第10話 逃走犯
渋谷区のマンションの一室で、戸倉慎吾はテレビの音を消した。
画面には、昨夜の歌舞伎町が映っている。
見覚えのあるホテルの入口には規制線が張られ、その前を警察官が行き来していた。壁が壊れ、警察官一人が負傷したこと。現場から男が逃走し、警察が身元を特定して行方を追っていることを、字幕が淡々と伝えている。
自分の名前までは出ていない。それでも戸倉には十分だった。
「クソが……」
リモコンをテーブルへ放る。その動きだけで左肩から腕に痛みが走り、戸倉は顔をしかめた。
ホテルを出てから、左腕がまともに上がらない。額にもまだ傷が残っているうえ、肩だけでなく背中や膝まで痛かった。
昨夜は、そんなものをほとんど感じていなかった。
警察官に腕を押さえられ、何人にも組みつかれた。壁へぶつかり、頭まで打ったのに、それでも止まろうとは思わなかった。
今になって、自分が何をやったのかが、身体のあちこちから痛みになって返ってきている。
「……何だったんだよ、あれ」
戸倉は左腕を腹の上に乗せた。
ギアを使ったこと自体は初めてではない。飲めば気分が上がり、余計なことがどうでもよくなる。普段なら躊躇うようなことでも、やれる気になる。
それは知っていた。
だが、昨夜は違った。
警察官が何人いようが、自分の腕がどうなろうが、本当にどうでもよかった。あのまま暴れ続けていたら、どこまでやっていたのか。
そこまで考えたところで、戸倉は舌打ちした。今さら考えたところで仕方がない。まずは警察に見つからないことの方が先だった。
この部屋は戸倉のものではない。以前、何かあったときに使えと言われていた一時的な潜伏場所だった。生活感は薄く、最低限の家具しか置かれていない。着替えと水、それに当面必要なものだけが用意されている。
助かったとは思う。
同時に、腹も立つ。
自分の家には戻れない。知り合いのところへ転がり込めば、そこから足がつくかもしれない。結局、こんな状況になっても頼れるのは、自分をあのホテルへ行かせた連中だった。
テーブルの端に置かれたスマートフォンを見る。
自分の名義ではない。連絡先もほとんど入っていなかった。
戸倉はしばらくそれを睨んでいたが、やがて右手で取り、登録されている番号の一つを選んだ。
数回呼び出したところで、男が出た。
『どうした』
挨拶もない。
「どうしたじゃねえだろ」
戸倉はソファへ深く座り直した。
「ニュース見たか」
『見てる』
「だったら分かってんだろ。警察が俺を探してる」
『お前の身元も割れてる』
戸倉の口が止まった。
予想はしていた。それでも、はっきり言われると腹の底が冷える。
「……どこまでだ」
『そこを気にするより、先に報告しろ』
「何を」
『女はどうした』
戸倉は黙った。
向こうも急かさない。その沈黙の方が、かえって癇に障った。
「逃げられたよ」
『そうか』
「そうかじゃねえよ。警察まで来たんだぞ」
『警察を呼んだのは女じゃない』
「分かってる」
『なら、予定どおり連れて出ればよかった』
「簡単に言うなよ」
戸倉は声を荒らげた。左肩にまた痛みが走ったが、構わず続ける。
「あの部屋にいた男も邪魔した。女も大人しく捕まる気なんかなかった。そこへ警察まで来たんだ。どうしろってんだよ」
『少なくとも、警察官を病院送りにしろとは言ってない』
戸倉の奥歯が噛み合った。
「あのままじゃ俺が捕まってた」
『だからギアを使った?』
「ああ」
『結果、もっと話を大きくした』
「じゃあ使わずに捕まれってのか」
『そんな話はしていない』
男の声は変わらない。怒鳴りもしないからこそ、戸倉の苛立ちだけが大きくなっていく。
「こっちは言われたとおり女を連れに行ったんだぞ」
『失敗したがな』
「……てめえ」
『事実だろ』
戸倉はスマートフォンを握る手に力を込めた。
今すぐ切ってやりたかった。だが、切ったところで行く場所がない。
警察には追われている。自宅にも帰れず、この部屋さえ自分で用意したものではない。
それが分かっているから、向こうも好きなことを言える。
戸倉は一度だけ目を閉じた。
