第66話 次の仕事
玲司から、明日退院すると連絡が来た。
葵は錦糸町の駅を出たところで足を止めた。短い文をもう一度読み、よかった、と打ってから消した。まだ痛むと昨日も言っていた。退院できることは嬉しかったが、ほかに何と送ればいいのか分からなかった。
結局、何時ごろなのかだけ尋ねた。スマートフォンをしまうと、通りの向こうに真壁が立っていた。
上野へ行ってから五日が過ぎていた。その間、葵は同じホテルに泊まり、玲司と朝倉からの連絡には答えていた。中野にも病院にも戻っていない。
「いるの?」
真壁の前へ行くと、葵はすぐに聞いた。
「いる。さっき入った。ほかに二人」
「随分かかったね」
「毎日来るわけじゃない。昨日、顔を確かめた。今日はそいつが入るまで待った」
真壁は歩き出した。葵は少し遅れてついていったが、隣へは並ばなかった。男が振り返っても、顔を見上げる気になれなかった。
連絡役が使っているのは、飲食店の看板がいくつも出た雑居ビルの一室だった。上野の男のスマートフォンで見た建物名が、入口脇にある。
階段の手前で、葵は鞄から薬の袋とペットボトルを出した。残っている二錠のうち一錠を水で飲み、もう一錠を袋ごと内側のポケットへしまった。
真壁は先へ行かずに待っていた。葵がペットボトルをしまうと、階段を指した。
*
ドアを開けたのは、紺色のパーカを着た男だった。
「誰?」
「話がある。上野に人を呼んだのは、ここにいる奴だろ」
真壁が言うと、男の顔つきが変わった。閉まりかけたドアを真壁が押さえる。隙間から見えた室内には、机と折り畳み椅子があり、白いシャツの男がスマートフォンを持って座っていた。
「伊織を捜してるの」
葵が声をかけると、机の横にいた別の男が立った。短く刈り上げた頭の向こうに、壁へ立て掛けられた金属バットが見えた。
葵は鞄を扉の脇へ下ろした。
「入ってくんなよ」
パーカの男が真壁の腕を払い、胸ぐらをつかんだ。真壁がその手を外そうとしたところへ、バットを持った男が近づいてきた。
葵はドアの隙間へ足を入れた。男がこちらを見る。バットが肩の上へ上がり、葵は身を引いた。
ドアの縁が鳴った。すぐ目の前で金属の棒が止まり、葵は息をのんだ。男が持ち上げ直す間に踏み込み、右拳で顔を打ったが、男はよろめきながらもバットを離さなかった。
背後で椅子の倒れる音がした。振り返る余裕はなかった。葵は左腕を上げかけ、肩の痛みに顔をしかめた。
男がもう一度振りかぶったところで、真壁が横から腕をつかんだ。パーカの男は入口近くの床に尻をついていた。
「離せ!」
バットを引き戻そうとした男の腹へ、葵は足を蹴り込んだ。男が折れるように屈み、真壁が両手からバットをもぎ取る。葵が息をつく前に、パーカの男が立ち上がった。
腕を振り回して来たので、葵は横へ避けた。机にぶつかった男が振り返るところへ、腹を殴った。男は机の縁をつかみ、咳き込みながら膝をついた。
「やめろって。もうやめろ」
白いシャツの男が椅子から腰を浮かせていた。葵が向き直ると、男は両手を上げ、また座った。
真壁はバットを入口から離れた壁際へ置いた。刈り上げの男が動こうとしたが、真壁に肩を押さえられると、その場へ座り込んだ。
「肩は」
「今はいい」
葵は短く答え、机の前へ立った。
「伊織、どこ」
「ここには来てねえよ」
白いシャツの男は、葵の拳を見ていた。
「いつ来るの」
「知らねえ。ここは人と会うのに使ってるだけだ。上野の奴も、仕事をやりたいっていうから呼んだんだよ」
葵は室内を見回した。奥に小さな流しと戸棚があるだけで、誰かが隠れていられるような部屋ではなかった。
「薬はどこにある」
真壁が聞くと、男は首を振った。
「まだもらってない。当日、渡すって」
「当日って、いつ」
葵が聞き返した。男は口を閉じ、床の二人を見たが、どちらも助け舟を出さなかった。
葵は机へ右手をついた。
「また店を襲うの?」
男は目をそらした。その顔を見ているうちに、葵の指が机の縁を握った。玲司がまだ病院にいる間に、この男たちは次の人間を集めていた。
「答えてよ」
「……伊織に会いたいなら、次の仕事のときに行けばいいだろ」
男が言った。葵は身を乗り出した。
「いつ」
「三日後。俺の方は渋谷だよ」
「何時に、どこ」
「待てって」
男は机の上のスマートフォンを手に取り、画面を指で送った。差し出されたのは、人を集めるためのやり取りだった。日付は確かに三日後で、その下に住所と建物名、集合時刻が書かれている。
「道玄坂の栄和ビル。三階」
葵は画面の時刻を読んだ。
「午後一時に始めるの?」
「それは集合。集まってから、どこへ行くか言われる」
「あんたが言うんじゃないの」
「俺は人数をそろえて、そこへ行かせるまでだよ」
葵は真壁を見た。男も画面をのぞいていたが、すぐに連絡役へ目を戻した。
「渋谷だけか」
「ほかもやるって聞いてる。同じ日に。どこかまでは俺に聞くなよ」
「伊織は、そのビルに来るの?」
葵が尋ねると、男は苛立ったように首を振った。
「どこの現場かは知らねえよ。でも、今度も出るって本人が言ってたんだから、来るだろ」
「あんたが直接聞いたんだね」
