第7話 ギアの噂
《MUSE》の営業が終わる頃には、葵の足はすっかり重くなっていた。
店内ではまだ片づけが続いていたが、客の声はもう聞こえない。葵は更衣室でドレスを脱いで朝から着ていた服に戻ると、鏡の前で乱れた髪を手櫛で整えた。
昼の間、店ではずっとユナだった。
客の隣に座って笑い、酒を作り、どうでもいい話にも相槌を打つ。その途中で玲司まで客として現れたせいか、今日は普段より余計に疲れた気がする。
「あいつ、本当に来ると思わなかった」
思い出すとまた腹が立ってきた。ロッカーを閉めようとしたところで、後ろから声をかけられる。
「ユナ、もう帰る?」
振り返ると、マホが立っていた。
同じ《MUSE》で働くキャストで、普段は仕事中ずっと明るく喋っている女だが、今は珍しく表情が固い。バッグを肩にかけたまま、何か言おうとして迷っているようだった。
「帰るけど。何?」
「ちょっと聞きたいことあるんだけどさ」
「店のこと?」
「違う」
マホは周囲に誰もいないことを確かめるように目をやってから、少しだけ声を落とした。
「ユナって、この辺詳しいじゃん」
「まあ、それなりには」
「ギアって知ってる?」
葵の手が、ロッカーの鍵に触れたところで止まった。
ほんの一瞬だったので、マホは気づかなかったらしい。自分のバッグを抱え直し、そのまま話を続ける。
「最近、そういう薬があるらしくて」
「……何で?」
「友達がやってる」
葵は鍵から手を離し、マホの顔を見た。
「友達?」
「ミサキって子。二十歳なんだけど、最近ちょっと変なんだよね」
マホの話では、ミサキはここ一か月ほどで目に見えて痩せたらしい。もともと細い方だったが、最近はまともに食事を取らない日が増えた。それなのに本人は妙に機嫌がよく、夜中でも平気で出歩き、疲れているはずなのに延々と喋り続けることもあるという。
「痩せたかったみたいだから、最初は喜んでたんだけどさ。ご飯いらないって言うようになって、最近ほんと食べないんだよ」
「どれくらい?」
「分かんない。でも、この前一緒にご飯行ったときも、ほとんど残してた。なのに本人は、元気だから大丈夫って言うし」
マホは困ったように口元を歪めた。
「それで何日かすると、また欲しいって言い出すの」
葵は自分のバッグへ目を向けそうになり、途中でやめた。中には、まだギアが入っている。
「その薬がギア?」
「うん。本人がそう言ってた」
「ミサキは何て?」
「大丈夫だって。覚醒剤みたいなヤバい薬じゃないし、大麻みたいなもんだって聞いたって。依存もそんなにしないらしいし、痩せるし、気分もよくなるって」
葵は答えず、ホテルの廊下で暴れた男を思い出した。
腕を傷めても止まらず、額から血を流しながら警察官へ向かっていった。あの姿を目の前で見たあとでは、「大麻みたいなもの」という言葉をそのまま信じる気にはなれない。
「でも、それ依存してない?」
葵が聞くと、マホは待っていたように頷いた。
「私もそう思う。だって、なくなったらまた欲しいって言うんだよ? 最近なんか、その話ばっかりするし」
「どこで手に入れてるか聞いた?」
「そこまではちゃんと聞いてない。彼氏がどうとか言ってた気はするけど」
「彼氏?」
「うん」
その言葉が引っかかり、葵は少し考えた。
「そのミサキって子、今日会える?」
マホが意外そうに目を丸くする。
「会うの?」
「話くらい聞いてみたい」
「なんで?」
「気になるから」
自分も同じ薬を持ち、実際に飲んだことがあるとは言わなかった。マホが知っているのは、《MUSE》で働くユナだけだ。
トー横ではミオと名乗っていることも、ホテルで男から金を取ったことも、ギアを飲めば自分の体に何が起こるのかも知らない。今ここで、それを話す理由はなかった。
「ミサキ、家にいると思う。ちょっと連絡してみる」
マホがスマートフォンを取り出し、画面を操作する。少し待つと返信が来たらしく、マホは画面を見たまま口を開いた。
「いるって。私の友達がギアに興味あるからって言ったら、別にいいって」
「場所送って」
「ユナ、一人で行くの?」
「大丈夫」
「でも――」
「話聞くだけだから」
葵がそう言っても、マホはまだ心配そうだった。それでも住所を送ってくる。
「変だったらすぐ帰ってね」
「分かってる」
「あと、すすめられても飲んじゃだめだよ」
「……分かってるって」
返事が少し遅れたことを、今度もマホは気にしなかった。
*
《MUSE》の入っているビルを出ると、空にはまだ明るさが残っていたが、歌舞伎町の看板にはもう灯りが入り始めていた。これから仕事へ向かう人間と、すでに酔っている人間が同じ通りを行き交っている。
葵はバッグからスマートフォンを出し、マホから送られてきた住所を確認した。
