第9話 2回目の男
瀬尾と別れたあと、玲司と葵は歌舞伎町の人混みへ戻った。
地下のクラブから離れるにつれて音楽は聞こえなくなったが、玲司の脇腹にはまだ鈍い痛みが残っている。葵も、さっきまでギアを使って戦っていたせいか、いつもより口数が少なかった。
しばらく歩いたところで、玲司が先に口を開いた。
「結局、分かんなかったな」
「何が?」
「ギアの出どころだよ」
「瀬尾は売ってたじゃん」
「その瀬尾が、誰から来てるのか知らねえんだろ」
名前も顔も知らない相手から、匿名のメッセージで指示だけが届く。瀬尾を問い詰めて分かったのは、それだけだった。
玲司は歩きながら脇腹を軽く押した。
「殴られてまで聞いた結果が、知らねえ、だからな」
「弱いからでしょ」
「まだ言うか」
「見学してていいって言ったじゃん」
「お前が先に俺を前へ出したみたいに言うな」
葵は少し笑った。
二人はそのままトー横の方へ向かった。この時間になると、映画館脇の辺りにも若者が集まっている。地面に座ってスマートフォンを触る者もいれば、数人で騒ぎながら飲み物を回している者もいた。
葵には見慣れた場所だったが、今夜はここへ戻ってきたところで、次に何をすればいいのか分からない。
玲司が周囲を見回した。
「で、これからどうする?」
「知らない」
「お前、そればっかりだな」
「じゃあ、あんた考えてよ」
「人を辿っても瀬尾で切れたしな」
葵にも答えはなかった。
ギアを最初に手に入れた男は、名前すら知らない。瀬尾も供給元を知らず、歌舞伎町で薬が出回っていることだけは分かっているのに、その先へ進もうとすると道が消えてしまう。
「一回、仕切り直すか」
玲司がそう言ったとき、人混みの向こうから男の大きな声が飛んできた。
「――ミオちゃん?」
その呼び名を聞いた瞬間、葵の足が止まり、玲司も声のした方を振り返った。
「今、ミオって言った?」
「……聞こえた」
「知り合い?」
「たぶん」
「たぶん?」
葵が答える前に、男がこちらへ歩いてきた。
二十代半ばくらいで、少し酔っているらしく頬が赤い。肩には黒いバッグを掛け、シャツの袖を肘までまくっている。
葵の前まで来ると、男は嬉しそうに笑った。
「やっぱりミオちゃんじゃん」
葵の顔がわずかに引きつる。
「……久しぶり」
「久しぶりっていうか、この前ぶりだよね?」
玲司は二人を交互に見た。
「誰?」
男もようやく玲司に気づいた。
「あれ、彼氏?」
「違う」
葵が間を置かずに否定すると、玲司が嫌そうな顔をした。
「またそれかよ」
「違うんだから仕方ないでしょ」
男は二人のやり取りに首を傾げながらも、玲司へ軽く頭を下げた。
「三枝直人です」
「黒瀬玲司」
互いに名乗ったところで、三枝が改めて葵を見た。
「この前さ、悪かったね」
「何が?」
「俺、途中から全然覚えてなくて」
玲司の眉が動いた。
「途中から?」
「ホテル入ったあと、飲みすぎてたみたいで寝ちゃったんだよね。気づいたら朝で、ミオちゃんもいなくなってて」
玲司がゆっくり葵を見ると、葵は露骨に目を逸らした。
「……お前」
「何」
「こいつ、もしかして」
「二回目」
「何が二回目?」
話についていけていない三枝が、玲司と葵を交互に見る。
玲司は葵へ向き直った。
「殴ったの?」
「殴ってない」
「本当に?」
「寝てたから」
三枝も頷いた。
「うん。たぶん何もされてないと思う」
「たぶんって」
「覚えてないから」
玲司は呆れて額を押さえた。少なくとも、三枝に暴力を振るってはいないらしい。
そこで三枝が、何か思い出したように口を開いた。
「あ、でも一個だけ変なことあったんだよね」
葵の肩がわずかに固くなる。
「何ですか」
玲司が聞く。
「財布から一万円なくなってて」
葵が黙った。
玲司もすぐには何も言わなかった。
三枝が二人の顔を見比べる。
「……え?」
玲司はゆっくり葵の方を向いた。
「お前だな」
「知らない」
「今の間で分かるわ」
「証拠ないじゃん」
「お前、都合悪くなるとすぐとぼけるよな」
「何の話?」
「ほら、それだよ」
三枝は困惑したまま二人を見ていたが、やがて葵へ確認するように聞いた。
「え、ほんとにミオちゃん?」
葵はしばらく黙っていたものの、玲司と三枝の両方から見られ、諦めたように肩を落とした。
「……一万だけ」
「だけじゃねえよ」
「財布は置いてった」
「そこ褒めるところじゃないからな」
三枝は驚いてはいたものの、怒鳴ったり責め立てたりはしなかった。
「やっぱりそうだったんだ」
「ごめん」
葵が小さく謝ると、玲司がすぐに口を挟んだ。
「返せ」
「今ない」
「は?」
「だから、今ほとんど持ってない」
「今日働いてただろ」
「だからって現金持ってるとは限らないでしょ」
「お前、朝も俺の財布から金抜いたよな?」
「あれは朝飯」
「今その話すると余計腹立つな」
玲司は自分の財布を取り出して中を確認すると、一万円札を一枚抜いた。
「すみません。これ」
三枝へ差し出すと、今度は葵が玲司を見る。
「なんであんたが払うの」
「俺も今それ思ってんだよ!」
「私、あとで返すから」
「絶対返せよ」
「分かったって」
「朝飯代もな」
