第5話 追う側
救急車がホテルの前を離れていった。
回転する赤い光が歌舞伎町の看板や雑居ビルの壁を流れ、交差点の向こうへ消えていく。その後にも数台のパトカーが残り、ホテルの入口では制服姿の警察官が、足を止めようとする野次馬や宿泊客を建物から遠ざけていた。
久世凌介はその様子を眺めながら、ホテルを見上げた。
「派手にやったな」
「警察官が一名、負傷しています」
隣を歩いていた榊美冬が、すぐに返した。
「そういう意味じゃない。建物の方」
久世が上を指すと、榊もホテルの壁へ目を向ける。
「壊した分、誰が払うんだろうなと思って」
「気になるなら、あとでホテルに聞いてください」
「いや、そこまで興味ない」
「では、行きましょう」
「冷たいなあ」
久世がぼやいても、榊は足を止めなかった。
二人は警視庁刑事部薬物銃器対策課の捜査員だった。入口で待っていた所轄の刑事に身分を示すと、そのままエレベーターで事件のあった階へ上がる。
扉が開いた途端、久世は正面の廊下を見て足を緩めた。
鑑識が出入りする先で、壁の一部が大きく破れている。廊下には白い粉と細かな破片が残り、その向こうには別の客室まで見えていた。
「……こりゃまた」
近くまで歩いてから、久世は壊れた壁を覗き込んだ。
「これを人間がやったのか?」
「正確には、警察官ともみ合ったまま突っ込んだそうです」
案内してきた刑事が答えた。
「通報を受けた警察官が到着したあと、男の一人が突然暴れ出しました。制止しようとした警察官が負傷して、先ほど救急搬送されています。意識はあります」
「暴れた男は?」
「逃走中です。戸倉慎吾。身元までは確認できています」
久世が壊れた壁から顔を戻す。
「戸倉慎吾……」
「緊急配備をかけていますが、まだ確保できていません」
横で聞いていた榊が口を開いた。
「戸倉は、警察官が来る前から暴れていたんですか?」
「客室内で別の男女と揉めていたようです。ただ、警察官が到着した直後は一度おとなしくなっています。そのあと急に様子が変わった、と」
「様子が変わった?」
久世が聞き返すと、刑事は少し言葉を選んだ。
「現場にいた警察官の話では、異常に興奮していたそうです。腕を痛めても止まらない。頭をぶつけて血を流しても気にせず、何人で押さえても暴れ続けた。それで、薬物の可能性があるんじゃないかという話になりまして」
「なるほど。それで俺たちにお呼びがかかったわけか」
久世はもう一度、壁に開いた穴を見た。
酔って暴れた人間なら珍しくない。歌舞伎町なら、久世自身も何度となく見てきた。それでも、複数の警察官に押さえられながら自分の怪我を構わず暴れ、壁まで壊して逃げたという話には、酒だけでは片づけにくいものがある。
「現物は?」
「今のところ何も」
「錠剤も、粉も?」
「出ていません。客室と廊下は確認中ですが、それらしいものはまだ見つかっていません」
久世が榊を見ると、彼女は何も言わずに問題の客室へ入った。
室内には争った跡が残っていた。椅子は倒れ、テーブルも元の位置からずれている。床にはグラスの破片が残り、ベッドのシーツも乱れていたが、薬物事件だと一目で分かるようなものはない。
榊は足元を確かめながら室内を一周し、入口に立つ久世を振り返った。
「少なくとも、見える場所にはありませんね」
「だから余計に気になる」
「現物がない以上、今は何とも言えません」
「分かってるよ」
「なら結構です」
「俺、そんなに信用ない?」
「ありますよ」
榊は一拍置いた。
「半分くらいは」
「それ、信用あるって言うのか?」
久世は苦笑しながら室内へ入った。
薬物そのものは見つからない。それでも、歌舞伎町で最近耳にする名前が、頭の隅に引っかかっていた。
――ギア。
まだ警察が正体を掴んだ薬物ではない。押収例が積み上がって成分や流通経路まで明らかになっているわけでもなく、街で聞き込みを続けていると、その名前だけが何度か出てくる程度だった。
同じ物を指しているのかさえ、まだ分からない。
「例のギアって線は?」
久世が口にすると、榊はすぐには頷かなかった。
「可能性ならあります。ただ、戸倉が何かを飲んだという証言があっても、現物がありません。ギアだったと確認できる材料もないです」
「まあ、そうなるよな」
「ギアという名前を知っているからといって、何でもそこへ結びつけないでください」
「まだ何も結びつけてないだろ」
「今のうちに言っておきました」
「先回りが好きだな、お前」
榊は返事をせず、倒れた椅子の向こうへ目を向けた。
久世もそれ以上は言わなかった。
薬が出てこない以上、今ここで決めつけても仕方がない。ただ、何もなかったことにして帰れる事件でもなかった。警察官を一人病院送りにした男が、今も歌舞伎町のどこかを逃げている。
「防犯カメラ、見られる?」
久世が所轄の刑事へ聞いた。
「はい。事件前後の映像を確保しています」
*
ホテルの事務室には、防犯カメラの映像を映すモニターが並んでいた。
