第12話 ニュース
玲司が目を覚ましたとき、葵はすでに起きていて、中野の仕事部屋のソファに座り、スマートフォンを見ていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、まだ化粧もしていない横顔を照らしている。
「今日も勝手に俺の財布使ってねえだろうな」
寝起きの声で言ったが、いつもなら何かしら返してくる葵が反応しなかった。
玲司はソファから体を起こす。昨日、瀬尾に殴られた脇腹には、まだ少し痛みが残っていた。
「おい」
「……これ」
葵がスマートフォンを差し出してきた。
「何だよ」
「見て」
画面には、昨夜都内で起きた交通事故の記事が表示されていた。
玲司はまだぼんやりした頭のまま受け取り、見出しから順に目を通していく。死亡した男性の名前を見たところで、眠気が一気に消えた。
瀬尾拓真、二十三歳。
「……は?」
もう一度、名前を確かめる。
見間違いではなかった。
記事には、昨夜発生した事故で瀬尾が死亡し、警察が詳しい状況を調べていると短く書かれている。
玲司は顔を上げた。
「同姓同名じゃなくて?」
「写真も出てる」
葵が画面を操作した。
表示された顔には見覚えがある。短い金髪に、耳のピアス。鼻にも小さなリングがついていた。
昨日、路地で殴り合った瀬尾本人だった。
「昨日だぞ」
玲司は思わず声を上げた。
「俺ら、昨日こいつと会ったばっかりだぞ」
「分かってるよ」
葵の声にも、いつもの軽さがなかった。
玲司は記事を最初から読み直したが、書かれているのは交通事故としての情報だけだった。
事故なら、それだけの話だ。昨日会った人間が、その夜に事故で死ぬことだって、あり得ないわけではない。
それでも、どうしても引っかかった。
玲司はスマートフォンを葵へ返した。
「……タイミング悪すぎないか」
「私も思った」
「事故だぞ」
「だから何」
「いや、だから……」
玲司はそこで言葉を止めた。
葵が何を考えているのか分かる。自分も同じところに引っかかっていた。
昨日の瀬尾は怯えていた。
玲司と葵がギアについて聞いただけで、二人を誰かと勘違いし、自分から薬を飲んで襲ってきた。
玲司は路地での会話を思い返す。
「瀬尾、俺ら見て何て言ったっけ」
葵がすぐに答えた。
「ギアを取り返しに来たんだろ、って」
「だよな」
あのときは、勝手な勘違いだと思っていた。
実際、玲司たちは瀬尾から何かを奪いに行ったわけではない。
だが、瀬尾本人にはそう思う理由があった。売るために渡されたギアを自分で抜き、ミサキにも渡していたせいで、数が合わなくなっていると認めていた。
「バレるの怖がってたよな」
玲司が言うと、葵は黙って頷いた。
「俺らを回収に来た奴だと思うくらいには」
「でも、事故なんでしょ」
葵はそう言ったものの、納得している顔ではなかった。
「事故ならいいんだけど」
「死んでんだから、よくはねえだろ」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
玲司は髪を掻きながら立ち上がった。
昨夜までなら、ここで考えるのをやめてもよかった。瀬尾が事故に遭った。それだけの不運だったと片づければいい。
だが、ホテルには葵を連れ去ろうとする男たちが現れ、そのうち一人はギアを飲んで警察官を相手に暴れた。瀬尾もまた、ギアを渡してくる相手をひどく恐れていた。
偶然だと片づけるには、気になることが増えすぎている。
玲司が顔を上げると、葵はもうスマートフォンを操作していた。
「誰にかけてる」
「ミサキ」
玲司は口を閉じた。
呼び出し音だけが続く。
葵はスマートフォンを耳に当てたまま待ったが、相手は出なかった。
「出ない?」
「うん」
「もう一回」
「今やってる」
二度目も同じだった。
葵は通話を切り、そのままメッセージを送る。
「既読は?」
「つかない」
玲司は時計を見た。まだ朝なので、寝ている可能性もある。
昨日までなら、それで終わる話だった。
だが今は、ミサキの彼氏が昨夜死んでいる。
「ミサキ、瀬尾からギアもらってたよな」
「うん」
