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歌舞伎町ドラッグ・ギャンビット  作者: Aramaki_mai
第1部 歌舞伎町
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8/69

第8話 彼氏

挿絵(By みてみん)

「瀬尾なら、たぶん今クラブにいる」


ミサキはそう言って、スマートフォンの画面を確認した。


さっきまで彼氏のことを聞かれるのを嫌がっていたが、葵たちがギアを奪ったり、警察へ突き出したりするつもりではないと分かると、ようやく居場所を教えた。


「歌舞伎町?」


「うん。よく行ってる店。地下のクラブ」


「瀬尾っていうのが名字?」


「瀬尾拓真。二十三」


玲司は名前を覚えるように、一度だけ口の中で繰り返した。


「見たら分かる?」


「短めの金髪で、耳にピアスいっぱいつけてる。鼻にも一個。たぶんすぐ分かるよ」


ミサキはそこまで答えてから、少し不安そうに葵を見た。


「変なことしないでよ」


「話聞くだけ」


「拓真、最近ちょっとピリピリしてるから」


「何かあったの?」


「知らない。聞いても言わないし」


葵と玲司は顔を見合わせた。


理由は分からないが、素直に話を聞かせてくれる相手ではなさそうだった。


     *


歌舞伎町へ戻った頃には、空は完全に暗くなっていた。


昼間とは人の流れが変わり、店の看板もネオンも夜になると一段と目立つ。仕事を終えた昼の店の女たちと入れ替わるように、これから街へ出る人間が増えていた。


ミサキから教えられたクラブは、雑居ビルの地下にあった。


地上から階段を下りるにつれて、壁越しの低音が腹に響いてくる。入口の前には数人が並んでおり、玲司と葵もその後ろについた。


「こういうとこ来るの?」


玲司が聞く。


「何回か」


「十八で?」


「入れる店なら入れるでしょ」


順番が来ると、入口で身分証を確認され、二人は料金を払った。受付のスタッフに手の甲へ透明なスタンプを押されるが、そのままでは何も見えない。


葵が不思議そうに手を返していると、スタッフが横のライトを示した。紫外線にかざした途端、手の甲に小さなマークが浮かび上がる。


「何これ」


「再入場の確認だろ」


「見えないのに?」


「だからライト当てるんだろ」


「知ってた?」


「今見て分かった」


「知らなかったんじゃん」


玲司が言い返そうとしたところで、後ろから客が詰まってきた。二人は邪魔にならないよう、そのまま店内へ入る。


扉を抜けた途端、重い低音と人の声が全身を包んだ。


地下のフロアは暗く、天井近くを走る光が、人の顔を赤や青に変えていく。中央では大勢が音楽に合わせて体を揺らし、壁際の席にも客が詰まっていた。


玲司は声が届くよう、葵の耳元へ顔を寄せた。


「これ、人探せんのか?」


「金髪、耳ピアス、鼻ピアス」


「そんな奴、いっぱいいそうだけど」


「二十三歳、瀬尾拓真」


「名前は顔に書いてねえだろ」


葵は返事をせず、人混みの向こうへ目を凝らした。


玲司の言った通り、金髪もピアスをつけた男も珍しくない。照明が動くたびに髪の色まで違って見えるので、特徴だけで探すのは思ったより難しかった。


二人でフロアを半周したところで、葵が玲司の腕を掴んだ。


「あれじゃない?」


壁際で三人の男と喋っている一人を示す。


短めの金髪に、耳にはいくつものピアス。顔がこちらを向いた瞬間、鼻にも銀色の小さなリングが見えた。


「それっぽいな」


人の間を抜けて近づき、玲司が男の肩を軽く叩いた。


振り返った男が、怪訝そうに玲司を見る。


「瀬尾拓真?」


音楽にかき消され、聞こえなかったらしい。瀬尾は眉を寄せ、玲司の方へ顔を近づけた。


「何?」


「お前、瀬尾か?」


今度は聞こえた。


瀬尾の目が玲司から葵へ移る。


「そうだけど。誰?」


葵が答えた。


「ミサキの知り合い」


それまで怪訝そうだった瀬尾の表情が、わずかに変わった。


「ミサキ?」


「ちょっと話したい」


「ここで?」


「聞こえないでしょ」


