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トランス・パレント・ストライク ―神宿る左腕ー  作者: のんぐら
やがて世界は怒りに満ちる
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やがて世界は怒りに満ちる(4)

 リヒターは体感時間で5年前のように、アイシャ暦で言えば55年前のように森の中を駆け回り、拾った木の棒を石で削った即席の槍を振り回していた。4足歩行の食用に適した動物を探すためであった。ブランクもあり悪戦苦闘したが、それでも1時間足らずで1頭のトリャシャクフ(角の生えた緑の毛並みの四足獣。肉は柔らかく美味だが火を通さないと毒性があることがある)を仕留めた。

 リヒターが急ぎ足で川辺に戻ると、出掛けて行ったときと変わらず膝を抱えたままぼんやりとしているナハトがいた。

「ごめん、おまたせ」

 石を使ってトリャシャクフの関節を砕き、血を抜き、皮を引っぺがし、内臓を取り出した。そこで一度リヒターは木を拾い集め、火を起こした。剥がした皮を皿代わりにし、肉を食べやすい大きさにばらしていく。拾った枝を川でよく洗い、肉に突き刺すと、火のそばに突き立てて焼き始めた。

 やがて脂の焼ける匂いが周囲を包み始める。ナハトは膝を抱えたままだが、たき火の方向に顔を向けている。

 生木の爆ぜる音に混じって、肉の脂もぱちぱちと音を立てている。日はちょうど真上に来ていた。


 味付けもない、単なる焼いただけの肉を食べるだけの食事だった。だが、ナハトにとって実に三日ぶりの固形物。ひと口目こそ胃が悲鳴をあげるような激痛を感じたが、それでも肉に貪り付くことはやめられなかった。

「落ち着いたら行こうか。近くの村や町に行きたい」

 リヒターは食べきれなかった肉を一か所にまとめている。やがて野生の動物がやってきて食べてくれるだろう。このあたりの森は一か所の例外を除いて動物が豊かに暮らしている。人々の恵みになっている。自然の営みとはいつでも完璧な秩序を保っているが、そこに人間が介入することで破壊される。トリャシャクフも数がだいぶ減ってしまった。リヒターの知るトリャシャクフは森で5分も歩けば4~5頭のグループに出くわすほど数がいた。だが、リヒターの知らない40年はトリャシャクフを狩り放題狩ったようだった。デグラバオル帝国内での高級食材として人気が出たという話はトルア村の猟師がぽつりと漏らしたのを聞いた。帝国が圧迫したのは人間だけではなかった。

 やがてリヒターが立ち上がると、ナハトも立ち上がった。リヒターはかつてエルソンの病院でそうしたように、ナハトに左腕を掴ませた。

「ゆっくり行こう。急ぎの旅じゃないし」

 ナハトが頷いたのを確認して、リヒターは宣告通りゆっくりと歩き出した。


 かなりゆったりと歩いていたが、日が暮れるころには壁が見えて来ていた。人が集まるところを防御するための壁だ。石造りの堅牢な壁であることは遠目にもよくわかった。

「よかった。今夜はここで夜を過ごせそうだね」

 リヒターは未だに眠気を感じない。もう自分の体がおかしいことは理解している。だが、そのおかしさがどれほどのものなのか、その全容が全く把握しきれていない恐怖に近い感覚は常に心の奥底に沈殿していた。だが、なんとなく「今夜も眠りを必要としないのではないか」という予感がした。それはつまり、夜通し周囲を警戒しなくてはいけないということ。

 トリャシャクフの狩りで気づいたが、肉体は全く疲れずとも、精神の疲弊からは逃げられなかった。探せども探せども獲物のひとつも見つけられない時間は、リヒターに焦燥や苦痛などのストレスを植えつけるのに充分だった。それに。

(戦いのプロでもなければ旅慣れているわけでもない僕と野宿っていうのはそれだけでも危険だと思う)

 街があったことは僥倖だった。

 それはリヒターも素直に感謝している。少なくとも雨風をしのげるところで休める可能性が高まる。

 だが、それは通常、人々がある程度の共通の社会性を保っている共同体での話だ。


 リヒターたちたどり着いた街。門番が建っているはずの門は開け放たれ、詰所にも人の気配はない。リヒターには2つの嫌な予感がした。ひとつはもう廃墟になった街だということ。この場合でも最悪の場合は屋根の下で休める。もうひとつ。

(門番のいらぬ街、か)

 「門番のいらぬ街」という言葉がある。オルシャータ帝国の王様の1人が、視察に訪れたある村でこう言った。

『どうしてこの村はこんなにも汚いのだ!?村じゅう異臭を放っているぞ!こんな村に門番はいらぬ!』

 と。

 オルシャータの民はあまりにひどい村を指して「門番のいらぬ村」「門番のいらぬ街」と揶揄した。リヒターはそのいやな感覚のまま進んだ。詰所は灯りもついていない。門の向こうの街は灯りの漏れる建物がいくつも見えたため、廃墟ということはないように思えた。

(このまま入って大丈夫だろうか。ナハトもいるいま、無茶はしないほうが…)