「細かい」
「人の金で言うな」
三枝は差し出された一万円札を受け取りながら、なぜか申し訳なさそうな顔をした。
「なんか、俺が悪いみたいになってない?」
「なってません。完全にこいつが悪いです」
玲司は即答した。
*
三人は近くのファミリーレストランへ入った。
三枝は研究室の飲み会である程度食べてきたらしく、コーヒーだけを頼んだ。玲司は遅い夕食を注文し、葵もメニューを眺めた末に軽い料理を選んだ。
注文を終えると、三枝が改めて二人を見る。
「それで、ミオちゃんたちは何してたの? こんな時間に」
「いろいろ」
「その説明で済む?」
「済ませたい」
玲司が水を飲みながら口を挟んだ。
「三枝さんこそ、歌舞伎町で何してたんですか」
「研究室の飲み会。ラボのメンバーで飲んでたんだよ。俺だけちょっと先に出てきた」
「大学院生なんですか?」
「うん」
玲司の手が止まった。
「何の研究してるんです?」
「有機化学」
「……有機化学?」
その言葉を聞いた瞬間、玲司の顔つきが変わった。
葵はまだ意味が分かっていないらしく、二人を見比べている。
「そう。まあ、言っても分かんないと思うけど」
「薬とかも分かる?」
三枝が少し首を傾げた。
「薬?」
玲司が葵を見る。
そこで葵も、ようやく何を考えているのか気づいた。
「あ」
「今気づいたのかよ」
「だって知らなかったし」
「お前、この人の財布は開けたのに、何してる人かは聞かねえの?」
「寝てたんだから聞けないでしょ」
「金抜く余裕はあったのにな」
三枝は二人のやり取りを見ながら、ますます分からない顔をしている。
「何の話?」
玲司は少し迷ってから、周囲に聞こえない程度まで声を落とした。
「実は、ちょっと見てもらいたいものがあるんです」
「俺に?」
「はい。薬なんですけど」
三枝の表情が変わった。
「薬って、普通の?」
「たぶん普通じゃないです」
「それ、一番困るやつなんだけど」
三枝は椅子の背にもたれた。
「何なの?」
葵が答える。
「ギアって呼ばれてる」
聞き覚えがないのか、三枝は眉を寄せた。
「ギア?」
「歌舞伎町で出回ってる薬」
「合法?」
「分かんない」
「成分は?」
「分かんない」
「誰が作ってるの?」
「それも分かんない」
三枝はしばらく黙ったあと、困った顔で玲司を見た。
「分かんないしかないじゃん」
「だから困ってるんです」
「いや、そういう問題じゃなくて」
三枝は額に手をやった。
「正体不明の薬なんて、簡単に触れないよ。まして研究室に持ち込むとか無理だからね。バレたら俺が何やってんだって話になるし」
「そこを何とか」
「無理無理」
三枝はすぐに首を振った。
「俺、そういう危ないことするために大学院行ってるわけじゃないから」
玲司も、これは無理に押せる話ではないと思った。
「ですよね」
「諦めるの早くない?」
横から葵が言う。
「お前が言うな」
「だって、この人しかいないじゃん」
三枝が嫌な予感でもしたように葵を見た。
「ミオちゃん?」
葵は椅子から少し身を乗り出すと、三枝の隣へ寄り、その片腕を両手で包むように掴んだ。
玲司が目を細める。
「おい」
葵は聞こえなかったふりをした。
「直人」
「え?」
さっきまでのぶっきらぼうな声が消え、三枝を見る目まで柔らかくなる。
「お願い」
「いや……」
「直人しか頼れる人いないの」
三枝の顔が、分かりやすいほど固まった。
玲司は呆れながら二人を見る。
「お前、その顔できんのな」
「黙ってて」
「店で客にやってるやつだろ、それ」
「違うから」
「絶対そうだろ」
三枝は葵に腕を掴まれたまま、どうすればいいのか分からないように視線をさまよわせた。
「でもさ、本当に危ないものだったら――」
「だから調べてほしいの」
「いや、そうなんだけど」
「お願い」
葵がさらに少しだけ距離を詰める。
三枝は数秒耐えていたが、やがて諦めたように深く息を吐いた。
「……分かった」
玲司が思わず三枝を見る。
「いいんですか?」
「全部は無理だよ」
三枝はすぐに釘を刺した。
「何が入ってるか全部突き止めるとか、そういう約束はできない。研究室に勝手に持ち込むのも無理。俺にできる範囲で確認するだけ」
その言葉を聞いた瞬間、葵は三枝の腕から手を離した。
「やった」
三枝が目を瞬く。
「切り替え早くない?」
玲司が笑った。
「完全にやられましたね」
「言わないで」
「ミオちゃん……」
「何?」
「いや、もういい」
料理が運ばれてきても、三枝はしばらく納得していない顔をしていた。
それでも一度引き受けると言った以上、撤回するつもりはないらしい。コーヒーを一口飲んでから、三枝はテーブルを指先で軽く叩いた。
「で、その薬は?」
玲司と葵が同時に動きを止める。
「持ってるんだろ?」
「うん」
葵は足元のバッグを引き寄せ、ファスナーを開けた。
中から小さなケースを取り出す。
玲司は黙ってその手元を見ていた。
葵が蓋を開け、縁に切れ込みのある灰色の錠剤を一つ取り出すと、三枝が差し出した掌へ静かに落とした。
さっきまで葵に振り回されていた軽い表情が消え、三枝は掌の上の錠剤をじっと見つめる。
「……これが、ギア?」