瀬尾は二人を見比べてから、一緒にいた男たちへ何か告げた。面倒そうに頭を掻きながらも、出口の方へ歩き出す。


「すぐ終わらせろよ」


     *


クラブを出ても、地下から響く低音は足元に伝わってきた。


三人は大通りを避け、人通りの少ないビルの間の路地へ入った。室外機の音に混じって、遠くから客引きの声が聞こえてくる。


瀬尾は壁際で足を止めると、両手をポケットへ入れた。


「で、ミサキが何?」


玲司が余計な前置きをせずに聞く。


「ギア、お前が渡してるんだって?」


瀬尾の顔から、さっきまでの面倒そうな表情が消えた。


「……誰から聞いた?」


「ミサキ本人」


「そうじゃねえよ」


瀬尾が玲司を見る目が鋭くなる。


「お前ら、なんでギア知ってんだよ」


葵が口を挟んだ。


「私らも聞きたいことがあるの。あれ、どこから手に入れた?」


瀬尾は答えなかった。


ポケットの中へ入れた右手をさらに奥まで差し込み、二人を交互に見る。


「お前ら、あいつらか?」


「誰だよ」


「とぼけんなよ」


「だから何の話してんだよ」


玲司が一歩近づくと、瀬尾も壁から背を離した。


「ギア取り返しに来たんだろ」


「は?」


「渡さねえぞ。これは俺のだ」


「待て待て」


玲司が両手を見せるように上げた。


「奪いに来たんじゃねえよ。どこから手に入れたか聞いてるだけだ」


「嘘つけ」


「何でそうなるんだよ」


「だったら何で俺のこと知ってんだよ!」


瀬尾の声が路地に響いた。


葵は玲司の横で、ポケットから出てこない瀬尾の右手を見ていた。


何かを持っている。


「瀬尾」


葵が呼ぶ。


「手、出して」


「うるせえ」


「ギア持ってるでしょ」


瀬尾の頬が引きつった。その反応だけで、葵には十分だった。


玲司が呆れたように息を吐く。


「だから取らねえって。ミサキにもう渡すなって言いたいだけだよ。あいつ、どう見てもおかしくなってるだろ」


「本人が欲しいって言ってんだよ」


「欲しがってるから問題なんだろ」


「お前らに関係ねえだろ!」


瀬尾は二人を見比べながら、一歩下がった。


逃げるためというより、距離を取ったように見える。その視線が一瞬だけポケットへ落ちたのを見て、葵は嫌な予感がした。


「待って」


瀬尾の右手がポケットから出た。


指の間には、小さな灰色の錠剤が挟まれている。縁には、見覚えのある切れ込みが入っていた。


「それ飲むな」


葵が言った。


瀬尾が笑う。


「やっぱ知ってんじゃねえか」


「そういう問題じゃないから」


「来いよ」


「は?」


「二人まとめて来いよ」


瀬尾は二人から目を離さないまま、錠剤を口へ放り込んだ。


葵が止めるより早く、喉が動く。


玲司が嫌そうに顔をしかめた。


「おいおい……」


瀬尾は壁へ背を預けたまま、しばらく何も言わなかった。


ホテルで見た男のように、飲んだ直後から暴れ出すわけではない。ところが数秒すると、張り詰めていた表情が緩み、口元に笑みが浮かんだ。


「……やっぱ、これいいわ」


「何がだよ」


玲司が聞く。


瀬尾は楽しそうに笑った。


さっきまで二人を警戒していた顔から、怯えだけが綺麗に抜け落ちている。


「何で俺、こいつら警戒してたんだろ」


「瀬尾?」


「余裕じゃん」


肩を回しながら、玲司へ向かって歩き出す。


「お前ら二人くらい、余裕だろ」


玲司が葵の前へ出た。


「下がってろ」


「え?」


「俺に任せろ」


葵は玲司の背中を見ながら、少し眉を上げた。


「大丈夫?」


「何が」


「弱いんだったら、見学しててもいいんだよ」


「うるせえ」


玲司が振り返った、その一瞬を瀬尾は見逃さなかった。


「前見ろ!」


葵が叫ぶより早く、瀬尾の拳が玲司の頬へ入った。


玲司の上体が横へ流れたものの、倒れずに踏みとどまり、すぐ瀬尾へ掴みかかる。


「いきなり殴んな!」


「遅えよ!」


瀬尾は笑っていた。


玲司の腕を振りほどくと、今度は腹へ拳を打ち込む。玲司が息を詰まらせて後ろへ下がっても、瀬尾は躊躇なく距離を詰めた。


昨日の男とは違う。


