第4話 アジト
「ゴリラって言うな」
葵は吐き捨てるように言うと、背を預けていた柱から離れた。
新宿駅の構内は、こんな時間でも人が途切れない。電車を降りてくる人、改札へ急ぐ会社員、大きなキャリーバッグを引く旅行客が絶えず行き交っている。この人波に紛れ込まれたら、玲司にももう一度見つけられる自信はなかった。
葵はそのまま人混みへ歩き出そうとした。
「じゃ、私行くから」
「待てよ」
「何」
「どこ行くんだよ」
「知らない。適当に」
足を止める気配がないので、玲司は追いかけて横へ並んだ。
「だから待てって。せっかく見つけたのに、また消えるなよ」
「見つけたんでしょ。仕事終わりじゃん」
「まだ報告してねえよ」
「じゃあ今すれば?」
「無事でしたって連絡した直後に、お前がまた行方不明になったらどうすんだよ。本当に本人に会ったのかって疑われるだろ。下手したら、もう一回探してくれって話になる」
そこでようやく葵が足を止めた。
「だったら断ればいいじゃん」
「断れる立場なら苦労してねえよ」
玲司は殴られた頬に触れた。軽く押しただけでもまだ痛むし、走り続けたせいで腰から下まで重い。そのうえ明日になって、また歌舞伎町で篠崎葵を捜してこいと言われたら、さすがに割に合わない。
「俺、下っ端なんだよ。また仕事振られたら行くしかないの」
「知らないよ、そんなの」
「俺だってお前の都合なんか知らねえよ。だから、勝手に消えて余計な仕事増やすなって言ってんの」
葵は呆れたように玲司を見た。
玲司が葵を引き止めているのは、仕事の都合が大きかった。もう一度歌舞伎町を歩き回る羽目になるのは勘弁してほしい。それでも、ホテルで「お前は関係ない、帰れ」と言われたとき、葵を置いて出ていけなかった。今も、追ってくる男がいると分かっているのに、新宿駅で「じゃあな」と放り出して帰るのは後味が悪い。
「じゃあ、どうしろっていうの」
「少なくとも今夜は、勝手に消えんな。どこにいるかくらい分かるようにしろ」
「家には帰らないよ」
「それはもう分かってる」
「トー横も戻らない」
そこだけは、葵も迷わなかった。
駅まで走ってくる途中、葵は何度も後ろを振り返っていた。ホテルへ来た男たちを警戒しているのだろう。
「……あいつら、まだいるかもしれないし」
「だろうな」
「ホテルに警察来たんだから、今日はもう動かないかもしれないけど」
「それも分からん。何人いるのかすら知らねえし」
「だから、しばらく消えとく」
「どこに?」
「それを今考えてんの」
苛立った声を返され、玲司は少し考えた。
自宅へ連れていく気はなかったし、事務所へ連れていけば事情を説明する羽目になる。ただ、張り込みや泊まり込みの仕事で使っている部屋が一つある。自分が寝ることもあるが、普段から誰かが暮らしている場所ではない。
「……泊まれる場所ならある」
葵の目が細くなった。
「どこ」
「中野」
「誰の家?」
「家じゃない。仕事で使ってる部屋」
「二人で?」
「嫌なら来なくていい」
「変なことすんなよ」
「しねえよ。ゴリラかもしれない女に手ぇ出すかよ」
「まだ言うか」
葵が玲司の腕を叩いた。
「痛っ」
大した力ではなかったが、殴られた後だけに腹が立つ。
「お前、今日俺が何発食らったと思ってんだよ」
「私じゃないし」
「今のはお前だろ!」
玲司が歩き出すと、葵は少し遅れてついてきた。
*
中野へ向かう間、葵はほとんど喋らなかった。
電車ではドアのそばに立ち、葵は窓に映る車内を何度も見ていた。玲司もつられて乗客の顔を確かめたが、ホテルで見た男たちはいなかった。それでも安心できないのか、葵は駅を出てからも一度後ろを振り返った。
「ついてきてるか?」
「分かんない」
「いや、いないな。さっきから後ろにそれっぽい奴はいない」
「だったら聞くなよ」
狭い道路をしばらく歩き、玲司はマンションの前で足を止めた。