「おい」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
少し離れたビルの壁際に、缶コーヒーを持った玲司が立っていた。目が合うと、こちらへ軽く顎を上げる。
葵は思わず足を止めた。
「……あんた、待ってたの?」
「まあな」
「何で?」
「帰る場所、一緒だろ」
「だからって外で待つ?」
「店にもう一回入る金はない」
「入ってこなくていいよ」
玲司は近くの回収箱へ空き缶を入れ、葵のところまで歩いてきた。
「仕事終わったのか」
「見れば分かるでしょ」
「さっき店にいたときより普通だな」
「もうユナじゃないから」
「店じゃユナだったな」
「そう」
「トー横じゃミオで、店じゃユナ。ややこしいな」
「葵でいい」
玲司が少しだけ目を丸くした。
何か返してくるかと思ったが、黙ったままだったので、葵はそのまま歩き出しかけた。
「そういえばさ」
「何」
「あんたの連絡先知らない」
今度は玲司が足を止める。
「……今さら?」
「今気づいた」
「昨日から一緒に逃げて、同じ部屋まで泊まってんのに?」
「別に連絡先なくても困らなかったじゃん」
「今まではな」
玲司は呆れながらもスマートフォンを取り出した。
「ほら」
画面を見せられ、葵も自分のスマートフォンを操作する。
「黒瀬玲司……っと」
「ちゃんと名前で入れろよ」
「便利屋でよくない?」
「やめろ」
「じゃあ玲司でいい?」
「好きにしろよ」
登録を終えた葵がメッセージを送ると、玲司のスマートフォンが鳴った。
「今送った」
「何これ」
「スタンプ」
「見れば分かる」
画面には、ゴリラが親指を立てているスタンプが表示されている。
玲司がゆっくり顔を上げた。
「お前、喧嘩売ってんの?」
「昨日のお返し」
「しつこいな」
「先に言ったのあんたでしょ」
葵は笑ってスマートフォンをバッグへ戻した。
「で、これからちょっと付き合って」
「どこに?」
「店の子の友達。ギアやってるらしい」
さっきまで呆れていた玲司の表情が変わる。
「……会ってどうする?」
「分かんないけど。あの薬、何なのか気にならない?」
葵は昨日の廊下を思い出しながら続けた。
「あんなの見せられたんだよ」
玲司はすぐには答えず、葵の顔を見た。その表情から冗談ではないと分かったのか、やがて小さく息を吐く。
「……まあ、それは気になる」
「でしょ」
「その子が何か知ってるとは限らないけどな」
「分かってる。でも、何もしないよりマシじゃん」
葵はマホから送られてきた住所を玲司へ見せた。
「二十歳の女の子。最近痩せて、飯もほとんど食べなくなったって。何日かすると、また薬を欲しがるって。でも本人は、ギアなら大丈夫って言ってるらしい」
「大丈夫って、何が」
「覚醒剤みたいに危なくない。大麻みたいなもんで、依存もしにくいって」
玲司の顔に、露骨な疑いが浮かんだ。
「依存しにくい奴が、何日かおきに欲しがるのか?」
「だから見に行くんでしょ」
「お前も飲んでる側だろ」
「私は違う」
「何が違うんだよ」
「とにかく違うの」
葵が強めに言い切ると、玲司はそれ以上追及しなかった。ただし、納得した顔でもない。
「場所は?」
「大久保。ここから歩ける」
「彼氏は?」
「いるらしいけど、詳しくは知らない。そいつからもらってるかもしれないって」
「じゃあ、そっちが本命じゃねえか」
「まだ分かんないよ」
「だから聞きに行くんだろ」
そう言って玲司が先に歩き出したので、葵は少し遅れて隣へ並んだ。
「来るんだ」
「一人で行かせて、また変な奴に絡まれたら面倒だからな」
「心配してんの?」
「仕事増やされたくないだけ」
「はいはい」
「本当だぞ」
「分かったって」
葵は笑いながら、玲司と並んで大久保の方へ歩き出した。
*
ミサキの住んでいるマンションは、大通りから少し入ったところにあった。古くも新しくもない、ごく普通の建物で、マホから話を聞いたときに葵が想像したような場所ではない。
薬にハマっていると聞いただけで、荒れた部屋や、見るからにおかしな人間を勝手に思い浮かべていたのかもしれなかった。
インターホンを押すと、少し間を置いて女の声が返ってくる。
『ユナ?』
「うん。マホから聞いてる?」
『聞いてる。上がって』
解錠音がして、二人は中へ入った。
「お前、ここでもユナなんだな」
「マホの友達だから。本名教える必要ないでしょ」
「徹底してんな」
「普通だよ」
部屋の前まで上がって葵がノックすると、すぐにドアが開いた。
出てきた女は、二十歳と聞いていた年齢より少し幼く見える。肩までの髪に大きめのパーカーを着て、化粧も薄い。マホから痩せたと聞いていたせいかもしれないが、細くなった頬や、袖から出た手首の細さが妙に目についた。