痛みも恐怖も消えているような暴れ方ではない。瀬尾はただ、自分が負ける可能性をまったく考えていないようだった。


玲司が拳をかわし、そのまま肩からぶつかって瀬尾を壁へ押し込む。


「いい加減にしろ!」


「何だよ、その程度?」


瀬尾は押さえられたまま笑い、玲司の脇腹へ膝を入れた。


玲司が息を詰まらせて体勢を崩すと、瀬尾はその胸を突き飛ばした。玲司の体が路地の壁へ肩からぶつかる。


「玲司!」


葵が駆け寄ろうとすると、玲司は脇腹を押さえながら片手を上げた。


「まだ平気」


「全然平気に見えないけど」


「うるせえって……」


そんなやり取りをしている間にも、瀬尾は楽しそうに二人へ近づいてくる。


葵はバッグを開け、まずメリケンサックを取り出した。


右手にはめる。


「何それ」


瀬尾が面白そうに笑った。


「女がそれで俺とやるの?」


「女だから何?」


葵は半身になり、瀬尾の動きを待った。


先に踏み込んできた瀬尾の右腕を外へ払い、体をずらして腹へ拳を打ち込む。メリケンサック越しの硬い感触が手に返り、瀬尾が一歩下がった。


それでも倒れない。


「痛って」


腹を押さえながらも、瀬尾は笑っていた。


痛み自体は感じている。ホテルで暴れた男とは、やはり反応が違う。


「結構やるじゃん」


今度は瀬尾が大きく踏み込んだ。


葵は顔を狙った拳をかわし、その勢いを利用して足を払う。瀬尾は体勢を崩して片手を地面につき、葵は追撃せずにいったん距離を取った。


本来なら、ここで少しは慎重になるはずだった。


ところが瀬尾は立ち上がるなり、楽しそうに笑った。


「楽しいな、これ」


「何笑ってんの」


「負ける気しねえ」


瀬尾がまた距離を詰めてくる。


葵は最初の拳を受け流したものの、続けて肩からぶつかられ、体を後ろへ押された。


体格では瀬尾の方が上だった。技術で崩せても、何度も迷いなく踏み込んでくる相手を、素の力だけで完全に止めるのは難しい。


背後で玲司が立ち上がる気配がした。


「おい、そいつから離れろ!」


瀬尾がそちらを向く。


「玲司、来なくていい!」


葵が止めたときには、玲司もすでに前へ出ていた。


拳を構えたものの、さっき脇腹へ受けた一撃が残っているのか、動きが明らかに鈍い。


このままでは、また殴られる。


葵はバッグへ左手を入れ、指先で小さなケースに触れた。


その瞬間、ミサキの部屋で見たものが頭に浮かんだ。


ほとんど手つかずだった弁当。袖から出た細い手首。二日か三日すると、また欲しくなると言っていた声。


使わない方がいいことくらい、もう分かっている。


それでも目の前では、瀬尾が玲司の服を掴んでいた。


「……最悪」


葵はケースを開け、ギアを一錠取り出した。


玲司が気づく。


「おい、待て」


葵はそのまま錠剤を口へ入れた。


飲み込んでも、気分が高揚するわけではない。楽しくもならなければ、瀬尾のように何でもできる気にもならない。


ただ、体の奥にかかっていた何かが外れていく、あの感覚だけはすぐに分かった。


腕が軽い。


脚にも力が入る。


それなのに、頭の中は妙に冷静だった。


瀬尾が玲司を突き飛ばす。


「葵!」


「見学してて」


「だから、うるせえ!」


その返事を聞きながら、葵は前へ出た。


瀬尾が笑顔のまま拳を振るう。


さっきまでとは違い、その動きがはっきり見えた。


葵は半歩だけ外へずれて拳をかわし、空いた脇へ右拳を打ち込む。


衝撃を受けた瀬尾の体が、横へ飛んだ。


「え?」


瀬尾自身が、一番驚いた顔をしていた。


数歩先の壁へ背中からぶつかり、そのまま路地へ転がる。


玲司が目を見開いた。


「……やっぱゴリラじゃねえか」


「今それ言う?」


瀬尾は咳き込みながらも、壁に手をついて立ち上がった。


それでもまだ笑っている。


「何だよ、それ……」


「まだ来るの?」


「面白えじゃん!」


瀬尾が走ってくる。


葵は真正面から受けず、突っ込んできた腕を払いながら足をかけて体勢を崩した。前へ流れた瀬尾の横へ回り込み、その脇腹へ拳を叩き込む。


今度は加減したつもりだった。


それでも瀬尾の足は地面から離れ、体ごと横へ転がった。