「まだ持ってると思う?」
「分かんない」
「捨てたって話は?」
「聞いてない」
葵が顔を上げた。
二人とも同じところまで考えていた。
瀬尾が本当に事故で死んだのなら、何も起きない。
だが、もし違ったら。
瀬尾がギアを抜いていたことと、その死がつながっているのなら、ギアを受け取っていたミサキも無関係ではない。
「行くか」
玲司が言うと、葵はもう立ち上がっていた。
「言われなくても」
「お前、一人で先行くなよ」
「早く着替えて」
「俺まだ顔も洗ってねえんだけど」
「そんなのどうでもいいから」
「俺にはよくねえよ」
口では言い返したものの、玲司も急いで上着を取った。
*
大久保へ向かう電車の中でも、ミサキから返事はなかった。
葵は何度もスマートフォンを確認していたが、玲司も何も言わなかった。
昨日、初めてミサキの部屋へ行ったときには、こんなふうに焦って戻ってくるとは思っていなかった。
あのときのミサキは痩せてはいたが、普通に話していた。ギアも大した薬ではないと言い、二日か三日に一度欲しくなる程度だと笑っていた。
その彼氏が死んだ。
しかも、玲司たちが瀬尾と会ったその夜に。
駅を出ると、葵は迷わず歩き出した。
「場所覚えてんの?」
「一回来たから」
「俺も覚えてるけど」
「じゃあ聞くなよ」
いつもの調子の返事が戻ってきたことに、玲司は少しだけ安心した。
それでも葵の歩く速度は落ちない。
大通りから一本入ると、見覚えのあるマンションが見えてきた。
葵は入口へ急ぎ、インターホンを押した。
返事はない。
少し待ってからもう一度押す。
「ミサキ?」
やはり反応はなかった。
玲司が横から操作盤を確認する。
「部屋、間違ってないよな」
「間違ってない」
葵はもう一度電話をかけたが、しばらく待っても相手は出なかった。
葵の表情が険しくなる。
「上行く」
「開いてねえだろ」
「誰か出てきたら入る」
「それ普通に怒られるやつだからな」
「今それ気にしてる場合?」
ちょうどそのとき、内側から住人らしい男が出てきた。
葵が開いたドアを押さえ、そのまま中へ入る。玲司は一瞬ためらったものの、結局その後についていった。
「俺まで怒られるんだぞ」
「そのとき謝ればいいじゃん」
「簡単に言うなよ」
二人は階段を上がり、ミサキの部屋の前まで来ると、葵がすぐにドアを叩いた。
「ミサキ!」
返事はない。
葵がもう一度、今度は少し強く叩く。
「ミサキ、いる?」
玲司もドアへ耳を近づけたが、室内から物音は聞こえない。
葵がさらに叩こうとしたところで、中からかすかな音がした。
二人とも動きを止める。
やがて鍵が回り、ドアがわずかに開いた。その隙間からミサキが顔を出す。
葵の肩から力が抜けた。
「……いるじゃん」
ミサキは目を赤くしていた。
髪も乱れ、大きめのパーカーを着たまま、葵と玲司を交互に見る。
「何……」
声が掠れていた。
「電話したんだけど」
「スマホ、切ってた」
「何で?」
聞いてから、葵も理由に気づいたらしい。
ミサキが目を伏せる。
「拓真、死んだ」
葵は何も言えなくなった。
玲司も口を挟まなかった。
ニュース記事で読んだのと、恋人の口から聞くのとでは重さが違った。
ミサキはドアを開いた。
「警察から連絡来た。事故だって」
部屋へ入ると、以前来たときと大きくは変わっていなかった。テーブルには飲みかけのペットボトルがあり、床には服が残っている。
ミサキは床へ座った。
「昨日も普通だったのに」
誰に向けた言葉なのか、玲司には分からなかった。
葵も向かいに座る。
「……ごめん」
「何でユナが謝るの」
「昨日、私たちが会いに行ったから」
ミサキが顔を上げた。
「拓真に?」
「うん」
「何で」
葵が言葉に詰まると、玲司が代わりに答えた。
「ギアのこと聞いた」
「……またそれ?」
「瀬尾から聞けたことがあったんだ」
ミサキの顔に苛立ちが浮かぶ。
「拓真死んだんだよ」
「分かってる」
「だったら今それどうでもよくない?」
「どうでもよくないかもしれない」
玲司が言うと、ミサキが睨んだ。
「何それ」
「事故じゃないって言ってるわけじゃない」
「じゃあ何」