目立つ建物ではない。玲司自身、ここを家だと思ったことはなかった。入口を抜け、部屋まで上がって鍵を開ける。
先に中へ入り照明をつけてから振り返ると、葵は玄関の外に立ったまま室内を覗いていた。
「何してんの」
「見てる」
「何を」
「本当に変な部屋じゃないか見てんの」
「変な部屋ってなんだよ」
葵は玄関から部屋の奥まで見渡してから、ようやく靴を脱いだ。
室内には机と椅子、小さな冷蔵庫、それにソファなど、仕事で使うための最低限の物しかない。人が暮らしている部屋というより、休憩と泊まり込みができる仕事場に近かった。
玲司が上着を脱いで椅子へ掛け、スマートフォンを取り出したところで、葵が振り返る。
「なんて報告すんの」
「見つかりました。無事で、元気にしてました。それでいいだろ」
「それだけ?」
「男を襲って金巻き上げてたことも、変な連中に連れていかれかけたことも黙っといてやるよ」
葵の目つきが変わった。
「絶対だからね」
「分かったよ」
「薬のことも」
「それも言わねえ」
「本当に?」
「心配なら横で聞いてろ」
玲司が叔母へ電話をかけると、葵は本当にすぐ横まで寄ってきた。スマートフォンに耳を寄せようとするので、玲司は肩で押し返す。
「近い」
「聞こえないじゃん」
「俺が電話してんの」
相手が出ると、葵はようやく黙った。
「あ、黒瀬です。遅い時間にすみません。篠崎葵さん、見つかりました」
電話の向こうから叔母の驚いた声が返ってきた。
「はい。本人と会って、ちゃんと話もできました。大丈夫です。元気にしてました」
横で葵がじっと玲司を見ていた。
「今いる場所は……本人が伝えてほしくないと言ってるんで、俺からは言えません。帰るかどうかについても、今のところ本人にその気はないです。ただ、無事なのは間違いないです」
何度かやり取りをして電話を切ると、葵はすぐに口を開いた。
「母さんのこと、なんか言ってた?」
「叔母さんから伝えるんじゃないか」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
電話中は玲司のすぐ横にいたくせに、用が済むとあっさり離れて部屋の奥へ行った。玲司はその背中を見送りながら、スマートフォンをポケットへ戻した。
「で、これからどうするんだよ」
「さあ。分かんない」
「何にも考えてねえのかよ」
「考えてたら家出してないかもね」
「そこは自覚あんのな」
「うるさい」
葵はバッグを床へ置き、ソファへ腰を下ろした。
「とりあえず、しばらくトー横には行かない。あいつらがまだいるかもしれないし、ほとぼりが冷めるまでは顔出さないようにする」
ホテルへ来た三人だけなのか、それともほかにも仲間がいるのか。そもそも、なぜ葵を連れていこうとしたのかも分かっていない。
葵は、自分が金を奪った男の誰かが報復に来たと思っていた。だが、実際に来た男たちは「金の話じゃない」と言い、「傷つけるなって話だ」とも言っていた。
葵は室内を見回したあと、ソファの背にもたれた。
「で、このアジト、いつまでいれんの?」
「しばらくはいいけど、ほとぼりが冷めたら出てけよ。それと、出るときは言え。黙って消えるな」
「分かった」
「それと、ここはアジトじゃねえよ」
「じゃあ何」
「仕事で使ってる物置みたいな部屋」
「ここ、あんたの家じゃないの?」
「違う。機材とか置いてる倉庫代わり」
「あ、そう」
「聞いといて興味なくすの早いな」
「だって家じゃないんでしょ」
それで話は終わったかと思ったが、葵は自分のバッグを足元へ引き寄せると、ソファを軽く叩いた。
「じゃあ、あんたは外で寝てね」
「なんで俺が追い出されるんだよ」
「十八歳の女の子と一緒の部屋で寝る気?」
「お前、数時間前まで俺をホテルに連れ込んで金取ろうとしてただろ」
「あれは別」
「何が別なんだよ」
「仕事だから」
