第3話 ギア
サイレンが近くで止まってから、廊下の騒ぎがいっそう大きくなった。従業員の、こっちです、という声に続いて、開いたドアから制服姿の警察官が入ってきた。
「警察です。全員、離れて!」
玲司はソファの肘掛けから腰を離した。ようやく息を吐くと、殴られた頬がずきりと痛んだ。自分で思っていたより、顎にも肩にも力が入っていたらしい。
先に入ってきた二人が男たちの間へ割って入り、後から来た二人が、ドアの前に集まった宿泊客を下がらせた。大柄な男も拳を下ろし、黒いジャケットの男は何かを言いかけて口を閉じた。
「こいつらが、いきなり部屋へ入ってきたんです」
「お話は聞きますから。まず、そちらへ出てください」
警察官に促され、玲司は廊下へ出た。部屋を振り返ると、葵が右手のメリケンサックを抜き、バッグへ押し込むところが見えた。目が合っても何も言わず、少し遅れてついてくる。
これで、知らない男たちに葵を連れていかれる心配はひとまずなくなった。玲司は壁に背を預けかけたが、腰が当たった途端に痛みが走り、体を離した。自分が殴られたことも説明しなければならないし、壊れた部屋を見れば、すぐ帰れるはずもない。
葵はバッグを腹の前で抱え、廊下の先を見ていた。エレベーターの方には、黒いジャケットの男と首の細い男が離されている。その前で警察官が事情を聞いていた。
「おい。勝手に帰るなよ」
玲司が低く言うと、葵は顔だけこちらへ向けた。返事をしないまま、今度は反対側の階段へ目をやる。嫌な予感がしたが、肩を掴む前に、部屋の入口で声が上がった。
「ポケットに手を入れないで。手を見せて」
制止されていたのは、灰色のスーツの男だった。警察官に腕を取られかけ、半身になって逃れようとしている。後ろから別の警察官が近づくと、男はエレベーターの方へ顔を向けたが、仲間もそこを動けずにいた。
男がポケットから小さなケースを出した。その蓋が開き、縁に切れ込みのある灰色の錠剤が見えた。葵の鞄から落ちたものと似ている、と玲司が思ったときには、男はそれを口へ放り込んでいた。
「何を飲んだ! 口を開けて!」
警察官の声に、葵が玲司の袖を掴んだ。
「……ギア」
「お前が持ってるのと、同じか」
葵は男を見たまま頷いた。玲司の袖を掴む指に、ますます力がこもる。
男は口を開けず、錠剤を飲み下したらしかった。押さえられた腕を一度振ったが、警察官は離さなかった。何を飲んだのかと重ねて聞かれても答えず、男は首を垂れている。
玲司のところへ来た警察官が、男たちとはどういう関係なのかと尋ねた。知らない相手だと答えながらも、玲司は灰色のスーツから目を離せなかった。葵の話が本当なら、これから何が起こるのか。さっき殴られた頬の痛みだけでも十分なのに、その男が強くなるなど、冗談ではなかった。
「離せよ」
男が顔を上げた。葵の言った、体が軽くなるという変化は、外からでは分からない。ただ、押さえられている腕を、男がまた動かし始めた。
「暴れないで。そのまま――」
言い終わる前に、男は警察官の制服を掴んで突き飛ばした。相手がよろめいても手を離さず、廊下を横切るように押し込み、背中から壁へ叩きつける。鈍い音が響き、見ていた宿泊客が悲鳴を上げた。
玲司は反射的に葵を引き寄せ、部屋のドア脇へ退いた。ほんのさっきまで自分たちのいた場所で、男と警察官がもみ合っている。制服の肩が引きつれ、壁に掛かっていた案内板が床へ落ちた。
「応援を! 全員、部屋へ戻ってください!」
二人の警察官が駆け寄り、男の両脇を押さえた。壁へぶつけられた警察官も加わり、ようやく男の膝が折れる。玲司は詰めていた息を吐きかけたが、男は片膝をついたまま、上体を無理に起こそうとした。
左腕は後ろへ押さえられている。体をひねれば肩がもたないような角度なのに、男はそこから、さらに前へ出た。警察官が体勢を変えようとしたところで、男が大きく身をよじった。
低いうめき声が聞こえた。振りほどいた左腕が力なく垂れたのを見て、玲司は自分の肩まで痛くなった。ところが男は左腕をかばいもせず、空いた右手で正面の警察官を殴りつけた。
「おい、やめろって!」
思わず出た玲司の声に、男は反応しなかった。押さえ直そうとする腕を乱暴に振り払い、立ち上がりかけて膝を床へ打ちつける。それでも前へ出るのをやめなかった。額をドア枠へぶつけ、血が顔を伝っても、拭おうとすらしない。
玲司は、自分が頬に触れていることに気づいた。殴られた痛みを確かめるのも怖いのに、あの男は何度ぶつけても構わず動いている。酔って暴れている奴なら、この街でも見たことはあった。だが、目の前の男に向けては、離れたところから怒鳴ることさえためらわれた。
横から組みついた警察官が、男を壁へ押しつけようとした。男は相手の制服を右手で掴むと、もみ合う勢いのまま体をひねり、警察官を巻き込んで壁へ突っ込んだ。自分の頭や肩がぶつかるのも構わず、前へ出続ける。
巻き込まれた警察官の背が壁に当たり、白い表面が大きくへこんだ。男がなおも脚を突っ張ると、壁紙の裂け目が広がり、その内側が音を立てて崩れた。
壁を突き破った二人が、向こう側の部屋へ倒れ込んだ。