リヒターは注意深く周囲を見回しながら歩いた。左肘を掴むナハトの手の感覚が鋭敏に伝わる。切り落とされたはずの肘が、生身の頃よりも感覚を脳に伝えているのがわかってきていた。左の眼も視力が上がっており、日が暮れ夜になった今でもかなり遠くまで見ることが出来る。灯りの漏れる建物が散見されるが、メインストリートは暗闇に浸かっている。2人はひとまず人の声がする方へ歩いて行った。

 寂れきった店構えの酒場のまえで、リヒターは血の気が引いた。地面より高く作られた入り口の扉は砕け、煌々と明かりが漏れている。窓もところどころ割れており、店内の様子が良く見えた。

『ガハハハハハ!!』

 大きな笑い。野卑で下卑た、何かを激しく嘲笑する声が響いた。それは1人ではなく、数人の男たちがなにかを笑っているような声。

「行こう」

 リヒターが立ち去ろうとした。ナハトは小さく「うん」と返事をしたが、その返事はかき消された。

 砕けている入り口から、人間が1人飛び出てきた。凄まじい勢いに、思わずリヒターはナハトを庇うように動いた。

「ううう」

 リヒターの前に転がったのは、禿頭の初老の男だった。腹を抑えてうめき声を上げている。思わずリヒターは彼に駆け寄った。

「大丈夫ですか!?」

 しかし男はその問いには答えず、店の入り口を指差しながら詰まった息の隙間から言葉を吐きだした。

「孫を、中に、孫が」

 リヒターは既に立ち上がっていた。

「ナハト、おじさんを見ていて」

 無茶を言っているのはよくわかっている。だが、いまはそれどころではない。それは地面に転がる男の様子を見れば誰だってわかるだろう。

「わかった」

 明瞭なナハトの返事。その顔を見ることもなく、リヒターは砕けた扉に踏み込んでいった。


 酒場の中では、カウンターテーブルに座る体格のいい男が、10歳にもならないような少女の襟をつかんで持ち上げている様子だった。そしてそれを見て笑う男女が6人。7人の大人が集まり、1人の少女を辱めて娯楽としている。

 1枚ずつ服を脱がされたらしく、周囲には靴やズボンが散らばり、残るはシャツ一枚だけになっていた。

「はなせよ!やめろよ!」

 泣きながらも少女は手足を振り回して抵抗している。だが、そんなものは岩石に説教するようなものだ。

「うるせえガキだ」

「ははは、殴って黙らせようぜ」

「お前が殴ると大抵二度と喋らなくなるからやめろ」

 リヒターは頭の中から思考が消え失せたのを自覚した。口から飛び出したのは、完全に無意識のセリフだった。

「帝国の人間か?」

 カウンターの男がゴミを見る目でリヒターを睥睨した。その頭には髪の毛は生えておらず、対照的に耳から下が髭に覆われている。頭頂部から目を横切るように入れ墨が入っており、非常に威圧的な外見をしていた。

「ちげえよ、バカか」

「そうか、その子を放せよ」

 入れ墨の男はリヒターの言葉に対して怒ったようだった。

「テメェなぁ…」

 背中に背負っていたロングソードが抜かれた。同時に少女は床に放りだされ、転がった。立ち上がった男は、リヒターより頭ひとつ大きい。

「死ね」

 いきなり斬りかかってくる。袈裟斬りに振り下ろされた切っ先は、後ろに1歩下がったリヒターの鼻先を掠めた。そのまま男は踏みこみ、逆袈裟に斬りあげてくる。同様に避けると、今度はロングソードが振りぬかれた瞬間にリヒターが踏み込んだ。顔面に右拳をねじ込む。

 男が呼吸を漏らしながら体をよろめかせる。が、すぐに体勢を整えた。

「やってくれんじゃねえか」

 にやりと笑った男は、剣の腹を左手に打ちつけながら話し出した。

「テメェ、なんだ?帝国に恨みがあんのか?」

 リヒターは無言で男を見つめた。挙動をひとつだって見逃さないよう。剣を振り回し始めた男がいるせいで、先ほど放り出された少女はその場から動けなくなっている。

 ナハトに連れ添られ、初老の男が入り口から様子を覗いている。

「だんまりか。ハッ。まぁどうでもいいんだがな」

 男が一歩左に動いた。リヒターの体が反応した。だが。

「八つ当たりで殴られちゃたまったもんじゃねえよ、なぁ!」

 男のロングソードが少女の背中、右の肩甲骨辺りから左の骨盤あたりまでをざっくりと斬った。

「アアアアアアアあああっ!!!!」

 少女の悲鳴。いや、断末魔の叫びになるかもしれない。それほど深い傷だった。

 リヒターはこちらに背を向ける男に飛び込んでいた。


 イメージする。痛烈なイメージ。消えた思考が、イメージを生むのを助ける。飛沫のひとつぶまでくっきりと、スローモーションで脳裏に描かれたのは、


"入れ墨男の頭が吹き飛ぶ”


 という光景。

 引き絞られた弓のようにしなる背筋。

 照準を合わせる矢じりのように突き出された右腕。

 左眼が緑白色に輝く。

 肩の横で握られた左拳も全く同じ輝きを放っている。

 右足が床板を砕かんばかりに踏み込まれ、その場にいた者が視認できないほどの速度で左拳が男の頭部に叩き込まれた。


 そうして、入れ墨男の頭部はリヒターの脳裏に描かれた光景とぴたりと一致した結末を迎えた。



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