今度はすぐに起き上がってこない。


葵は倒れた瀬尾へ歩み寄った。右手には、まだメリケンサックをはめたままだ。


もう一発入れれば、完全に動けなくなる。


「葵」


玲司の声が聞こえた。


葵はさらに一歩進んだ。


「もういい」


それでも止まらない葵へ、玲司が強い声を飛ばす。


「死ぬぞ」


その一言で、葵の足が止まった。


荒い呼吸を繰り返している瀬尾を見下ろす。意識はあるようだが、すぐ立ち上がれる状態ではない。


葵はようやく右手を下ろした。


「……分かってる」


「なら、それ外せ」


「命令しないで」


「さっきまで止まってなかっただろ」


「止まったじゃん」


「俺が止めたんだよ」


「うるさい」


葵はメリケンサックを外し、バッグへ戻した。


玲司はまだ壁にもたれ、片手で脇腹を押さえている。


その姿を見た葵が、今さら思い出したように聞いた。


「大丈夫?」


「今さら聞く?」


「弱いんだったら、次から見学しててもいいんだよ」


「うるせえって言ってんだろ」


葵は少し笑った。


     *


瀬尾がまともに話せるようになるまで、しばらくかかった。


路地の壁際へ座らせると、さっきまでの異様な自信は薄れ、代わりに疲れ切った顔が戻ってきた。完全に薬が抜けたわけではなさそうだが、少なくとも、また殴りかかってくる様子はない。


玲司は痛む脇腹を押さえながら、瀬尾の前にしゃがんだ。


「もう一回聞くぞ。ギア、どこから仕入れてる」


瀬尾は顔を背けた。


「知らねえよ」


「知らないわけないだろ。お前がミサキに渡して、自分でも使ってたんだろ」


「本当に知らねえんだよ。名前も顔も知らねえ」


壁にもたれていた葵が聞く。


「じゃあ、誰からもらってるの?」


「匿名のメッセージアプリで指示が来るだけだよ」


「それだけ?」


「俺は言われた分を捌くだけ。向こうが誰かなんて知らねえし、会ったこともない」


玲司の顔が険しくなる。


「名前も顔も知らない奴の薬を売ってんのか?」


「そういうもんなんだよ」


「それで、売るはずのやつを自分で使った?」


瀬尾が口を閉じた。


葵もすぐに気づいた。


「ミサキに渡したのも、売る分から抜いたやつ?」


それでも瀬尾は答えない。


だが、その沈黙で十分だった。


玲司が呆れたように瀬尾を見る。


「だから俺たち見てビビったのか」


瀬尾はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように口を開いた。


「……数が合わなくなってる」


「どれくらい抜いた」


「ちょっとだったんだよ、最初は。自分で使って、ミサキにも渡して……それで」


「それで、バレたと思った?」


瀬尾は答えなかった。


玲司はゆっくり立ち上がる。


「俺らを、その回収に来た奴だと思ったわけか」


「ギアのこと知ってて、いきなり俺のところまで来たら、そう思うだろ」


「話くらい聞けよ」


「聞く前にお前が近づいてきただろ」


「殴ったのはお前だ」


「それは……」


瀬尾は言葉に詰まり、顔を背けた。


葵はバッグへギアのケースを戻してから、もう一度聞いた。


「その匿名の相手、本当に何も知らないの?」


「知らねえって。名前も顔も、本当の所属も何も知らねえ。匿名のメッセージアプリで連絡が来て、俺は言われたことをやるだけだ」


「誰がギアを作ってるかも?」


「知らない」


「どこから来てるかも?」


「知らねえよ」


玲司と葵は、今度こそ言葉を失った。


ミサキから瀬尾までは辿れたが、その先には名前も顔もない。瀬尾自身、誰のために売っているのかさえ知らず、匿名のメッセージで届く指示に従っていただけだった。


地下のクラブから漏れる低音が、路地の壁をかすかに震わせている。


玲司はしばらく瀬尾を見ていたが、これ以上聞いても新しい名前は出てこないと分かったのか、小さく息を吐いた。


「……面倒くせえな、これ」


葵も、その言葉には何も言い返さなかった。


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