第6話 昼のユナ
目を覚ましたとき、玲司は自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。
狭いソファに横向きで寝たせいで首が痛い。寝返りを打とうとして背中が背もたれにぶつかり、そこでようやく昨夜のことを思い出した。
歌舞伎町のホテル。壁をぶち破った男。新宿駅までの逃走。そのあと、篠崎葵を連れて中野の仕事部屋まで来た。
「……いてぇ」
体を起こすと、昨日ぶつけた腰まで重く痛んだ。
窓から差し込む朝の光で、昨夜より部屋の狭さがよく分かる。机の上には飲みかけの水が残り、床へ落ちたクッションもそのままだった。
玲司は寝癖のついた髪を掻きながら、部屋を見回した。
「おい」
返事がない。
昨日、葵が使った毛布は床に残っていたが、本人の姿はなかった。
「……あいつ」
ソファから立ち上がったところで、玄関の鍵が回る音がした。
玲司がそちらを見ると、ドアが開き、コンビニの袋を提げた葵が入ってくる。昨夜と同じ服装で、長い髪だけが適当に後ろでまとめられていた。
「何してんの?」
「それ俺の台詞だろ。お前、どこ行ってたんだよ」
「コンビニ」
葵は悪びれた様子もなく靴を脱いだ。
「朝飯買ってきた」
「勝手に消えるなって昨日言ったよな」
「近所のコンビニくらいいいでしょ。逃げてないし」
「起きたらいねえんだから分かんねえだろ」
「細かいなあ」
文句を言いながらも、葵はコンビニ袋をテーブルへ置いた。中からペットボトルの茶とおにぎりを取り出し、そのうち一組を玲司へ差し出す。
「はい。あんたの分も買ってきた」
「……マジかよ」
「何よ、その言い方」
「昨日まで俺の財布を狙ってた奴が朝飯買ってきたんだぞ。警戒くらいするだろ」
「買ってきてあげたんだから、普通にありがとうって言えないの?」
玲司はまだ疑いながらも、おにぎりと茶を受け取った。
「どうも……ありがと」
「心こもってない」
「うるせえな」
包装を破りかけたところで、玲司の目がテーブルの端に止まった。
そこには、自分の財布が置かれていた。
昨夜、ズボンのポケットに入れたまま寝たはずだった。
玲司はおにぎりを持ったまま財布を掴み、中を開いた。紙幣を確かめてから、ゆっくり葵を見る。
「……お前」
「何」
「これ、金どうした?」
「ん?」
「朝飯の金」
「あんたの財布からもらった」
「やっぱりか!」
玲司が財布を閉じる音に、葵は面倒そうな顔をした。
「ちゃんと必要な分しか取ってないって」
「そういう問題じゃねえよ。人の財布から勝手に金取んな!」
「あんたの分も買ってきたんだからいいじゃん」
「良くねえよ!」
「じゃあ返して」
葵が玲司の手にあるおにぎりへ手を伸ばしたので、玲司は反射的に腕を引いた。
「これは食う」
「食うんじゃん」
「俺の金だろうが!」
「だったら文句ないでしょ」
「あるわ!」
朝から怒鳴るのも馬鹿らしくなり、玲司は財布をズボンのポケットへ押し込んだ。今度から寝るときも枕の下にでも入れておこう、と本気で思う。
葵は勝ったような顔で自分のおにぎりを開けていた。
玲司も諦めて包装を剥がし、一口食べる。昨夜はまともに食事をしていなかったせいか、腹に入ると少しだけ頭が動き始めた。
「で」
「何」
「今日一日どうすんだよ」
葵はおにぎりを食べながら、あっさり答えた。
「仕事行く」
玲司の手が止まった。
「仕事?」
「うん」
「お前に仕事なんかあんの?」
「失礼すぎない?」
葵が露骨に顔をしかめる。
玲司は昨夜からの行動を思い返した。歌舞伎町で男に声をかけ、自分をホテルへ連れ込み、バッグにはメリケンサックと正体不明の薬。
「……また強盗しに行くんじゃねえだろうな」
「違うわよ!」
葵が食べかけのおにぎりを持ったまま声を上げた。
「そんなことするわけないじゃん」
「お前が言うと説得力ねえんだよ」
「昼間からそんなことするわけないでしょ」
「昼ならやらないって問題でもねえだろ」
玲司は茶を飲みながら、改めて葵を見る。
「じゃあ仕事って何だよ。お前、何やってんの?」
「昼キャバ」
「……昼キャバ?」
「知らないの?」
「知ってるよ。昼にやってるキャバクラだろ」
「知ってんじゃん」
葵は残っていたおにぎりを口へ入れ、袋を丸めた。
「歌舞伎町の店で働いてんの。もう行かないと遅れる」
「お前、普通に働いてたのか」
「何だと思ってたの?」
「その辺で人殴って金取って生活してんのかと」
「二回しかやってないし」
「回数の問題じゃねえ」
玲司が言うと、葵は立ち上がって自分のバッグを取った。
「じゃ、行ってくる」
「待て待て」
「今度は何?」
「店どこだよ」
葵の動きが止まった。
「……そんなことまで言わなきゃいけないの?」
「昨日お前を連れてこうとした連中がいたばっかりだぞ。どこ行ったかくらい分かるようにしろって言っただろ」
「監視じゃん」
「また消えられるよりましだ」
「面倒くさ」
葵は嫌そうな顔をしたまま、店の名前を告げた。
