第8話 彼氏
「瀬尾なら、たぶん今クラブにいる」
ミサキはそう言って、スマートフォンの画面を確認した。
さっきまで彼氏のことを聞かれるのを嫌がっていたが、葵たちがギアを奪ったり、警察へ突き出したりするつもりではないと分かると、ようやく居場所を教えた。
「歌舞伎町?」
「うん。よく行ってる店。地下のクラブ」
「瀬尾っていうのが名字?」
「瀬尾拓真。二十三」
玲司は名前を覚えるように、一度だけ口の中で繰り返した。
「見たら分かる?」
「短めの金髪で、耳にピアスいっぱいつけてる。鼻にも一個。たぶんすぐ分かるよ」
ミサキはそこまで答えてから、少し不安そうに葵を見た。
「変なことしないでよ」
「話聞くだけ」
「拓真、最近ちょっとピリピリしてるから」
「何かあったの?」
「知らない。聞いても言わないし」
葵と玲司は顔を見合わせた。
理由は分からないが、素直に話を聞かせてくれる相手ではなさそうだった。
*
歌舞伎町へ戻った頃には、空は完全に暗くなっていた。
昼間とは人の流れが変わり、店の看板もネオンも夜になると一段と目立つ。仕事を終えた昼の店の女たちと入れ替わるように、これから街へ出る人間が増えていた。
ミサキから教えられたクラブは、雑居ビルの地下にあった。
地上から階段を下りるにつれて、壁越しの低音が腹に響いてくる。入口の前には数人が並んでおり、玲司と葵もその後ろについた。
「こういうとこ来るの?」
玲司が聞く。
「何回か」
「十八で?」
「入れる店なら入れるでしょ」
順番が来ると、入口で身分証を確認され、二人は料金を払った。受付のスタッフに手の甲へ透明なスタンプを押されるが、そのままでは何も見えない。
葵が不思議そうに手を返していると、スタッフが横のライトを示した。紫外線にかざした途端、手の甲に小さなマークが浮かび上がる。
「何これ」
「再入場の確認だろ」
「見えないのに?」
「だからライト当てるんだろ」
「知ってた?」
「今見て分かった」
「知らなかったんじゃん」
玲司が言い返そうとしたところで、後ろから客が詰まってきた。二人は邪魔にならないよう、そのまま店内へ入る。
扉を抜けた途端、重い低音と人の声が全身を包んだ。
地下のフロアは暗く、天井近くを走る光が、人の顔を赤や青に変えていく。中央では大勢が音楽に合わせて体を揺らし、壁際の席にも客が詰まっていた。
玲司は声が届くよう、葵の耳元へ顔を寄せた。
「これ、人探せんのか?」
「金髪、耳ピアス、鼻ピアス」
「そんな奴、いっぱいいそうだけど」
「二十三歳、瀬尾拓真」
「名前は顔に書いてねえだろ」
葵は返事をせず、人混みの向こうへ目を凝らした。
玲司の言った通り、金髪もピアスをつけた男も珍しくない。照明が動くたびに髪の色まで違って見えるので、特徴だけで探すのは思ったより難しかった。
二人でフロアを半周したところで、葵が玲司の腕を掴んだ。
「あれじゃない?」
壁際で三人の男と喋っている一人を示す。
短めの金髪に、耳にはいくつものピアス。顔がこちらを向いた瞬間、鼻にも銀色の小さなリングが見えた。
「それっぽいな」
人の間を抜けて近づき、玲司が男の肩を軽く叩いた。
振り返った男が、怪訝そうに玲司を見る。
「瀬尾拓真?」
音楽にかき消され、聞こえなかったらしい。瀬尾は眉を寄せ、玲司の方へ顔を近づけた。
「何?」
「お前、瀬尾か?」
今度は聞こえた。
瀬尾の目が玲司から葵へ移る。
「そうだけど。誰?」
葵が答えた。
「ミサキの知り合い」
それまで怪訝そうだった瀬尾の表情が、わずかに変わった。
「ミサキ?」
「ちょっと話したい」
「ここで?」
「聞こえないでしょ」
瀬尾は二人を見比べてから、一緒にいた男たちへ何か告げた。面倒そうに頭を掻きながらも、出口の方へ歩き出す。
「すぐ終わらせろよ」
*
クラブを出ても、地下から響く低音は足元に伝わってきた。
