第67話 黙って行くな
「錦糸町。駅の近くにいる」
葵が答えると、久世は近くに何があるかを尋ねた。通りの向こうの店を伝え、今度は地図から現在地も送った。
「真壁は一緒か」
「さっき別れた」
「どこへ行った」
「知らない。電話しながら歩いてった」
久世は少し黙ってから、朝倉を向かわせると言った。そこを動くなと念を押され、葵は分かったと答えた。
電話を切って鞄を拾うと、ようやく足の疲れに気づいた。壁へ背を預けたかったが、左肩に触れそうでやめた。駅へ向かう人の列を見ながら、右手で鞄の取っ手を握り直した。
迎えに来た朝倉は、葵の前で足を止めた。顔から左腕へ目を移し、それからもう一度、目を合わせてきた。
「ひなちゃん、ごめん」
「電話に出れば、それでいいと思ってましたか」
葵は口を開きかけた。
「場所を教えてくれなければ、何があっても行けないんですよ」
朝倉は声を荒らげなかった。葵が黙っていると、車を止めた方を指した。
「久世さんが待っています。行きましょう」
葵はその隣へ並んだ。前のように話しかけることはできず、車に着くまで、朝倉も何も言わなかった。
*
警察署の小さな部屋で、葵は三か所を回った順に話した。
机を挟んで向かいに座る久世は、誰と会い、誰が何をしたのかを何度も確かめた。葵が、伊織を捜していただけだと言っても、その先を聞いた。池袋で男たちを殴ったことも、上野と錦糸町で殴り合いになったことも、飛ばして話すことはできなかった。
「向こうから来たんだよ」
「お前らが訪ねていったんだろう。相手にも話を聞く。今のお前の話だけで、終わったことにはしない」
葵は膝の上で両手を重ねた。朝倉は入口に近い椅子に座っていた。
久世は、葵が撮った画像へ目を戻した。渋谷の住所と三日後の日付、午後一時という集合時刻を確かめ、伊織が来るという話を誰が聞いたのか、もう一度尋ねた。
「そこにいた連絡役が、本人から聞いたって」
「お前が聞いたわけじゃないんだな」
「うん。何回も聞いたけど、どこに来るかは知らないって」
久世は頷いた。
「画像と連絡役の件は、T3にも回す。集合場所を変えるかもしれん。その場所だけ見て終わりにはしない」
「伊織、捕まえられる?」
「そのために確かめる。だから、お前はもう行くな」
葵は返事をしなかった。久世は机から目を上げ、葵の左肩を見た。
「真壁から薬を受け取ったのか」
葵は重ねていた手を離した。
「何で」
「その肩で、三か所も殴り込みに行ってる。何も使ってないと言うのか」
足元の鞄へ目が行きかけ、葵は机の縁を見た。伊織の話をしに来たのに、もう話を戻せそうになかった。
久世は同じことを聞き直した。葵が黙ったままでいると、椅子へ背を預けた。
「真壁にも聞く。前の受け渡しの件も、終わったわけじゃないぞ」
そのあとも、真壁との連絡や、待ち合わせた場所を聞かれた。葵は会った店と、各地で落ち合った場所を答えた。朝倉と別れたあと、ホテルに泊まり続けていたことも話したが、四錠を受け取ったことと、残りを鞄に入れていることは言わなかった。
部屋を出る前に、久世は明朝、玲司の退院に合わせて病院へ来ると言った。
葵は朝倉とホテルの荷物を引き取り、中野へ戻った。朝倉もそのまま部屋に残った。明日は一緒に迎えに行きますと言われ、葵は頷いたが、玲司に送る文はなかなか決まらなかった。
『中野に戻った。明日、服を持っていく』
それだけ送ると、すぐに既読がついた。少しして、退院する時刻が返ってきた。
*
翌朝、病室へ入ってきた葵は、右手に紙袋を提げていた。
玲司はベッドの縁に座ったまま、葵を見た。電話では毎日話していたのに、顔を見ると、言おうとしていたことが一度分からなくなった。
「服、これでよかった?」
紙袋の口から、見慣れたシャツがのぞいていた。玲司が頷くと、葵はベッド脇の台へ置こうとし、左手で底を支えかけてやめた。右手だけで持ち上げ直すところを、玲司は見ていた。
あとから入ってきた朝倉は、二人を見てからドアの方へ戻った。
「廊下にいます。出るときは声をかけてください」
ドアが閉まると、葵は脇の椅子へ座った。玲司は紙袋を引き寄せ、着替えるからと言って、ベッドの周りのカーテンを閉めた。