白い粉が廊下へ噴き出し、玲司は顔を背けた。破片が靴先まで滑ってくる。咳き込みながら顔を上げると、壁に開いた穴の向こうにベッドが見え、そのそばで宿泊客が悲鳴を上げていた。
灰色のスーツの男も、転がったままではなかった。動かしにくそうな左腕を床へ押しつけ、倒れた警察官へまた掴みかかろうとする。別の警察官が穴から入って押さえたが、男は顔を床に擦りつけるようにしてもがき続けた。
「……私は、あんなのじゃない」
葵の声がした。玲司の袖からは手を離していたが、葵は引き寄せられたあとも、ドアの脇に立ったままだった。
「痛いのは分かるし、やめようと思えばやめられる。あんなふうにはならない」
玲司を見るでもなく、葵は言った。さっきまで薬の話を信じさせようとしていた顔とは違っていた。右手をバッグの紐にかけ直そうとして、一度掴みそこねる。
玲司には、同じ薬だという葵の言葉をどう受け取ればいいのか分からなかった。彼女の話した一撃も十分おかしいが、目の前で起きたことは、強い弱いという話より先に、見ているこちらを怖がらせた。
階段から新たな足音が響いた。駆けつけた警察官に従業員が壊れた壁を指し、廊下の端では黒いジャケットの男たちが、別の警察官に動くなと命じられていた。
葵がバッグの口を押さえた。玲司がそちらへ顔を向けると、彼女は半歩下がり、階段の方へ体を向けた。
「待て。今から話を――」
「無理。あれと同じの持ってるんだよ、私」
玲司が何か言うより早く、葵は走り出した。廊下を抜け、階段の扉を押し開ける。その黒い上着が見えなくなり、玲司もドア脇を離れた。
ここで見失えば、また写真を持って街を歩くことになる。今度は、その居場所を聞いて回っているのが自分だけではないと分かっていた。
「彼女を追います!」
近くの警察官へ叫び、玲司は階段に飛び込んだ。待ちなさい、と背後から呼ばれたが、葵の足音はもう下の階にあった。
*
階段を駆け下りるたび、ぶつけた腰に痛みが響いた。手すりを掴んで踊り場を回ると、下を走る葵の髪が見えた。声なら届く距離なのに、手は届かない。
「待てって! 一人でどこ行く気だよ!」
「来んな!」
「じゃあ止まれ!」
葵は一度も振り返らず、一階の扉から飛び出した。玲司も続こうとして、足元の段差につまずきかける。外の空気を吸った途端に喉がひりつき、壁の粉をまだ吸い込んでいるような気がした。
ホテルの外には、騒ぎを見に来た人が集まり始めていた。葵は立ち止まっている男女の間を抜け、通りへ駆け出す。玲司は人の肩にぶつかり、謝りながらその後を追った。
路地を出ると、飲み屋の看板とホストクラブの広告が目に入った。さっきは写真の顔を探して歩いていた道なのに、今は目の前の一人を追うだけで精一杯だった。買い物袋を振って歩く酔客を避けるたび、葵との距離が少し開く。
「速えな、お前!」
「だったら、もう追ってこないでよ!」
葵にも余裕はないらしく、声が裏返っていた。肩のバッグが跳ねるのを片手で押さえながら、それでも走るのをやめない。
大通りの手前で人の列に阻まれ、葵が足を緩めた。玲司が追いつきかけたところで信号が変わり、止まっていた群衆が横断歩道へ広がっていく。葵はその中へ入り、玲司も人を押しのけないよう身をひねって続いた。
背後からまたサイレンが聞こえた。ホテルへ向かう車なのか、自分たちを追っているのかは分からない。葵は肩越しに振り返り、向かいの歩道へ渡りきると、また駆け出した。
新宿駅の入口が見えたとき、玲司の脇腹は痛み始めていた。人混みに紛れられたら見失う。ここまで追ってきたのに、という焦りで声を出したが、うまく葵の名前にならなかった。
葵はそのまま駅へ駆け込み、改札の外を行き交う人の間へ入った。しかし、通路を横切ってきた旅行客たちに進路をふさがれ、走るのをやめた。キャリーバッグを避け、肩をすぼめて歩く彼女に、玲司はようやく追いついた。
「もう……止まれって」
葵が逃れようと振り向いたので、玲司は肩に触れかけた手を引っ込めた。そのまま目の前へ回り込む。これ以上走られると本当に追えない。
「無事だったって報告する前に、また消えるなよ」
「見つけましたって言えばいいじゃん」
「そのあと逃げましたって?」
「正確でしょ」
玲司は言い返そうにも息が続かず、通行の邪魔にならない柱のそばへ寄った。葵は来た方を振り返っていたが、やがて同じ柱に背をつけた。強がった口調の割に呼吸は荒く、濡れていた髪が頬に張りついている。バッグを抱えたまま、しばらく何も言わなかった。
頭上で電車の案内が流れ、人が次々と二人の前を通り過ぎていった。こちらを見る者はほとんどいない。葵は通路の向こうを何度か確かめ、それからようやく玲司を見た。
「何。まだ何か言いたいの?」
言いたいことは山ほどあった。殴られた頬も、ぶつけた腰も痛い。だが、玲司の頭には、壁の穴から立ち上がろうとする男の姿がしつこく残っていた。
葵の抱えているバッグへ目がいく。あの中にも同じ薬がある。目の前の細い腕と、床を滑ってきた壁の破片が、どうしても結びつかなかった。
「……お前も、あれ飲んだらゴリラになんのかよ」
「ゴリラって言うな」




