第68話 ミオ、助けて
店の中でガラスが割れた。
片桐航は、前を歩いていた人たちへ下がるよう叫び、貴金属店の入口へ走った。追っていた男たちが店へ入ってから、まだ数秒しか経っていない。警報音が通りに響き、買い物袋を持った女性が店から飛び出してきた。
「警察だ! 手に持ってる物を置け!」
入口から声をかけると、ショーケースの前にいた覆面の男が、持っていたハンマーをこちらへ向けた。その横では、別の男が割れたケースからネックレスをつかみ出し、黒いバッグへ落としていた。
片桐の隣へ、もう一人の捜査員が入ってきた。店員はカウンターの奥でしゃがみ、頭を抱えている。ハンマーの男がそちらへ下がろうとしたため、片桐は間へ入った。
「置けって言ってるだろ!」
男が振り上げた腕へ捜査員が取りつき、片桐も体を押さえた。引き倒されながらも男は暴れ、靴底が床の破片をこすった。片桐は押し返されそうになりながら、男の腕を床へ伏せた。
入口の方で、誰かが走れと叫んだ。
ネックレスを入れたバッグを抱え、もう一人が店を出ていく。通りにいた警察官が追ったが、片桐はそちらへ動けなかった。
久世から届いた情報にあった集合場所は、直前に変更されていた。それでも、連絡役と参加者を追っていた捜査員から新しい場所が伝わり、片桐たちも男たちの移動を追うことができた。
午後一時に集まった連中は、まとまって店へ来たわけではなかった。途中で分かれた者もいる。その全員を押さえたという連絡は、まだ来ていなかった。
駆けつけた捜査員が男を引き起こし、覆面を外した。伊織ではないと確かめたところへ、無線から逃走した男を確保したという声が届いた。だが、バッグは持っていない。
「途中で女に渡しています。女は逃走。今、追っています」
片桐は店の外へ出た。制服の警察官が人を下がらせ、その向こうでスマートフォンを掲げた若者が背伸びをしていた。バッグを受け取った女の姿は、もう見えなかった。
鷲尾から電話が入った。渋谷の状況を伝えると、向こうでは別の声が重なっていた。
「銀座と表参道でも発生してる。そっちは伊織らしい奴を見たか」
「今のところ、いません。店に入った男たちにも確かめます」
電話を切ると、店員が入口まで出てきていた。片桐が怪我はないかと聞いても、店員は足元のガラスを見たまま、すぐには答えなかった。
*
玲司が退院して二日が経った。
葵は中野の部屋の机の前に座り、スマートフォンを何度も確かめていた。午後一時を過ぎても、二時が近づいても、真壁から新しい連絡は来なかった。
玲司はベッドに座り、壁へ背を預けていた。膝に置いた手が、ときどき脇腹へ動く。葵が顔を向けると、その手を戻した。
帰ってきてから、二人で話していないわけではなかった。食べる物も、病院でもらった薬のことも、明日のことも話した。それでも葵が鞄を持つと、玲司は何をするのか聞いた。買い物と答えれば朝倉も立ち、葵は一人にならないまま戻ってきた。
今日も朝倉は、玄関に近い椅子に座っていた。
「ひなちゃん、何か来た?」
「まだ、現場から連絡は来ていません」
「何も分かってないってこと?」
朝倉がこちらを見た。葵は目をそらし、レナとの画面を開いた。こちらから送った文ばかりが並んでいた。玲司が入院したと知らせても、そのあと何度送っても、返事はなかった。
朝倉の電話が鳴った。
葵は顔を上げた。朝倉は席を立ったが、部屋を出ずに応答した。渋谷、という言葉が聞こえる。葵が椅子から腰を浮かせると、朝倉は片手を向けて待つよう示した。
「……はい。二人とも、ここにいます」
通話が終わるまで、葵は立ったまま待った。
「渋谷で事件が起きています。現場で何人か確保したそうです」
「伊織は?」
「今、確認しています」
葵は玲司を見た。玲司も壁から背を離し、朝倉の次の言葉を待っていたが、それ以上の話はなかった。
捕まったのは誰なのか。伊織は、本当に来ているのか。あの連絡役から聞いた話が間違っていたら、今日も会えないまま終わる。
葵の手の中で、端末が震えた。
画面の名前を見て、指が止まった。ずっと返事をしなかった相手が、今になって電話をかけてきていた。
「レナ」
玲司へ画面を向けると、玲司は立ち上がろうとした。葵はそちらへ一歩寄ってから電話に出た。
「もしもし」
「ミオ、助けて」
声は小さく、息が何度も途切れていた。葵は端末を耳へ押し当てた。聞きたかった声なのに、何を言えばいいのか、すぐには出てこなかった。
「今、どこ」
「渋谷。警察が、追ってきて……私、どうしたらいいか」
「何したの」
返事の前に、鼻をすする音がした。朝倉が葵のそばまで来た。