三人は大通りを避け、人通りの少ないビルの間の路地へ入った。室外機の音に混じって、遠くから客引きの声が聞こえてくる。
瀬尾は壁際で足を止めると、両手をポケットへ入れた。
「で、ミサキが何?」
玲司が余計な前置きをせずに聞く。
「ギア、お前が渡してるんだって?」
瀬尾の顔から、さっきまでの面倒そうな表情が消えた。
「……誰から聞いた?」
「ミサキ本人」
「そうじゃねえよ」
瀬尾が玲司を見る目が鋭くなる。
「お前ら、なんでギア知ってんだよ」
葵が口を挟んだ。
「私らも聞きたいことがあるの。あれ、どこから手に入れた?」
瀬尾は答えなかった。
ポケットの中へ入れた右手をさらに奥まで差し込み、二人を交互に見る。
「お前ら、あいつらか?」
「誰だよ」
「とぼけんなよ」
「だから何の話してんだよ」
玲司が一歩近づくと、瀬尾も壁から背を離した。
「ギア取り返しに来たんだろ」
「は?」
「渡さねえぞ。これは俺のだ」
「待て待て」
玲司が両手を見せるように上げた。
「奪いに来たんじゃねえよ。どこから手に入れたか聞いてるだけだ」
「嘘つけ」
「何でそうなるんだよ」
「だったら何で俺のこと知ってんだよ!」
瀬尾の声が路地に響いた。
葵は玲司の横で、ポケットから出てこない瀬尾の右手を見ていた。
何かを持っている。
「瀬尾」
葵が呼ぶ。
「手、出して」
「うるせえ」
「ギア持ってるでしょ」
瀬尾の頬が引きつった。その反応だけで、葵には十分だった。
玲司が呆れたように息を吐く。
「だから取らねえって。ミサキにもう渡すなって言いたいだけだよ。あいつ、どう見てもおかしくなってるだろ」
「本人が欲しいって言ってんだよ」
「欲しがってるから問題なんだろ」
「お前らに関係ねえだろ!」
瀬尾は二人を見比べながら、一歩下がった。
逃げるためというより、距離を取ったように見える。その視線が一瞬だけポケットへ落ちたのを見て、葵は嫌な予感がした。
「待って」
瀬尾の右手がポケットから出た。
指の間には、小さな灰色の錠剤が挟まれている。縁には、見覚えのある切れ込みが入っていた。
「それ飲むな」
葵が言った。
瀬尾が笑う。
「やっぱ知ってんじゃねえか」
「そういう問題じゃないから」
「来いよ」
「は?」
「二人まとめて来いよ」
瀬尾は二人から目を離さないまま、錠剤を口へ放り込んだ。
葵が止めるより早く、喉が動く。
玲司が嫌そうに顔をしかめた。
「おいおい……」
瀬尾は壁へ背を預けたまま、しばらく何も言わなかった。
ホテルで見た男のように、飲んだ直後から暴れ出すわけではない。ところが数秒すると、張り詰めていた表情が緩み、口元に笑みが浮かんだ。
「……やっぱ、これいいわ」
「何がだよ」
玲司が聞く。
瀬尾は楽しそうに笑った。
さっきまで二人を警戒していた顔から、怯えだけが綺麗に抜け落ちている。
「何で俺、こいつら警戒してたんだろ」
「瀬尾?」
「余裕じゃん」
肩を回しながら、玲司へ向かって歩き出す。
「お前ら二人くらい、余裕だろ」
玲司が葵の前へ出た。
「下がってろ」
「え?」
「俺に任せろ」
葵は玲司の背中を見ながら、少し眉を上げた。
「大丈夫?」
「何が」
「弱いんだったら、見学しててもいいんだよ」
「うるせえ」
玲司が振り返った、その一瞬を瀬尾は見逃さなかった。
「前見ろ!」
葵が叫ぶより早く、瀬尾の拳が玲司の頬へ入った。
玲司の上体が横へ流れたものの、倒れずに踏みとどまり、すぐ瀬尾へ掴みかかる。
「いきなり殴んな!」
「遅えよ!」
瀬尾は笑っていた。
玲司の腕を振りほどくと、今度は腹へ拳を打ち込む。玲司が息を詰まらせて後ろへ下がっても、瀬尾は躊躇なく距離を詰めた。
昨日の男とは違う。
痛みも恐怖も消えているような暴れ方ではない。瀬尾はただ、自分が負ける可能性をまったく考えていないようだった。
玲司が拳をかわし、そのまま肩からぶつかって瀬尾を壁へ押し込む。