「《MUSE》。歌舞伎町の昼キャバ」
「ミューズ?」
「そう。調べれば出るから」
「分かった」
「絶対来んなよ」
「誰が行くか」
即答すると、葵は疑うように玲司を見た。
「本当に?」
「早く仕事行けよ」
「言われなくても行く」
玄関まで歩いていった葵は靴を履き、ドアを開ける直前に一度振り返った。
「財布、今度からちゃんと隠しといた方がいいよ」
「誰のせいだと思ってんだ!」
葵は笑いながらドアを閉めた。
*
歌舞伎町は昼になっても人が多かった。
昨夜とは違い、空にはまだ明るさが残っている。それでも通りには飲食店の看板が並び、観光客がスマートフォンを向け、眠そうな顔で歩く男の横を、これから仕事らしい女が追い越していく。
玲司はビルの前でスマートフォンを見た。
《MUSE》
店名は合っている。
「……来んなって言われると、ちょっと見たくなるんだよな」
自分でも子供っぽい理由だと思った。
もちろん、それだけではない。
昨日、正体の分からない男たちが葵を連れ去ろうとしている。本人は平気な顔で仕事へ出ていったが、本当にいつも通り働けるのかくらいは見ておきたかった。
そう考えれば、少しは仕事の延長と言えなくもない。
「経費にはならねえだろうけど」
玲司は小さくぼやき、店へ入った。
昼キャバと聞いて明るい店内を想像していたが、中へ入れば照明は落としてあり、夜の店とそれほど雰囲気は変わらない。ただ、完全に外の光を遮ってはいないらしく、カーテンの隙間から昼の白い光が細く差し込んでいた。
案内された席に座ってしばらくすると、店の奥から女が一人歩いてきた。
玲司は一瞬、別人かと思った。
髪はきちんと整えられ、化粧も昨夜より少し濃い。細身のドレスに着替え、歩き方まで歌舞伎町で見たときとは違って見える。
向こうも玲司に気づいた。
笑顔が止まる。
「……あんた、来たの?」
「来ちゃ悪いのかよ」
「絶対来んなって言ったじゃん」
「絶対とは言ってなかっただろ」
「言ったよ!」
葵――店ではユナと呼ばれているらしい――は、玲司の隣に座りながらあからさまに嫌そうな顔をした。
「何しに来たの?」
「客」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「そうじゃなくて!」
大きな声を出しかけ、葵は周囲を気にして音量を落とした。
「店の場所聞いたと思ったら、本当に来るとか普通思わないでしょ」
「暇だったんだよ」
「仕事しろよ」
「今日は呼ばれてねえ」
「日雇いって大変だね」
「急に上から来たな」
葵は鼻で笑うと、テーブルに置かれたメニューを玲司の前へ押した。
「せっかく来たなら、ボトル一本くらい入れてよね」
「そんな金あるわけねえだろ」
「ケチ」
「ビールで勘弁しろよ」
「朝飯代であんな騒いでたくせに、酒には金使うんだ」
「二十歳だからな」
玲司が言うと、葵は一瞬黙った。
「何」
「いや。昨日、煙草くれなかったの思い出した」
「お前は二十歳になってからだ」
「はいはい」
店員にビールを頼み、葵がテーブルの上を整える。
その手つきを見ていると、少なくともここではちゃんと仕事をしているらしい。言葉遣いも、外にいるときより少しだけ柔らかい。
玲司は届いたビールを受け取りながら、葵を上から下まで眺めた。
「何」
「いや……」
「何よ」
「こうして店で見ると、お前ちゃんと女だな」
葵の眉が動いた。
「は?」
「夜はゴリラになるくせに」
「殴るわよ」
玲司はビールを一口飲み、笑った。
「ほら、それだよ」
「今すぐ帰れ」
「客に言う台詞かよ」
「客じゃなかったらもう殴ってる」
「それ店の人に聞かせて大丈夫?」
葵は笑顔のまま、テーブルの下で玲司の足を蹴った。
「痛っ! お前、客に手ぇ出したぞ!」
「足だからセーフ」
「何がセーフなんだよ」
昨夜、同じ女を追いかけて新宿駅まで走ったとは思えない。
玲司は蹴られた脛をさすりながら、もう一口ビールを飲んだ。
目の前では、葵が何事もなかったように笑っている。
この店では、篠崎葵ではなくユナ。
昨夜のホテルでメリケンサックを嵌めていた女とも、ギアをバッグに入れて逃げ回っていた女とも違う顔をしていた。
玲司はビールのグラスを置いた。
「お前、意外とちゃんと働けるんだな」
「さっきから失礼すぎるんだけど」
「褒めてんだよ」
「どこが?」
「少なくとも俺の財布から金抜くより健全だろ」
「朝飯買っただけじゃん!」
葵の声が店内に響き、近くにいたキャストがこちらを見て笑った。
葵は気づいて顔をしかめる。
「……あんた、もう帰って」
「まだビール残ってる」
「飲んだら帰れ」
「ボトル入れろって言ってた奴が何言ってんだよ」
「気が変わった」
「売上いいのか、それで」
「うるさい」
玲司は笑いながらグラスを持ち上げた。
昨夜から何一つ解決してはいない。
それでも今だけは、歌舞伎町の昼の店で、十八歳のユナが客を相手に働いていた。