「ユナ?」
「そう。こっちは玲司」
「彼氏?」
「違う」
葵が間を置かずに答えると、後ろで玲司が顔をしかめた。
「そこまで即答しなくてもよくない?」
「違うでしょ」
「違うけど」
二人のやり取りを見て、ミサキが少し笑った。
「何それ。とりあえず入れば?」
部屋の中も、外から見た印象と同じで、ごく普通だった。
床には服が何枚か置かれ、テーブルには飲みかけのペットボトルと菓子の袋がある。コンビニの弁当も一つ置かれていたが、蓋は開いているのに、ほとんど手をつけた様子がない。
玲司も気づいたらしく、葵と一瞬だけ目が合った。
「マホに何言われたの?」
ミサキは床に座りながら、少し探るような顔で聞いた。
「私が薬中とか?」
「そこまでは言ってない」
「絶対言ってるじゃん」
笑ってはいるものの、声には少し苛立ちが混じっていた。
葵も向かいに座る。
「ギア使ってるって聞いた」
その一言で、ミサキの笑顔が止まった。
「……それ聞きに来たの?」
「ちょっと気になっただけ」
「何でユナが気にすんの?」
「歌舞伎町で名前聞いたことあるから」
名前を聞いたことがあるのは嘘ではない。ただ、自分自身がギアを持ち、実際に使ったことがあるところまで話すつもりはなかった。
ミサキはしばらく葵を見ていたが、それ以上問い詰めても何も出ないと思ったのか、やがて肩の力を抜いた。
「別に大した薬じゃないよ」
「そうなの?」
「うん。みんな大げさなんだって。覚醒剤みたいなやつじゃないし、大麻みたいな感じだって聞いてる」
「誰から?」
「知ってる人」
「依存もしない?」
「しにくいって」
それまで黙っていた玲司が、横から口を挟んだ。
「しにくいって、今どれくらい使ってんの?」
ミサキが不審そうに玲司を見る。
「何、この人」
「気にしなくていい」
「気にするだろ」
玲司の抗議を葵は無視し、ミサキへ聞き直した。
「どのくらいの間隔で欲しくなる?」
「別に欲しくなるっていうか……」
ミサキは答え方を探すように少し考えた。
「なくなったら、また欲しいなって思うくらい」
「それ何日くらい?」
「二日とか三日とか。別に毎日じゃないよ」
「食べてる?」
葵がテーブルの弁当へ目をやると、ミサキも釣られてそちらを見た。
「あんまりお腹減らないんだよね。むしろ楽。勝手に痩せるし」
「マホ心配してたよ」
「マホが心配しすぎなんだって」
そう言いながら、ミサキの膝は落ち着きなく小刻みに揺れていた。本人にはその自覚がないのか、止めようとする様子もない。
その姿を見ているうちに、葵は何も言えなくなった。
自分も同じ名前の薬をバッグに入れている。しかも飲めば男を吹き飛ばせるほどの力が出ることを知ったうえで、それを自分の都合に利用していた。
そんな自分が、ミサキにだけ「やめろ」と言えば済む話なのか。そう考えると、簡単には言葉が出てこなかった。
代わりに玲司が口を開く。
「それ、どこで買ってんの?」
それまで揺れていたミサキの膝が止まった。
「買ってないよ」
「じゃあ誰にもらってる?」
「何でそんなことまで言わなきゃいけないの」
「昨日、それ飲んだっぽい奴が警官ぶっ飛ばしてるから」
「は?」
ミサキの顔から笑いが消えた。
葵は思わず玲司を見る。
「そこまで言う?」
「言った方が早いだろ」
「何それ。ニュースになってんの?」
今度はミサキが身を乗り出してきた。
「知らない。俺たちはその場にいた」
玲司はそこまで言うと、それ以上詳しく説明しなかった。
ミサキは二人を交互に見比べていたが、しばらくすると落ち着かない様子で顔を背けた。
「でも、私そんなふうになってないし」
「だからって安全とは限らないでしょ」
葵が言うと、ミサキは少しむっとした顔をする。
「ユナまでマホみたいなこと言うんだ」
「その薬、誰からもらってるの?」
「だから、何で――」
「別に警察に言うとかじゃない」
葵は途中で遮った。
「ただ知りたいだけ」
ミサキは口を閉じた。
誰も喋らなくなると、部屋の中には冷蔵庫の低い作動音だけが残った。しばらく黙っていたミサキは、やがて面倒そうに髪をかき上げる。
「……彼氏」
葵と玲司が、ほとんど同時にミサキを見る。
「彼氏が持ってくるの?」
「うん」
「そいつ、自分でも使ってる?」
「使ってるよ」
「どこで手に入れてるか知ってる?」
「知らない。そこまで聞いてない」
玲司が葵へ目を向けた。
彼氏がギアを持ってくるなら、次に話を聞く相手は決まっている。葵にも、玲司が何を考えたのかすぐに分かった。
「その彼氏、今どこにいるの?」
葵が聞くと、ミサキの表情が警戒するように変わった。
「……なんで?」
葵はすぐには答えず、隣の玲司を見る。
玲司も口を挟まず、ミサキの返事を待っていた。