「俺らにも分からない」
「分かんないのに来たの?」
ミサキの声が強くなる。
葵が口を開いた。
「昨日、拓真が言ってたの。売るはずのギアを自分で使ってたって」
ミサキは一瞬、黙った。
「……知ってる」
今度は玲司と葵が言葉を止めた。
「知ってたの?」
葵が聞く。
「全部じゃないけど」
ミサキは膝を抱えた。
「自分で使ってるのは知ってた。私にもくれてたし」
「そのギア、まだここにある?」
ミサキはすぐには答えなかった。
葵がその顔を見る。
「あるんだ」
「少しだけ」
玲司は葵と目を合わせた。
さっきまで頭の中にしかなかった嫌な可能性が、一気に現実味を帯びる。
「どこ」
「何で」
「ミサキ」
葵の声が変わった。
「今はそれ持ってない方がいい」
「何で急に」
「拓真が死んだから」
ミサキの顔が強張った。
「事故だって言ったでしょ」
「そうかもしれない」
「じゃあ変なこと言わないでよ!」
声が部屋に響き、葵も黙った。
ミサキの目に涙が浮かぶ。
「拓真が何したか知らないけど、死んだんだよ。昨日までいたのに。警察から電話来て、いきなり死んだって言われて……それで今度はユナまで、事故じゃないかもとか、私も危ないとか、何なの」
最後の方は声が震えていた。
葵は何も言い返さない。
玲司も、ここで理屈を並べる気にはなれなかった。
誰も口を開かなくなると、部屋には冷蔵庫の低い作動音だけが残った。
やがて葵が、少し声を落として言う。
「怖がらせたいわけじゃない」
ミサキは顔を上げなかった。
「でも、もし本当にただの事故じゃなかったら、ここに一人でいるの危ないから」
「どこ行けっていうの」
「とりあえずここ出よう」
「どこに?」
葵が玲司を見る。
その目を見た瞬間、玲司は嫌な予感がした。
「おい」
「アジト」
「勝手に決めんな」
「ほかにある?」
「ないけど」
「じゃあ決まり」
「俺の仕事場だからな」
「家じゃないんでしょ」
「そういう問題じゃねえよ」
ミサキが二人を見た。
泣いていた顔に、ほんの少し困惑が混じる。
「……何の話?」
「気にしなくていい」
葵が立ち上がった。
「必要なものだけ持って。今日はここ出るよ」
「私、行くって言ってない」
「じゃあ私もここにいる」
「は?」
「一人にするよりマシでしょ」
「お前まで残るなよ」
玲司がすぐに口を挟む。
「何で」
「危ないと思って来たんだろ。だったら三人で出るんだよ」
葵は少し考え、ミサキを見る。
「……だって」
「何で私が怒られてんの」
ミサキが呟いた。
玲司はため息をついた。
「とにかく、事故ならそれでいいんだよ。あとで俺らが考えすぎだったって笑えばいい。でも違ったら、ここに残ったこと後悔しても遅いだろ」
ミサキは返事をしなかったが、しばらくすると立ち上がった。
「……着替える」
葵が小さく息を吐く。
「早めにね」
「分かってる」
ミサキが部屋の奥へ向かった。
玲司は玄関の方を見る。
ここへ来るまで、何も起きていない。
瀬尾は本当に事故で死んだだけなのかもしれないし、自分たちが勝手に話をつなげているだけなのかもしれない。
そう思いたかった。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
玲司と葵が同時にそちらを見る。
奥からミサキの声がした。
「誰?」
「待て」
玲司が立ち上がると、葵もバッグを手元へ引き寄せた。
もう一度、呼び鈴が鳴る。
「宅配?」
ミサキが部屋の奥から顔を出した。
「今何か頼んでる?」
「頼んでない」
玲司は玄関へ近づき、葵も少し距離を空けて後ろについた。
「誰」
「分からん」
玲司は音を立てないようドアへ寄り、覗き穴から外を見る。
廊下に男が一人立っていた。
服はホテルで見たときとは違う。
それでも、その顔を忘れるはずがなかった。
額にはまだ傷が残り、大柄な体をわずかに傾けるようにして立っている。
玲司の背中が強張った。
「……マジかよ」
「誰?」
葵が低い声で聞く。
玲司は覗き穴から目を離した。
「ホテルの奴だ」
葵の表情が変わった。
その直後、ドアが強く叩かれた。