「荷物、持ってる。受け取ったら、急にみんな逃げて。バイクも来なくて、警察に止まれって言われて……」
葵は玲司を見た。ベッドの縁に座り直した玲司も、こちらを見ていた。
「また、行ったの」
レナは答えなかった。
「玲司が入院したって、送ったよね」
「ミオ、今は無理。お願い、あとにして」
葵は端末を握り直した。玲司がどんな状態だったか、どれだけ返事を待ったか。言いたいことがいくつもあるのに、レナはまた自分の話だけをしていた。
「タクヤさんにもかけたけど、出ないの。誰も出なくて」
「それで私に?」
レナの息遣いが聞こえなくなった。
葵は返事を待った。廊下か外か分からないところで物音がすると、レナが端末をこすったような音がした。
「……ミオ、切らないで」
葵は目を閉じ、それから端末を耳から離した。スピーカーへ切り替えて音量を下げ、机へ置く。玲司がこちらへ顔を向け、朝倉もそばへ寄ったが、二人とも声は出さなかった。
「切らない。今、どこに隠れてるの」
レナは、道玄坂のビルの二階にある共用の女子トイレだと答えた。個室に鍵をかけているという。荷物を受け取って走るうちに警察官の姿が見えなくなり、飲食店の看板が並ぶ建物へ入ったらしい。
「怪我はしてない?」
「してない。でも、外に出たら捕まる。ミオ、迎えに来て」
「場所、送れる?」
建物の名前は覚えていなかった。葵が現在地を送るよう言うと、少しして地図が届いた。葵はそれを玲司と朝倉へ転送した。朝倉は自分の端末で地図を開き、画面を拡大した。
「その二階だよね。誰か一緒にいる?」
「私だけ。さっき、水の音がしたけど、今は何も聞こえない」
レナの声はかすれていた。葵は机の脇の鞄へ目をやった。
「お願い、警察には言わないで」
朝倉が葵を見た。葵はその視線を受けたまま、机の端末へ答えた。
「今から行くから、そこにいて」
レナが鼻をすすった。返事を待つ間に、玲司の手が脇腹へ動くのが見えた。葵はもう一度、端末へ顔を向けた。
「レナ、伊織も一緒にいた?」
ベッドがきしんだ。玲司が体を前へ寄せていた。
「いない。こっちには来てない」
「どこにいるか、聞いてない?」
「六本木って」
葵は端末へ手を伸ばしかけた。
「誰が言ったの」
「今日、集まったときにいた人。その人は六本木に行くから、伊織も来るって。あっちは本人がやるんだって」
「レナが伊織に聞いたわけじゃないんだね」
「会ってないもん。ねえ、それより早く来て」
玲司が葵を見た。葵は端末を机に置いたまま、レナへ店の名前を尋ねた。
「時計の店。ウォッチ・リーヴっていう……六本木店」
玲司が自分の端末へ店名を打ち込んだ。朝倉も自分の端末を操作しながら、レナの話を聞いていた。
「ミオ」
呼ばれて、葵は机へ顔を戻した。
「来てくれるんだよね」
「行くよ。支度するから、ちょっと待って」
葵は通話をミュートにしてから、朝倉へ顔を向けた。
「私、レナのところに行く」
「私も行きます。向こうでは離れないでください。一人で連れ出したりもしないでくださいね」
葵は頷きかけ、玲司を見た。
玲司はベッドへ片手をつき、今度はゆっくり立ち上がった。途中で顔が歪んだが、立ったあとも座り直そうとはしなかった。
「俺も行きます」
「玲司は、まだ……」
言いかけると、玲司が葵を見た。
「俺もレナに聞きたいことがある」
葵は口を閉じた。レナのために宮下へ会いに行ったのは、玲司だった。行かなくていいと言えるほど、自分は何も終わらせていなかった。
朝倉は玲司を見たあと、二人に車で行くと言った。
「現場で走り回ったりしないでください。二人ともです」
「分かりました」
玲司が答え、葵も頷いた。朝倉は六本木の話も久世に伝えると言い、自分の端末を持って廊下へ出た。
扉が閉まってから、葵は机から端末を取り、スピーカーを切って耳へ当てた。レナがまた名前を呼んだので、ミュートを解除して答えた。
「今から行く。玲司も一緒に」
「……玲司も?」
「うん」
「ミオだけでいいのに」
葵は机の脇に置いていた鞄を右手で拾い、右肩へ掛けた。隣では玲司が自分のスマートフォンをポケットへ入れていた。
「会ったら、こっちの話も聞いてよ」
レナは返事をしなかった。
朝倉が玄関の外から二人を呼んだ。玲司が部屋を出て、葵も続いた。階段の前で、玲司が足を止めてこちらを振り返った。
葵は端末を耳へ当てたまま、玲司に追いついた。
「……まだ、切らないでね」
レナの声に、葵は切らないと答えた。先に階段を下りる朝倉に続き、玲司の一段後ろを歩いた。
朝倉が運転する捜査車両に、玲司と葵も乗り込んだ。