病衣を脱ぎ、シャツへ腕を通す。体をひねったところで脇腹が痛み、玲司は途中で息を止めた。
「手伝おうか」
「自分でできる」
少し強く答えると、カーテンの向こうが静かになった。玲司はゆっくり残りの袖へ腕を通した。ボタンを留め、ズボンをはくまでに、何度も手を止めなければならなかった。
着替え終えてカーテンを開けると、葵は椅子に座ったまま待っていた。鞄を膝に載せ、右手を左肩へ当てている。
「昨日、やられてないって言ったよな」
葵は肩から手を離した。
「これは、前からだよ」
「悪くなってんだろ」
「……少しだけ」
玲司はベッドへ座り直した。自分も、立ったまま話していられるほど楽ではなかった。
「薬、使ったのか」
葵はすぐには答えず、膝の鞄を見た。
「うん」
「中野に置いてたやつ?」
「あれは、そのまま。真壁にもらった」
「いつ」
「電車を降りて、真壁に会いに行ったとき。四錠」
玲司は葵を見た。四錠という数が、思っていたより多かった。あの男は、一度会って話を聞くだけのつもりで葵に渡したわけではなかった。
「三か所で、一つずつ飲んだ。残ってるのは一つ」
「あいつがお前に薬を渡して、伊織を捜しに行かせたのか」
「私が行くって言ったの。真壁も一緒だった」
「それなら大丈夫だったって?」
葵が顔を上げた。玲司も目をそらさなかった。
「あの男が、最後までお前を助けてくれると思ってんのかよ」
「そんなこと、思ってない」
返事が強かった。葵は続けて何か言いかけたが、口を閉じた。
「何があった」
「……上野では、途中で、薬を持って逃げたと思った奴を追いかけてった。こっち、まだ終わってなかったのに」
玲司は息を吸った。脇腹が痛み、言葉が一拍遅れた。
「置いてかれたのか」
「戻ってきたよ。結局、薬も入ってなかったけど」
「それで、昨日も一緒に行ったんだ」
葵は鞄の取っ手を握った。玲司はそこへ目を落とし、もう一度顔を見た。
「何でそこまでして、あいつと組んでんだよ」
「伊織につながる人間を知ってるから。見つけたギアを全部渡せば、手伝うって言ったから」
「渡すって、真壁に?」
「うん。伊織は警察に渡すけど、薬は真壁に渡す約束をした」
玲司はすぐに言葉を返せなかった。伊織を警察へ突き出したいと言いながら、その薬を別の男へ渡す約束をしている。
「何に使うか、聞いたのか」
「言わなかった」
「じゃあ、また誰かに渡すかもしれねえだろ」
「それ、私も言ったよ。でも、条件をのまなきゃ、手伝ってもらえなかった」
葵の声が少し大きくなった。ドアへ目を向けてから、声を落とした。
「玲司には、休んでてほしかったの」
「俺が知らなきゃ、休めるって?」
「そうじゃなくて」
「毎日電話して、俺たち、何の話してたんだよ」
葵は黙った。玲司は返事を待ったが、返ってこなかった。
声が聞ければ、その日は何もなかったのだと思っていた。どこにいるか言わないことに腹を立てながらも、電話が終われば少しは眠れた。その間に葵は薬を飲み、知らない男たちのいる部屋へ入っていた。
玲司は布団の上に置いていた手を握った。
「残り、出せよ」
葵が顔を上げた。
「どうするの」
「俺が持つ」
「捨てるの?」
「今は預かる。お前が持ってたら、また勝手に使うだろ」
葵は鞄を抱え直した。
「私のこと、信用してないんだ」
「信用してたから、電話だけで我慢してたんだろ」
言うと、葵の顔がこわばった。玲司は目をそらさずにいたが、そのうち脇腹の痛みに耐えられなくなり、少し体を曲げた。
葵の手が伸びかけた。玲司が顔を上げると、その手は鞄へ戻った。
ファスナーを開け、内側のポケットから小さな袋を出した。灰色の錠剤が一つだけ入っている。差し出された袋を玲司が受け取るまで、葵は指を離さなかった。
「……伊織のこと、終わったとは思ってないから」
「俺だって、終わったとは思ってねえよ」
ようやく葵の指が離れた。
玲司は袋を握り込もうとして、やめた。中にある薬を見ていると、無理やり飲まされたときのことが浮かび、喉が狭くなった気がした。視線を外し、ズボンのポケットへしまった。
ドアが叩かれた。
朝倉が顔を出し、その向こうから久世が入ってきた。玲司が立とうとすると、久世は手で止めた。
「そのままでいい。出る前に、少し話せるか」
玲司が頷くと、久世は朝倉へ顔を向けた。