「そうだって」
「それ、置いて。画面、消さないで」
葵は入口へ戻り、鞄から自分のスマートフォンを出した。机へ伏せようとした男に表へ返すよう言い、やり取りを撮った。日付と場所が読めることを確かめて、画像をもう一枚残した。
真壁はその間、部屋の戸棚を調べた。引き出しには封筒や充電用のケーブルが詰まっていたが、薬は出てこなかった。
「だから、まだ来てねえって言ってるだろ」
男が椅子にもたれた。葵はそちらへ顔を向けた。
「当日は、誰が持ってくるの。柴崎?」
「そこまでは聞いてねえよ」
真壁が戸棚を閉じ、机へ戻ってきた。
「柴崎とは連絡を取ってるんだろ」
「あいつから来るのは、盗んだ物を渡すときの連絡くらいだよ。誰をどこへ行かせろって。俺は間で伝えただけだ」
「誰に渡す」
男は真壁を見上げた。
「売り先を見つけてくる奴。柴崎はそいつに頼んでる」
「連絡先を見せろ」
「伊織を捜してんじゃねえのかよ」
真壁は答えなかった。男は舌打ちをしたが、端末を取り上げ、別のやり取りを開いた。
真壁が自分のスマートフォンに相手の連絡先を控える間、葵は撮った画像を見ていた。集合場所も時刻もある。それでも、伊織がどこへ来るかは分からない。
「三日後になったら、会えるんだね」
男は葵を見た。
「だから、俺が聞いたのはそうだって」
葵は画面を消した。ここで何度聞いても、それ以上の答えは出てこなかった。入口で鞄を拾い、真壁を待って廊下へ出た。
*
ビルを出ると、葵は右手に提げた鞄を持ち直した。真壁は歩きながら、さっき控えた連絡先を見ていた。
「そっちにも聞くの?」
「柴崎が誰と会ってるか、分かるかもしれん」
「分かったら教えて」
真壁は頷いた。葵は足を止めた。
「私、玲司に電話する。今の話、警察に伝えてもらうから」
「ああ」
真壁は端末を耳へ当て、通りの先へ歩いていった。葵は背中を見送ってから壁際へ寄り、鞄を足元へ下ろして玲司の名前を押した。
呼び出しの音が続いた。出なければ画像を先に送ろうと思ったところで、玲司の声がした。
「どうした」
「今、少し話せる?」
「うん」
「伊織が、また人を集めてる。三日後に、渋谷とか、何か所かで店を襲うみたい」
返事が止まった。葵は、集合時刻が午後一時であることと、集まるビルの名前を伝えた。
「久世さんに言ってほしい。集合の連絡も撮ったから、送る」
「ちょっと待て。それ、誰から聞いた」
葵は答えかけて、足元の鞄を見た。薬の袋は、内側のポケットにしまってある。
「参加する人に連絡を回してる奴。今日、錦糸町で会って」
「真壁と行ったのか」
「……うん」
通りを歩く人の笑い声が聞こえた。葵が端末を耳へ押し当てると、玲司がもう一度尋ねた。
「会って、何したんだよ」
「伊織がいないか聞いた。薬も捜したけど、なかった」
「それだけか」
葵は唇を噛んだ。ここでも黙っていたら、次はいつ話すのだろう。明日、退院してくる玲司に、どこへ行っていたのか聞かれても、またごまかすのだろうか。
「殴り合いになった」
玲司が何か言いかけた。葵は先に続けた。
「今日だけじゃない。池袋と上野にも行った。真壁と二人で」
しばらく、何も聞こえなかった。
「……お前、俺に何て言ってた」
葵は視線を下げた。靴の先に、ビルの壁に沿って伸びる細い溝があった。
「伊織の居場所は、まだ分からないって」
「そういうことじゃねえだろ。毎日電話して、それをずっと黙ってたのかよ」
玲司の声が大きくなった。葵も端末を耳へ押し当てた。
「言ったら、止めるでしょ」
「止めるよ。当たり前だろ」
「じゃあ、どうすればよかったの。何もしないで待ってたら、伊織が捕まるの?」
「だからって、お前までやられたらどうすんだよ」
「やられてない」
答えてから、葵は左腕を体へ寄せた。上野で壁へ押しつけられたときのことは、まだ話していなかった。
「今度は私が何とかしたかったの。玲司ばっかり、あんな目に遭って……」
「俺のせいにすんなよ」
葵は口を閉じた。そういうつもりではなかった。だが、言い返そうとすると、また玲司が怪我をした話になりそうで、続けられなかった。
電話の向こうで、短く息を詰める音がした。
「玲司、大丈夫?」
「……今、それ聞くなよ」
葵は目を閉じた。会いたかった。明日には病院を出られると知って、顔を見られると思った。それなのに、話さなければならないことが増えるほど、玲司の前へ行くのが怖くなった。
「画像、送ってくれ。今から久世さんに連絡する」
「うん」
「明日は来いよ。病院に」
葵は声を出そうとして、一度息を吸った。
「行く」
「何時に出るか、あとで送る」
通話が切れた。葵は撮った画像を送り、集合時刻であって襲撃の開始時刻ではないことを書き添えた。伊織が来るという話も、連絡役から聞いた範囲で伝えた。
送り終えても、すぐには歩き出せなかった。駅へ向かう人の流れを見ていると、玲司から短い返事が来た。
『久世さんに話した。お前にも電話するって』
葵が読み終える前に、着信の画面へ切り替わった。久世の名前を見つめ、端末を持ち直した。
今度は、居場所から話さなければならなかった。葵は画面の応答を押し、端末を耳へ当てた。