昨夜のホテルが頭に浮かぶ。
細い女だった。自分たち三人で囲めば、連れていくこと自体は難しくないと思っていた。
それなのに、最初から妙な命令が出ていた。
殴るな。
傷つけるな。
大人しく連れてこい。
「なあ」
『何だ』
「なんであの女なんだよ」
電話の向こうが静かになった。
戸倉は続ける。
「ただのガキだろ。十八だか十九だか知らねえけど、なんであんな女一人にここまでやる」
『お前には関係ない』
「関係あるだろ。俺はそのせいで警察に追われてんだぞ」
『仕事を受けたのはお前だ』
「だから理由くらい教えろって言ってんだよ」
『必要ない』
「傷つけるなって言ったのも、何か理由あんだろ」
男は答えなかった。
「金でも持ってんのか。誰かの娘か?」
『詮索するな』
「じゃあ何なんだよ」
『シンゴ』
仲間内でしか呼ばれない名前を低い声で呼ばれ、戸倉は口を閉じた。
『お前の仕事は、言われた相手を連れてくることだ。理由を考えることじゃない』
「その結果がこれだろ」
『次は失敗するな』
戸倉は鼻で笑った。
「次?」
『そうだ』
「まだ俺にあの女追わせる気かよ」
返事はなかった。
戸倉はテーブルの水を取ろうとして左手を伸ばしかけ、痛みに顔を歪めた。右手でペットボトルを取り、半分ほど一気に飲む。
「だったらギア寄越せ」
『駄目だ』
即答だった。
戸倉はペットボトルを口元から離した。
「は?」
『もうお前には渡さない』
「ふざけんなよ」
『昨夜の結果を見て、それでも渡すと思うか』
「俺があれ使わなかったら捕まってたんだぞ」
『使った結果、警察官を負傷させて、ホテルの壁まで壊した』
「俺一人で壊したわけじゃねえ」
『そういう問題じゃない』
さっき自分が言ったような言葉を返され、戸倉は眉を寄せた。
「じゃあ俺にどうしろってんだよ。この腕で動けって?」
『動けるだろ』
「見てもねえくせに言うな」
『本当に動けないなら、今そこにいない』
戸倉は何も返せなかった。
男は少し間を置いてから続けた。
『それに、いつまでもその部屋には置けない』
戸倉の表情が変わった。
「何だと」
『警察がどこまで追ってくるか分からない。場所を変える必要がある』
「なら次を用意しろよ」
『仕事を片づけたらな』
戸倉はスマートフォンから耳を離しかけ、また戻した。
「……まだ何かやらせる気か」
『一つある』
「俺、今警察に追われてんだぞ」
『だから早く終わらせろ』
あまりにも簡単に言われ、戸倉は笑いそうになった。
ここまで来れば、自分が心配されているわけではないことくらい分かる。使えるなら使い、使えなくなれば捨てる。たぶん、その程度だ。
だが今は、その連中に頼るしかない。
「終わったらどうすんだ」
『次の場所は用意する』
「金もだ」
『結果次第だ』
「……クソ野郎」
『聞こえてるぞ』
「聞かせてんだよ」
男はそれには反応せず、代わりに知らない名前を口にした。
『瀬尾拓真』
「誰だ、それ」
『歌舞伎町でギアを流してる一人だ』
戸倉は眉を寄せた。名前に覚えはない。
「そいつがどうした」
『数が合わない』
「何の」
『ギアだ』
戸倉は黙った。
『渡した数と、流した数が合っていない。何度か抜いてる』
「自分で使ってんのか?」
『そこまでは知らない』
「じゃあ売ったか」
『それも分からない』
男の声が少し低くなった。
『だから確認しろ』
「俺が?」
『瀬尾が抜いた分を全部回収しろ。一錠も残すな』
戸倉は痛む左腕を見下ろした。
「今度は薬の回収屋かよ」
『嫌なら構わない』
「……その場合は?」
『その部屋から出てもらう』
戸倉の顔から笑いが消えた。
行く場所がないことを、向こうは分かっている。
戸倉はしばらく何も言わなかった。テレビでは、また歌舞伎町のホテルが映っている。音を消しているせいで、画面の中の警察官たちは何も喋らない。
「瀬尾拓真だったな」
『そうだ』
「薬を回収したら終わりか?」
電話の向こうで、ほんの少し間があった。
戸倉は黙って、その先を待つ。
「瀬尾本人はどうする」
男が答えた。
『処分しろ』