「篠崎と、外で待っていてくれ」
葵は玲司を見た。玲司が何も言わずにいると、鞄を持って立ち上がった。朝倉と出ていくまで、二人とも目を合わせなかった。
*
久世は葵の座っていた椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「昨夜、篠崎から聞いた。三か所も回ってたこと、お前は知っていたのか」
「昨日の電話で聞くまで、知りませんでした」
「真壁に会うことは?」
「会ったって、あとで。連絡だけにしろとは言ったんです」
久世は頷いた。玲司は膝へ両手を置いた。
「渋谷の件は、T3にも渡した。集まる場所と、連絡役や参加者を調べてる」
「明後日ですよね」
「ああ。ただ、予定どおり動くとは限らん」
「伊織も、来るんですか」
「それも確かめる。お前は行くなよ」
玲司は返事をしなかった。伊織の顔を思い出すと、ポケットの中の袋まで気になった。殴られたときの痛みはまだ体に残っている。もう一度会いたいのかと聞かれたら、自分でも答えられなかった。
久世は少し間を置いた。
「篠崎のことだが、逮捕も検討している」
玲司は顔を上げた。
「葵を?」
「ギアの受け渡しと使用、それに今回の殴り合いだ。前からの件も含めて調べる」
廊下を台車が通っていった。玲司はその音が遠ざかるまで、久世を見ていた。
「あいつ、薬を使ったって言ったんですか」
「答えなかった。だが、真壁と組んで三か所だぞ。あの肩でな。薬を使った疑いは強い」
久世はドアへ目を向けた。
「止めても行く。朝倉を置いていって、居場所も言わない。警告だけじゃ、もう止まらん」
「だから、捕まえるんですか」
「その方向で、裏付けを取ってる。相手の話も、現場も確かめる」
玲司はポケットへ手をやりそうになった。葵が飲んだことを、自分はもう知っていた。残りの一錠も、今は自分が持っている。
「あいつは、俺がやられたから……」
言いかけて止まった。さっきまで葵に怒っていたことを、今度は自分から理由にしようとしていた。
久世は先を促さなかった。
葵がもう、危ない場所へ行けなくなる。そのことにほっとしかけて、玲司は久世から目をそらした。
「伊織の方は、どうなるんですか」
「伊織も捜す。篠崎がやったことも調べる」
玲司は顔を戻したが、言葉が出てこなかった。
「お前まで一緒に動くな。真壁やレナから連絡があったら、こっちへ知らせろ。まずは帰って休め」
久世が立ち上がった。玲司も腰を浮かせかけたが、ベッドへ座り直した。ドアの向こうにいる葵へ、何から話せばいいのか分からなかった。
*
退院の手続きを終え、中野へ戻ったころには昼を過ぎていた。
朝倉も一緒だった。帰りの車では、葵が玲司の荷物を膝に載せていた。自分で持つと言っても葵は返さず、玲司もそれ以上は言わなかった。
部屋へ入ると、玲司は机の前の椅子に腰を下ろした。病院を出れば少しは楽になるような気がしていたが、座るときの痛みは変わらない。葵は荷物を置いてから、鞄を持ったままそばに立った。
「久世さん、何の話だったの」
玲司は朝倉を見た。玄関の鍵を閉めた朝倉も、こちらを向いた。
「……お前を逮捕することも、考えてるって」
葵の顔から表情が消えた。玲司を見たまま、しばらく動かなかった。
「薬のこと?」
「それと、あちこち行って、殴り合ったこと」
葵は朝倉へ顔を向けた。
「ひなちゃんも、聞いてるの」
「久世さんから、お話はありました」
朝倉が答えた。葵は何か言いかけ、やめた。鞄を握る指に力が入るのを、玲司は見ていた。
「玲司は、何て言ったの」
「昨日まで知らなかったって」
「……そう」
葵は鞄を床へ置いた。玲司は、その顔を見上げていた。
捕まえてほしくないと言えばよかったのか。言えば、あの男は考え直したのか。そんなことを葵に尋ねるわけにはいかなかった。
「真壁から連絡が来たら、先に見せろよ。レナからでも」
葵は返事をしなかった。
「黙って行くな。俺の知らないところで、また決めんなよ」
葵がこちらを見た。玲司は目をそらさずに待った。
「……分かった」
葵は足元の鞄からスマートフォンを出し、机の上へ置いた。それから椅子を引いて座った。玲司が隣へ顔を向けても、葵は端末の画面を見たままだった。