「強盗を仕事って言うな」
ホテルを飛び出してから、葵が笑ったのは初めてだった。
玲司は壁にもたれようとしたが、腰に痛みが走ってすぐに体を離した。それを見た葵が、今度は声を立てて笑った。
「ダサ」
「誰のせいでこうなったと思ってんだ」
「殴ったの私じゃないし」
「原因の半分くらいお前だろ」
「勝手についてきたんじゃん」
「俺をホテルまで連れてった奴が言うな」
葵は悪びれもしない。
玲司は呆れながら冷蔵庫を開け、水を一本取った。もう一本を葵へ放ると、彼女は片手で受け取ってキャップを開ける。
そのとき、足元の黒いバッグが目に入った。中にはメリケンサックと、縁に切れ込みのある灰色の錠剤が入っている。ホテルの廊下で男が飲んだものと同じ、ギアと呼ばれる薬だ。
バッグを見た途端、ホテルの廊下で暴れた男の姿が頭に戻ってきた。押さえられた腕を傷めても止まらず、額から血を流しながら警察官へ向かっていった。痛みも、その先に起きることも、何一つ考えていないようだった。
同じ薬が、今も葵のバッグに入っている。
「なあ」
「何」
「あのギアって、結局なんなんだよ」
葵が水を飲む手を止めた。
「だから、詳しくは知らないって言ったじゃん」
「聞いたよ。でも、あんなの見せられたら、もう一回聞きたくなるだろ」
「私だって、あんなの初めて見た」
葵はすぐに答えた。少なくとも、誤魔化しているようには見えなかった。
「お前も、ああなるのか?」
「なってないし。見ればわかるだろ」
葵は両手を持ち上げ、拳を握って見せた。
「痛いのも分かるし、頭だって普通。あんなふうに止まらなくなったこともない」
「でも、飲んだら力が出るんだろ」
「出るよ」
「どれくらい」
「前に言ったじゃん。男が飛んだ」
「それ、まだ俺は見てねえからな」
「疑ってんの?」
「壁ぶち破った奴を見たあとだぞ。前よりは信じてる」
「何それ」
葵は不満そうに拳を下ろした。
「同じギアなんだよな」
「たぶん。錠剤は同じだった」
「じゃあ、あいつだけ変だったのか」
「知らない。私も、ほかの人が飲んでるところなんて見たことなかったし」
「使ってる奴がいるのは知ってたんだろ?」
「いるって話は聞くよ。歌舞伎町で回ってるって。でも、飲んだあとまで見て回ってるわけじゃない」
「そりゃそうか」
出方に多少の違いがあるだけなのかもしれない、と玲司は思った。
葵は力が出ると言い、ホテルの男は怪我も構わず暴れ続けた。どちらにせよ、普通の薬ではない。それ以上のことは、今の玲司にも葵にも分からない。
「それ、まだ持ってんのか」
玲司がバッグを見ると、葵はバッグの口を押さえた。
「持ってる」
「今夜は飲むなよ」
「なんであんたに決められなきゃいけないの」
「この部屋の壁ぶち破られたら俺が困る」
「だから私はあんなのにならないって」
「ゴリラにはなるかもしれないだろ」
「しつこい!」
クッションが飛んできた。
玲司は顔の前で受け止めたが、続けてもう一つ投げられたので、今度は体をずらして避けた。
「お前、暴力で解決する癖やめろよ!」
「うるさい!」
「今日だけで何回目だよ」
「数えてない」
床へ落ちたクッションを挟んでしばらく睨み合ったあと、先に吹き出したのは葵だった。玲司もつられて笑い、クッションを拾い上げた。
警察のことも、ホテルへ来た男たちのことも、ギアのことも何一つ片づいていない。それでも葵はソファに座ったままで、今すぐ出ていく様子はなかった。少なくとも今夜、玲司がまた後を追いかけることはなさそうだった。
「それ使って寝ろ」
玲司がクッションを投げ返すと、葵は受け取ってソファへ置いた。
「ソファは?」
「俺」
「ケチ」
「ここ俺の仕事場だからな」
「家じゃないんでしょ」
「そういうときだけ覚えてんじゃねえよ」
葵は笑いながらソファの背へもたれた。その足元の黒いバッグには、まだギアが残っていた。




