第11話 処分
歌舞伎町の地下から、重い低音が漏れていた。
階段を上がってくる客が扉を開けるたび、音楽と人の声が一緒に通りへ流れ出し、閉まるとまた遠くなる。
戸倉慎吾は向かいのビルの陰に立ち、入口を見ていた。
渋谷の部屋を出る前に着替えてきたが、服の下に残った傷まで消えるわけではない。左腕はまだまともに上がらず、少し歩くだけで肩が重くなった。
こんな状態で次の仕事をやらせる連中も大概だと思う。それでも、断るという選択肢は今の戸倉にはなかった。
戸倉は右手のスマートフォンに表示された写真を、もう一度確認した。
短い金髪に、耳にはいくつものピアス。鼻にも一つある。
瀬尾拓真、二十三歳。歌舞伎町でギアを流している人間の一人で、渡された数と実際に流した数が合っていないという。
「馬鹿が」
自分で使ったのか、どこかへ流したのかは知らない。どちらにしても、上から見れば同じなのだろう。
しばらく待っていると、地下へ続く扉が開いた。数人の男女が笑いながら出てきて、その少しあとに、金髪の男が一人、スマートフォンを見ながら階段を上がってくる。
戸倉は写真と見比べるまでもなかった。
耳のピアスが街灯を反射し、顔を上げた瞬間には鼻のリングまで見えた。瀬尾拓真で間違いなかった。
瀬尾は周囲を気にする様子もなく、そのまま大通りの方へ歩き出す。
戸倉もビルの陰から出た。左肩をかばいながら、人の流れに紛れて瀬尾との距離を保つ。
男一人を見失わないことよりも、自分が警察に見つからないことの方が厄介だった。ホテルの事件から、まだ大して時間は経っていない。
戸倉は周囲を何度か確認しながら、瀬尾が人通りの少ない方へ曲がるのを待った。
大通りを離れ、雑居ビルの間へ入ったところで声をかける。
「瀬尾拓真」
瀬尾の足が止まった。
振り返った顔には、最初は単純な疑問しか浮かんでいなかった。
「……誰?」
戸倉は答えず、数歩近づいた。
瀬尾がスマートフォンを下ろす。
「俺に何か用?」
「ギア」
その一言で瀬尾の表情が変わり、戸倉はそれを見逃さなかった。
「話が早そうだな」
「何のことだよ」
「今さらとぼけんな」
戸倉がさらに近づくと、瀬尾は一歩下がった。クラブから出てきたときとは違い、急に周囲を気にし始める。
「誰だよ、あんた」
「それ、お前が知る必要あるか?」
「意味分かんねえよ」
「分かってる顔してるぞ」
瀬尾は答えなかった。
逃げるか、このまま話を続けるか迷っているのが分かる。
戸倉が右手をポケットへ入れると、瀬尾の目がそこへ動いた。何かを取り出すつもりはなかったが、それだけで十分だったらしい。
「渡されたギア、数が合ってねえんだってな」
瀬尾の顔から血の気が引いた。
「……何で」
「何で知ってると思う?」
「待てよ」
「何を待つんだよ」
「違うんだって」
「まだ何も聞いてねえぞ」
瀬尾が口を閉じた。
戸倉は思わず笑った。
「自分で喋ってんじゃねえか」
「いや、だから……ちょっとだけなんだよ」
「何が」
瀬尾はすぐには答えなかったが、もう誤魔化せないと思ったのか、苛立ったように髪をかき上げた。
「最初は、本当にちょっとだったんだよ。余った分を――」
「余ってねえよ」
「分かってるって!」
瀬尾の声が大きくなった。
自分でも気づいたらしく、すぐに周囲を見回す。
戸倉は声を落とした。
「自分で使ったか」
「……少し」
「それだけ?」
瀬尾は目を逸らした。
その反応だけで十分だった。
「お前、本当に馬鹿だな」
「返せばいいんだろ」
「あるならな」
「あるよ」
今度の返事は早かった。
瀬尾はジャケットの内側へ手を入れた。
戸倉の体が反射的に強張った。ホテルでの一件以来、人がポケットへ手を入れるだけで余計なことを考えるようになっていた。
瀬尾が取り出したのは、小さなケースだった。
「これ」
「投げろ」
「何でだよ」
「いいから投げろ」
瀬尾は不満そうな顔をしたものの、ケースを放った。
戸倉は右手で受け取る。
蓋を開けると、中には灰色の錠剤が入っていた。ホテルで自分が飲んだものと同じ形だった。
戸倉は一瞬だけそれを見つめ、蓋を閉じる。
「これで全部か」
「そうだよ」
「本当に?」
