第103話 さようなら、リコリス
「ちょっとネル。なんでリコリスがそのままなのよ」
「いやだって……」
地上に戻ると、アスカとリナが待っていた。
俺は何事もなかったかのようにやり過ごそうと思っていたのだが、アスカに気づかれてしまった。
隠し持っていた宝石。朝焼けのような水色と桃色のグラデーションが美しい石。そこには白のラインで魔法陣が描かれていた。
壊せるはずがなかった。
こんな過ごしやすいリコリスを失うなんて無理だった。
やると決めたはずだけど、いざ別れが近づくと……。
すると、黙っていたリコリスが俺に問いかけてきた。
「ネル様、なぜでしょうか……あなたといると、懐かしい気分になるのです」
「懐かしい?」
「はい。理由は分かりませんが、今までずっといたような気持ちになるのです」
はぁ……綺麗だ。
言葉遣いから、心のあり方から全て綺麗だ。
向けられた瞳にはまっすぐなハイライトが輝いていて……。
この人、本当に悪魔の兵器とか呼ばれていた人なのだろうか…………。
「リコリス……お前、やっぱり記憶を取り戻さなくていい」
「ネル様、涙が……どうされたのですか? 何かご無礼をはたらきましたでしょうか?」
「っ、うぅ…………」
このままのリコリスがいい。この礼儀正しいリコリスのままでいて欲しい。
お金はいくらでも出すからさ……トラブルを起こさないこの綺麗なリコリスでいて欲しい……。
俺はすがるようにリコリスの足元に抱きつく。
本当にこのままでいてほしい。戻したくない。
すると、呆れた顔を浮かべるアスカに足を引っ張られ、ずるずると引きずられ、リコリスから離される。
「ネル、いい加減離れなさいよ。見苦しいわ」
「……なぁ、アスカ、戻さないといけないか……俺はこの綺麗なリコリスがいいよ……」
「あんたの気持ちも分かるけど、このリコリス気持ちが悪いのよ。従順すぎて」
「気持ちが悪い、ですか……」
「そんな酷いことを言うなよ! この純粋無垢なリコリスは傷ついているぞ!」
「い、いや、あんたを傷つけたくって言ったわけじゃなくって……ああ、そんな目で見ないでちょうだい! あたしが悪かったわよ!」
無垢なリコリスに見つめられ、珍しく謝るアスカ。
「あの……ネル様、未来の私はどんな私だったのでしょうか?」
「無礼で、我儘で、問題児だな」
「…………その他は?」
「歩いて喋るたびにイベントが起きるトラブルメーカー」
「それはとんだご迷惑を。大変申し訳ございませんでした」
「いや、お前が謝るなよ。お前は悪くないからさ」
「なんか本当に……」
「綺麗だYO……」
「ぐぬぬぅ……」
俺と同じ感情なのか、静かに感嘆の声を上げるラクリアとリナ。メミはなぜかハンカチを口に咥えて引っ張っていた。
しかし、アスカからはため息が聞こえてきて。
「あんた、今のリコリスがよっぽどいいのは分かるけど、迷宮でも別れの挨拶はできたんじゃないの?」
「別れぐらい日の当たる場所でしたいだろ! 迷宮でなんてできねぇよ」
最後の別れになるのなら、あんなジメジメしたところよりも明るい場所の方がいい。
それに、これを壊せば、リコリスは元に戻ってしまう。
少しでもいる時間が欲しかった。
ああ、これを壊さずにいる方法とかないかな……。
ふと見れば、リコリスは上を見つめていた。視線を追って見上げれば、空には雲一つなく、透き通った青が広がっていた。
そして、そこに一羽、白い鳥が飛んでいた。
気持ちよさそうに、風の赴くまま、気の向くままに自由に飛んでいた。
「ネル様、未来の私は我儘だと言いましたよね」
「ああ」
「考えたのですが、未来の私はそれだけあなたに甘えているのかもしれません」
「あいつが俺に、か?」
「ええ。兄様にも我儘は言えませんし、私には甘える権利などありませんから」
「兄にすら甘えれないのか?」
「…………ええ。兄に甘えるというのがどうにも分からなくって」
妹は兄に甘えるもの。
メミがいたから、俺はてっきりそういうものだと思っていたけど、リコリスの兄妹関係はそうでないらしい。
まぁ、『兄様の命令は?』と起きて早々聞くやつだ。普通の家庭ではなかったはずだ。
だからこそ、自由に生きている今のリコリスが俺に甘えられている……。
「なるほど、あなたを懐かしく感じたのはこういうことでしたか」
「お前、さっきから懐かしくって言ってるけど、それってどういう……」
過去のリコリスとは一度も会ったことがないはずだが……。
しかし、リコリスはにこりと笑って頷く。