入口、ロビー、エレベーターホール、客室階。榊は事件が起きる少し前まで映像を戻し、複数のカメラを順に確認していく。
その後ろから画面を覗いていた久世は、しばらく黙っていたものの、数分もしないうちに椅子の背へ手をかけた。
「腹減ったな」
「今ですか?」
「こういうの見てると腹減らない?」
「なりません」
「俺だけ?」
「たぶん」
「そうか」
榊は相手にせず、再生速度を少し落とした。
ホテルという場所だけに、カメラへ顔を向けたがらない客は珍しくない。帽子を深く被った男もいれば、俯いたままエレベーターへ急ぐ女もいる。その中から事件に関係する人間だけを拾うには、時間を追って確認していくしかなかった。
やがて榊の指が止まった。
「戸倉、いました」
映像の中を、灰色のスーツを着た大柄な男が歩いている。
久世が画面へ身を寄せた。
「間違いない?」
「提出された写真と一致します」
榊は時刻を確認してから、別のカメラへ切り替えた。
「事件のあとは?」
「そこを見ます」
「はいはい」
しばらく映像を進めたところで、客室階の廊下に若い女が飛び出してきた。
かなり急いでいる。長い髪を揺らしながら廊下を駆け抜け、その少しあとを、若い男が追っていく。
「待って。今の二人、戻して」
久世の声から軽さが消えた。
榊も気づいていたらしく、すぐに映像を数秒戻す。女がカメラの近くを通るところで止めると、画面には横顔だけでなく、正面に近い角度から顔が映っていた。
「若いな」
久世が椅子の背に手をついたまま画面を見る。
「十代か?」
「そう見えますね」
「男も見せて」
少し進めると、あとから走ってきた男の顔も確認できた。こちらも若く、久世には二十歳前後に見えた。
「顔は使えそうだな」
「十分確認できます」
「戸倉の仲間か?」
「分かりません」
「即答だな」
「分からないものを、分かるとは言えませんから」
「真面目だねえ」
「仕事中です」
榊は二人が映った箇所を別々に止め、顔の確認しやすい画面を選んでいく。
久世は腕を組みながら、その作業を見ていた。
映っている男女が戸倉の仲間だという証拠はない。むしろ事件に巻き込まれ、逃げただけという可能性もある。警察沙汰になれば面倒を嫌って立ち去る人間など、この辺りではいくらでもいる。
ただし、この二人は事件が起きた客室の近くから、ほとんど同じタイミングで走って逃げている。戸倉について何も知らない、ただの宿泊客と考えるには引っかかる。
「部屋の利用者は?」
「そちらも確認中です」
「この二人の名前もまだ?」
「分かっていません」
榊が答えながら、女の画像と男の画像を並べた。
その横には戸倉慎吾の写真がある。
三人が同じ事件の中にいたことだけは、映像から確認できた。
「逃げたからって犯人扱いはするなよ」
「久世さんに言われなくても、そのつもりです」
「なんで俺が言うと意外そうなんだよ」
「日頃の行いでは?」
「上司に厳しくない?」
「事実です」
久世は呆れた顔をしたが、すぐにモニターへ目を戻した。
「少なくとも、この二人は何か見てるだろ。戸倉が暴れ出す前から部屋にいたなら、話を聞く価値はある」
「重要参考人として回しますか?」
「ああ。まず身元を割ってくれ。ただし、ギアの名前はまだ乗せなくていい」
榊が久世を見る。
「戸倉との関連が確認できていないから?」
「それもある。現物がない以上、戸倉がギアを使った証拠もないし、この二人に至っては何か持ってたかどうかすら分からない。こっちが勝手に話を作る段階じゃない」
「珍しく慎重ですね」
「俺、いつも慎重なんだけど」
「そういうことにしておきます」
榊が二人の静止画を捜査用に送る準備を始めた。
事務室の外では無線の声が途切れず、逃走した戸倉慎吾について新しい情報が入るたび、廊下を行き来する警察官の足音が増えている。緊急配備はまだ続いていた。
久世は戸倉の写真を一度見たあと、もう一度、若い男女が並んだ画面へ目を戻した。
「戸倉はそのまま追う。この二人も探して、見つけたらまず話を聞く」
「了解しました」
「女の方、かなり若いな」
「見れば分かります」
「いや、そこじゃなくて。あの部屋で何があったのかと思って」
「それを聞くために探すんでしょう」
「おっしゃる通りで」
久世はそれ以上画面を眺めても答えは出ないと判断し、事務室の出口へ向かった。
「どこへ?」
榊が背中へ声をかける。
「自販機」
「さっき腹が減ったと言ってませんでした?」
「コーンスープがあるかもしれない」
「食事に数えないでください」
「榊」
「何ですか」
「お前、人生損してるぞ」
「少なくとも、久世さんより健康には長生きできそうです」
振り返った久世が何か言い返そうとしたが、やめた。
榊はもうモニターへ向き直り、二人の顔が最もよく映っている画像を選び直している。
ホテルから走り去った若い男と女。
今はまだ、警察は二人の名前を知らなかった。