「いい加減にしろ!」
「何だよ、その程度?」
瀬尾は押さえられたまま笑い、玲司の脇腹へ膝を入れた。
玲司が息を詰まらせて体勢を崩すと、瀬尾はその胸を突き飛ばした。玲司の体が路地の壁へ肩からぶつかる。
「玲司!」
葵が駆け寄ろうとすると、玲司は脇腹を押さえながら片手を上げた。
「まだ平気」
「全然平気に見えないけど」
「うるせえって……」
そんなやり取りをしている間にも、瀬尾は楽しそうに二人へ近づいてくる。
葵はバッグを開け、まずメリケンサックを取り出した。
右手にはめる。
「何それ」
瀬尾が面白そうに笑った。
「女がそれで俺とやるの?」
「女だから何?」
葵は半身になり、瀬尾の動きを待った。
先に踏み込んできた瀬尾の右腕を外へ払い、体をずらして腹へ拳を打ち込む。メリケンサック越しの硬い感触が手に返り、瀬尾が一歩下がった。
それでも倒れない。
「痛って」
腹を押さえながらも、瀬尾は笑っていた。
痛み自体は感じている。ホテルで暴れた男とは、やはり反応が違う。
「結構やるじゃん」
今度は瀬尾が大きく踏み込んだ。
葵は顔を狙った拳をかわし、その勢いを利用して足を払う。瀬尾は体勢を崩して片手を地面につき、葵は追撃せずにいったん距離を取った。
本来なら、ここで少しは慎重になるはずだった。
ところが瀬尾は立ち上がるなり、楽しそうに笑った。
「楽しいな、これ」
「何笑ってんの」
「負ける気しねえ」
瀬尾がまた距離を詰めてくる。
葵は最初の拳を受け流したものの、続けて肩からぶつかられ、体を後ろへ押された。
体格では瀬尾の方が上だった。技術で崩せても、何度も迷いなく踏み込んでくる相手を、素の力だけで完全に止めるのは難しい。
背後で玲司が立ち上がる気配がした。
「おい、そいつから離れろ!」
瀬尾がそちらを向く。
「玲司、来なくていい!」
葵が止めたときには、玲司もすでに前へ出ていた。
拳を構えたものの、さっき脇腹へ受けた一撃が残っているのか、動きが明らかに鈍い。
このままでは、また殴られる。
葵はバッグへ左手を入れ、指先で小さなケースに触れた。
その瞬間、ミサキの部屋で見たものが頭に浮かんだ。
ほとんど手つかずだった弁当。袖から出た細い手首。二日か三日すると、また欲しくなると言っていた声。
使わない方がいいことくらい、もう分かっている。
それでも目の前では、瀬尾が玲司の服を掴んでいた。
「……最悪」
葵はケースを開け、ギアを一錠取り出した。
玲司が気づく。
「おい、待て」
葵はそのまま錠剤を口へ入れた。
飲み込んでも、気分が高揚するわけではない。楽しくもならなければ、瀬尾のように何でもできる気にもならない。
ただ、体の奥にかかっていた何かが外れていく、あの感覚だけはすぐに分かった。
腕が軽い。
脚にも力が入る。
それなのに、頭の中は妙に冷静だった。
瀬尾が玲司を突き飛ばす。
「葵!」
「見学してて」
「だから、うるせえ!」
その返事を聞きながら、葵は前へ出た。
瀬尾が笑顔のまま拳を振るう。
さっきまでとは違い、その動きがはっきり見えた。
葵は半歩だけ外へずれて拳をかわし、空いた脇へ右拳を打ち込む。
衝撃を受けた瀬尾の体が、横へ飛んだ。
「え?」
瀬尾自身が、一番驚いた顔をしていた。
数歩先の壁へ背中からぶつかり、そのまま路地へ転がる。
玲司が目を見開いた。
「……やっぱゴリラじゃねえか」
「今それ言う?」
瀬尾は咳き込みながらも、壁に手をついて立ち上がった。
それでもまだ笑っている。
「何だよ、それ……」
「まだ来るの?」
「面白えじゃん!」
瀬尾が走ってくる。
葵は真正面から受けず、突っ込んできた腕を払いながら足をかけて体勢を崩した。前へ流れた瀬尾の横へ回り込み、その脇腹へ拳を叩き込む。
今度は加減したつもりだった。
それでも瀬尾の足は地面から離れ、体ごと横へ転がった。