「はい、今の私にはあなたと過ごしていると妙な安心感といいますか、ノスタルジックな気分になるといいますか」
「へぇ、お前にもそんな感情があるんだな」
「はい、不思議です。感情など湧き上がることなんて、ありませんでした」
リコリスはそっと胸に手を当て目を閉じる。さらりと風が吹き、黒髪がなびく。
その姿はいつもの暴れん坊悪魔とは別人。絵画から飛び出してきたような美しさだった。
とくっ、とくっと心臓の音が高鳴る。
相手はリコリスだというのに、なぜこんなにもドキドキしてしまうのか。
「はぁ……なんで冷静なお前が、我儘悪魔女に変わっちまったんだろうな」
「記憶がないので正解は分かりませんが、きっと未来の私は何かを得たのだろうと思います」
「何かって?」
「それは分かりません。すみません。でも、何かを得たからこそ、兄様の命令に背むいたのだと、今の私は考えてます」
「なぁ…………やっぱりさ、呪いを解くのやめにしないか」
しかし、リコリスは俺が持っていた宝石をそっと手に取り、両手で優しく持つ。
「すみません、私はそれに賛同できないようです」
「…………」
「そんな顔をなさらないでください、ネル様。あなたと過ごしたこの記憶が完全に消えるわけではありません。本来のリコリスの中の片隅にきっと刻まれることでしょう」
「リコリス……」
暴走した時のリコリスは獰猛な動物に見えた。クローバー・スノードロップと対峙した時は殺戮者のようだった。あれが過去のリコリスの姿だと思っていた。
でも、記憶を失くしたコイツは、こんなにも穏やかで……。
「では、未来で会いましょう、ネル様」
赤のメッシュが入った艶やかな黒髪が柔らかい横風に大きくなびく。
くるりと翻った少女は、俺に向かって笑みを見せる。
花火のような弾けた笑みではない。
小道に咲く花のような笑みだった。
「夢の終わり」
柔らかな声で詠唱するリコリス。スカイブルーと桃色のグラデーションが美しいその宝石の輝きが増していく。
聞いたことがないその魔法はきっと裏世界で生み出されたものなのだろう。
ああ…………裏世界の話はあまり聞けてなかったな。
もっと話を聞きたかったな。
「ああ、最後に――どんな者であろうと、どうか未来の私も見放さないでやってください」
…………惜しいな。
こんなリコリスを知らなければ、複雑な感情を持つことはなかったのに。
「ああ、分かったよ。じゃあな、リコリス」
「はい、さようなら」
宝石の光が広がり、視界が白に染まっていく。
俺は腕で顔を覆うが、それでも光が防げず目を瞑る。
「ありがとうございました、ネル様――――」
その声が聞こえた後、光は徐々に弱まっていった。
俺はそっと目を開く。リコリスは目を閉じたまま立っていた。
だが、突如魂が抜かれたようにリコリスの身体は力を失い、彼女の両手から宝石がぽろりと落ちていく。
「……おっと」
倒れこむリコリスを、俺は手を取り抱き留める。宝石も割れぬよう、片手で掴んでいた。宝石の表面に描かれた魔法陣はもうなかった。
「最後まであんな言葉を……すごくいいリコリスだったわね……」
「今のリコリスさんがあんなになってしまったのが不思議だYO」
「少し寂しいな……」
「ええ。悔しいですけど、最後にあんな言葉を……あぁ、卑怯ですわ……」
他の四人も惜しそうにリコリスへの思いをこぼす。
何度か瞬きをし、右へ左へと首を振り、周囲を確認していく。
そして、ようやく目覚めたのだが――――。
「変態ッ!!」
怪物に戻った女は拳を振るい、俺の頬に綺麗にクリーンヒット。
即座に回復魔法をかけたから良かったものの、危うく気絶するところだった。
「おい! リコリス! いきなり殴るなよ! 痛いだろうが!」
「近くに顔が見えたらびっくりしたのよ! 私に変なことしてないわよね!?」
「してねぇよ!! 誰が……誰があんな子を……」
あんな純粋で心が綺麗な人に何ができようというのか。
触れるのですら、おこがましい。最後は足に抱きついてはいたけれどさ。
「そんなのできるわけない、だろ……」
「――――は? なんでネルが泣いてるの……?」
「そっとしておいてやって。多分失恋だから」
「っ、失恋じゃねぇよ……」
「失恋ってどういことよ? ねぇ、どういう状況なのか教えてほしいんだけど……って、みんな泣いてるじゃない!? どうしたのよ!! ちょっと誰か教えてよ―――ッ!!」
皆が涙をこぼす中、リコリスだけがうるさく叫んでいた。
――――ああ。本当に大違いだ。
また昔のリコリスに会えたらいいな…………。