「本当だって」
瀬尾が少しだけ安心した顔をした。
「じゃあ、もういいだろ」
「何が」
「返したんだから」
「返した?」
「残ってるの渡しただろ」
瀬尾は戸倉の顔を窺いながら、ゆっくり後ろへ下がった。
「俺、もうやらねえから。売るのもやめる。だからこれで――」
「お前さ」
戸倉が遮った。
「俺が誰に言われて来たと思ってんの?」
瀬尾の足が止まった。さっきまで残っていた強がりが、そこで消えた。
「……上の人?」
「さあな」
「待ってくれよ」
「俺に言うな」
「ちゃんと返しただろ」
「俺に言うなって」
その言葉を口にした途端、戸倉は嫌な気分になった。
昨夜の自分も似たようなものだった。言われた仕事をやって失敗し、警察に追われることになった。それでも向こうは事情など聞かず、次の仕事を押しつけてきた。
目の前の瀬尾も、今は必死に自分が助かる理由を探している。
「頼むって」
瀬尾が近づいてくる。
戸倉は右手を上げた。
「来んな」
「話してくれよ。金なら返すし、薬だってもう――」
「俺が決めてると思ってんのか?」
瀬尾が黙った。
戸倉はその顔を見た。
二十三歳の瀬尾は、少し前までクラブで遊んでいたはずなのに、今は何を言えば助かるのか必死に考えている。
それでも、ここで命令を無視するつもりはなかった。
戸倉はケースをポケットへ入れた。
「行くぞ」
瀬尾が顔を上げた。
「どこに」
「ここじゃ人が多い」
「待てよ」
「騒ぐな」
「何する気だよ」
戸倉は答えなかった。
答えない方が、瀬尾にはかえって伝わったらしい。
「おい……」
瀬尾の声が震えた。
戸倉は一度だけ周囲を確認し、歩き出した。
瀬尾はその場に残ろうとしたが、戸倉が振り返ると、しばらく迷ったあとについてきた。
「本当に全部返したんだぞ」
戸倉は返事をしない。
「もうやらない。マジで」
そのまま前だけを見る。
「聞いてんのかよ」
「聞いてる」
「だったら――」
「だから俺に言うな」
それ以上、瀬尾は何も言わなかった。
二人は歌舞伎町の明かりから離れていった。
*
どれくらい時間が経ったのか、戸倉自身にも分からず、時計を見る気にもならなかった。
戻る前に、瀬尾の持ち物は一通り確認した。何があとで必要になるか分からない。使えそうなものだけは戸倉の手元に残してある。
渋谷区の潜伏部屋へ戻った頃には、左肩の痛みがさらに酷くなっていた。瀬尾の姿はなく、命令された仕事だけは終わっている。
戸倉はドアを閉め、壁へ背を預けた。しばらくそのまま立ってからテーブルまで歩き、瀬尾から回収したケースを置く。
蓋を開け、中の錠剤をテーブルへ並べてみた。
「……こんだけか?」
瀬尾が何度かギアを抜いていたと聞かされていた割に、目の前の錠剤は思っていたより少なく見えた。
ただし、戸倉は瀬尾が正確に何錠抜いたのかまでは知らされていない。これですべてなのか、それともまだどこかに残しているのか、数だけでは判断できなかった。
瀬尾自身は、これで全部だと言っていた。
「本当かよ」
戸倉は椅子へ腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。
送られてきた瀬尾の情報をもう一度開き、名前、年齢、普段出入りする場所、そして住んでいるマンションへと目を通していく。
そこで指が止まった。
瀬尾は一人暮らしではなく、同居している女がいる。
瀬尾がその女にギアを渡したという情報はなく、女がギアの存在を知っているかどうかも分からない。
ただ、瀬尾がほかにもギアを残していたとすれば、普段暮らしていた部屋は確認しておくべきだった。
戸倉は画面に表示された住所を見た。
「……家か」
二人で暮らしている部屋なら、瀬尾が自分用に残したギアを置いていたとしてもおかしくない。
抜いたギアを全部回収しろ。一錠も残すな。
電話の男の声が頭に戻ってくる。
戸倉はテーブルのケースを掴んだ。今夜はもう動きたくなかったが、仕事を残したまま休める立場でもない。
スマートフォンに表示された住所を、もう一度確認する。
「次は、ここだな」
画面には、瀬尾拓真が暮らしていたマンションの住所が残っていた。




