嬢さん。ビジネスはまだ途中だろ。おっさんに、あんな最高の格付けを見せつけられちまったんだ。ここで足を止めるわけにはいかねえんだよ」
シオンは俺の顔を見上げ、涙を拭うことなく、その細い手で俺の黒く汚れた手をしっかりと握り返した。
「はい、……カイさん。行きましょう、この世界の、本当の底まで」
見上げれば、相変わらず白く濁った雲の天井が、俺たちの空を完全に塞いでいる。
だが、その分厚い雲の隙間から、ほんの一筋だけ、これまでには見たこともないような、鋭く、苛烈な本物の太陽の光が、漆黒の下層の海へと真っ直ぐに突き刺さっていた。
親父の過去。おっさんの遺志。そして、世界のシステムとの決戦。
俺たちの、本当の呪われた外海航路の旅は、この絶望の底から、今まさに幕を開けたばかりだ。




