第83話 闇の中の彼岸花
真っ白な世界だった。上も左右もどこまででも続いていそうな空間だった。
俺はそんな世界で目が覚めた。地面に寝ていたらしい。
一体ここはどこなのか…………。
その世界は何にもないというわけでもなかった。写真が飾られていた。立派な額縁に入れられて、宙に浮かんでいた。
「へぇ、これが君の記憶か」
俺の先で後ろで手を組み、ゆったりとした足取りで歩いていく男。先程眠りに誘ったあの男だ。彼の視線の先には一つの絵画があった。
周りを見ると、大量の絵画が宙に浮いてる。見えない壁に飾られているようだった。ばらばらに浮いているようにも思える絵画だが、一定の方向に並んでおり一つの道を作っていた。奥へ奥へと誘導していた。
俺は立ち上がり、男から少し離れた後ろを歩いていく。
絵画の一つは、リコリスと出会った時の絵。
一つは、レンと出会った時の絵。幼いレンとメミがケンカしていた。
一つは、王女ティファニーとお茶会をした時の絵。
絵は俺の記憶を元に描かれる。自分の記憶のはずなのに、どれも見入ってしまうほど美しく描かれていた。リコリスなんて美女に描かれすぎだろ。
ただ…………。
「これは…………」
前を歩いていた男は足を止める。俺は男の視線をたどり、それを見つける。
真っ黒な背景に大きく描かれた一輪の彼岸花。絵なのに、その花は静かに揺れていた。
その彼岸花の絵画は、他の作品とは距離を置くように、ひっそりと一番奥の場所にあった。
艶やかな紅が見た者の目を離さない。額縁も黒く、他のとは違って存在感がある。不思議と触れたくないと思った。
「綺麗だ……いい赤だ」
同感だ、綺麗だ……と思う。だが、どこか不気味だった。その赤が怖かった。その理由が説明できないのが歯がゆい。胸の奥底にもやもやとしたものが溜まっていく。
でも、目が離せない。油断をすれば引き込まれるそんな危ない魅力のある絵だった。ただただ真っ黒な背景に、彼岸花が描かれているだけというのに…………。
すると、男は彼岸花の絵の前に立ち、真っすぐに手を伸ばす。
なんて目をしているんだ…………。
好奇心に満ちた眩しい瞳のきらめき。陶酔していた。男は完全に心を奪われていた。
「それに触れるな!!」
俺は叫んでいた。なぜか分からない。
ただ触れられると汚されるようで、不快だった。
男はこちらに顔を向けることなく、小さく首を振る。目は不気味なほど輝き、上がりきった口角に、背筋が凍る。
「大丈夫、心配することないよ」
「バカか!! 俺が触るなって言ってるだろ!!」
忠告するが、男は伸ばす手を止めようとしない。
「やめろって言ってるだろうが!!」
「————っ!!」
俺は男の頬に思いっきり拳を入れ、殴り飛ばす。男は地面を転がると、ペッと血を吐いた。
「あはは…………記憶の世界とはいえ、痛いな………」
男は赤くなった頬を手でさする。柔らかい笑みを浮かべたまま。本当に……不気味だった。
「君はあれを知りたいとは思わないのかい?」
「…………」
彼岸花の絵は確かに気になる。ずっと見続けていれば、吸い込まれて夢中になるぐらいには惹かれてしまう。
でも————。
「思わない。俺は知るべきじゃない」
同時に俺の願いを壊しかねない恐ろしい物にも思う。警戒心が働いた。
触れて知ってしまえば、平穏に生きることという願いが二度と叶わなくなってしまう。
根拠はない。直感だ。
そして、また確信する。
あの彼岸花の絵は、俺の記憶をもとに作られている。間違いない。
「だから、あの絵に触れるな」
間違ってもこの男が触れさせてはならない。他の記憶とは違う。分析なんてさせない。
「ここは俺の記憶の世界だ。お前みたいなやつが好き勝手にいい場所じゃない」
夢魔法をかけられたメミの気持ちが分かった。他人に侵入されるのは不快感しかない。
俺は座り込む男にピンと人差し指を向ける。
「出ていけ。二度と来るな」
全ての光を飲み込む黒。鮮血の赤。無へと返す白。
それらの雷電が人差し指の先からパチパチとはじけ、入り混じり、男の全身を駆け抜ける。
「ッ…………ふふっ、あははッ!!」
痛みに耐えながらも、男は夢の終わりの前に笑った。もう少し味わっていたかったと言いたげな惜しそうな笑みだった。
「あははッ、おあずけだなんて……気になっちゃうな!」
「まだ元気そうだな。もう一発食らいたいか?」
「えー、もう痛いのはやだよ」
「じゃあ、さっさと帰れ」
「分かったよー」
眉を八の字にして、分かりやすく男はがっくりと肩を落とす。
「いつかその絵を暴いてみたいね」
「絶対に触れさせるか。二度とここに入ってくんな」
またこの世界に来ること前提で話す男が腹立たしい。他人の世界にずけずけと入ってくるな。
しかし、心底むかつくこの男は、爽やかな笑みを見せて。
「大丈夫。また来るよ、兵器ちゃんのお友達のネル・モナーくん」
バイバイと手を振り、絵から離れていく。
ようやく帰ってくれる…………。
と思ったが、彼はすぐにくるりと翻した。
「ああ、君に名乗るのを忘れていたね」
「いやいい。お前の名前なんて聞きたくない」
「僕の名前は————キト・ファントムだよ。覚えててね」
「誰が覚えるか」
「そう言って、僕の名前を覚えててくれるでしょ? 今回のことがあったら忘れられもしないもんね」
「…………」
「じゃあ、またね。ネルくん」
男——キト・ファントムが消えたことを確認すると、振り返ってあの絵を見る。
この彼岸花の絵を知りたいとは思う…………この記憶がどんなものだったか。
でも、この記憶は知らなくていい。知らなくたって生きていける。むしろ知らない方が幸せに生きていける。そう思う。
「知らなくていい……知らなくていいんだ」
言い聞かせるように、小さくつぶやく。
俺は振れかけた手をぐっと堪え、踵を返した。
来た道を戻っていくとドアがあった。来た時にはなかった銀のドアだ。随分と都合がいい。
精巧に作られた銀装飾のドア。取っ手には丸く磨かれたエメラルドの宝石がはめ込まれている。触れた瞬間、きらりと緑の輝きを放った。
ドアを開くと、向こう側から白光が差し込んでくる。目が痛くなるような強い光だ。
おそらく一歩踏み出せば、恐らく俺は目覚める。その前にもう一度振り返って、一番奥にあるあの彼岸花の絵に目を凝らした。
あの彼岸花を見ると、どうしても思い浮かべてしまうやつがいる。
「なんで、リコリスなんだろうな…………」
絵の彼岸花の紅はリコリスのメッシュと同じ色。リコリスの家の周りには一面を紅で覆うように咲いていた。
「全部偶然だ……きっとそうだ……」
絵に触れたら、望む平穏は手に入らない。
再び絵に背中を向け、俺は光まぶしい真っ白な世界へと飛び込んだ。