今度はすぐに起き上がってこない。
葵は倒れた瀬尾へ歩み寄った。右手には、まだメリケンサックをはめたままだ。
もう一発入れれば、完全に動けなくなる。
「葵」
玲司の声が聞こえた。
葵はさらに一歩進んだ。
「もういい」
それでも止まらない葵へ、玲司が強い声を飛ばす。
「死ぬぞ」
その一言で、葵の足が止まった。
荒い呼吸を繰り返している瀬尾を見下ろす。意識はあるようだが、すぐ立ち上がれる状態ではない。
葵はようやく右手を下ろした。
「……分かってる」
「なら、それ外せ」
「命令しないで」
「さっきまで止まってなかっただろ」
「止まったじゃん」
「俺が止めたんだよ」
「うるさい」
葵はメリケンサックを外し、バッグへ戻した。
玲司はまだ壁にもたれ、片手で脇腹を押さえている。
その姿を見た葵が、今さら思い出したように聞いた。
「大丈夫?」
「今さら聞く?」
「弱いんだったら、次から見学しててもいいんだよ」
「うるせえって言ってんだろ」
葵は少し笑った。
*
瀬尾がまともに話せるようになるまで、しばらくかかった。
路地の壁際へ座らせると、さっきまでの異様な自信は薄れ、代わりに疲れ切った顔が戻ってきた。完全に薬が抜けたわけではなさそうだが、少なくとも、また殴りかかってくる様子はない。
玲司は痛む脇腹を押さえながら、瀬尾の前にしゃがんだ。
「もう一回聞くぞ。ギア、どこから仕入れてる」
瀬尾は顔を背けた。
「知らねえよ」
「知らないわけないだろ。お前がミサキに渡して、自分でも使ってたんだろ」
「本当に知らねえんだよ。名前も顔も知らねえ」
壁にもたれていた葵が聞く。
「じゃあ、誰からもらってるの?」
「匿名のメッセージアプリで指示が来るだけだよ」
「それだけ?」
「俺は言われた分を捌くだけ。向こうが誰かなんて知らねえし、会ったこともない」
玲司の顔が険しくなる。
「名前も顔も知らない奴の薬を売ってんのか?」
「そういうもんなんだよ」
「それで、売るはずのやつを自分で使った?」
瀬尾が口を閉じた。
葵もすぐに気づいた。
「ミサキに渡したのも、売る分から抜いたやつ?」
それでも瀬尾は答えない。
だが、その沈黙で十分だった。
玲司が呆れたように瀬尾を見る。
「だから俺たち見てビビったのか」
瀬尾はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように口を開いた。
「……数が合わなくなってる」
「どれくらい抜いた」
「ちょっとだったんだよ、最初は。自分で使って、ミサキにも渡して……それで」
「それで、バレたと思った?」
瀬尾は答えなかった。
玲司はゆっくり立ち上がる。
「俺らを、その回収に来た奴だと思ったわけか」
「ギアのこと知ってて、いきなり俺のところまで来たら、そう思うだろ」
「話くらい聞けよ」
「聞く前にお前が近づいてきただろ」
「殴ったのはお前だ」
「それは……」
瀬尾は言葉に詰まり、顔を背けた。
葵はバッグへギアのケースを戻してから、もう一度聞いた。
「その匿名の相手、本当に何も知らないの?」
「知らねえって。名前も顔も、本当の所属も何も知らねえ。匿名のメッセージアプリで連絡が来て、俺は言われたことをやるだけだ」
「誰がギアを作ってるかも?」
「知らない」
「どこから来てるかも?」
「知らねえよ」
玲司と葵は、今度こそ言葉を失った。
ミサキから瀬尾までは辿れたが、その先には名前も顔もない。瀬尾自身、誰のために売っているのかさえ知らず、匿名のメッセージで届く指示に従っていただけだった。
地下のクラブから漏れる低音が、路地の壁をかすかに震わせている。
玲司はしばらく瀬尾を見ていたが、これ以上聞いても新しい名前は出てこないと分かったのか、小さく息を吐いた。
「……面倒くせえな、これ」
葵も、その言葉には何も言い返さなかった。




