第65話 薬の方が大事?
朝倉からの電話に出たとき、葵はホテルのベッドに腰掛けていた。
池袋を出る前に、真壁は柴崎へ電話をかけた。相手は出ず、また調べて連絡すると言って別れた。葵は一人で安いホテルを探し、部屋へ入っても、しばらく靴を脱げずにいた。
「無事だから。今は一人」
「今、どこですか」
朝倉は挨拶もしなかった。葵は膝の上の鞄へ目を落とした。病院でそばにいてくれた人を、電車の中へ置いてきた。先に謝るつもりだったのに、居場所を聞かれると口が重くなった。
「泊まるところにはいる」
「場所を教えてください。迎えに行きます」
「来なくていい」
電話の向こうが静かになった。葵は右手で端末を持ち直し、左腕を体へ寄せた。
「久世さんも捜しています。私だけで済む話じゃないんです」
「分かってるよ」
「だったら、どこにいるか言ってください」
葵は答えなかった。何か言えば、朝倉はそこからまた尋ねてくる。心配をかけているのは分かっていたが、今から迎えに来てもらう気にはなれなかった。
「ひなちゃん、ごめん。連絡はするから」
名前を呼ばれたところで、電話を切った。
端末を鞄の上へ置くと、すぐにまた震えた。朝倉だと思って画面を見た葵は、玲司の名前に手を止めた。呼び出しが続く間、壁に掛かった鏡の中で、自分が同じ姿勢のまま座っていた。
「……もしもし」
「どこにいるんだよ」
声を聞くと、病室で見た唇の傷まで思い出した。まだ話すと痛むのだろうか。葵は端末を耳へ押し当てた。
「玲司、起きてて大丈夫なの」
「大丈夫じゃねえよ。朝倉さんから聞いたぞ。何してんだ」
葵は鞄の縫い目を見つめた。
「真壁に会った」
「会いに行くなって言っただろ」
「返事が来たから。直接話した方が早いと思って」
「それで、何か分かったのか」
一度息を吸った。池袋の部屋も、そこにいた三人も、話せなかった。
「伊織の居場所は、まだ」
「じゃあ、戻ってこいよ。何で朝倉さんから逃げるんだよ」
葵は鏡から顔をそらした。左腕をかばうところを見られれば、肩のことも、今夜どこへ行っていたのかも聞かれる。真壁にもらった薬を、もう一錠飲んだことまで、玲司の顔を見ながら黙っていられる気がしなかった。
「明日、また電話する」
「電話じゃなくて、顔見せに来いって言ってんの」
会いたかった。声だけでは、どれくらい痛いのかも、今どんな顔をしているのかも分からない。だが、病室へ戻って、伊織はまだ見つからなかったと話したあと、自分はまた外へ出られるだろうか。
「……ごめん。今日は行けない」
玲司が何か言いかけ、途中で言葉を止めた。少しして、息をつく音が聞こえた。
「勝手に切るなよ。明日は、お前からかけてこい」
「うん」
通話が終わると、葵はようやく鞄をベッドへ下ろした。肩を動かさないよう靴を脱ぎ、壁へ背を預ける。目を閉じても眠れず、枕元へ置いたスマートフォンに何か届くたび、手を伸ばした。
*
真壁から次の場所を知らされたのは、池袋へ行った三日後だった。
その間も、朝倉と玲司には連絡をしていた。二人から同じことを聞かれるたび、居場所を答えずに別の話をした。玲司はまだ病院にいて、葵は面会に行けないままだった。
待っていた連絡が来ると、葵はすぐにホテルを出た。
上野で会った真壁の口元には、薄い傷が残っていた。葵がその顔を見ると、男も左肩へ目を向けた。
「動くか」
「動く。今度は誰に聞いたの」
「前に連中と薬のやり取りをしてた奴だ。部屋を使ってることは確かめた」
「伊織は?」
「そこまでは分からん」
葵は文句を言いかけたが、真壁は先に歩き出した。ほかに行ける場所もなかった。鞄を右肩へ掛け直し、男の隣へ並んだ。
駅前を離れ、住宅の多い通りへ入った。真壁が足を止めたのは、外階段のある古いマンションだった。二階の端の部屋だと教えられ、葵は入口脇で鞄を開けた。
小袋の三錠から一錠を取り出し、買ってきた水で飲んだ。残りは二錠。袋とペットボトルをしまうと、真壁が階段へ向かった。
踊り場から部屋の明かりが見えた。葵は左腕を上げかけたが、肩の奥が痛んだので途中でやめた。池袋へ入る前と同じことを、また確かめている。それが腹立たしくて、右手で鞄の紐を握った。
真壁が呼び鈴を押した。中で足音がし、細身の男がドアを開けた。男は真壁から葵へ目を移した途端、ドアを閉めようとした。
真壁が扉を押さえた。
「待て。伊織はいるか」
「知らねえよ。帰れ」
奥から、どうしたという声がした。ドアの隙間へ別の男が顔を出す。茶色のスウェットを着た、肩幅のある男だった。
「池袋に来たの、お前らか」
もう話が回っている。
葵が口を開くより先に、男は細身の男を脇へどかし、真壁の胸を押した。真壁が廊下へ下がると、葵は鞄を外して壁際へ置いた。
「伊織、どこにいるの」
男の腕が伸びてきた。葵は右手で払い、顔へ飛んできた拳を避けた。男の体が廊下へ出たので、横へずれながら腹を蹴る。よろめいた男が玄関の中へ戻り、葵もそこへ踏み込んだ。
細身の男は部屋の奥で黒い鞄をつかんだ。真壁が追おうとすると、茶色の男が横から腕を振った。葵が右腕で受け、その間に細身の男が二人の脇を抜けて廊下へ飛び出した。
「待て、その鞄!」
真壁が叫んだ。葵がそちらを向くと、茶色の男に正面から押された。上がり口の段差に踵が引っかかり、背中が壁へぶつかった。
「待って、こっち手伝って!」
真壁は一度だけ振り向いたが、男を追って走り出した。
葵は歯を食いしばり、目の前の男へ顔を戻した。頬の横へ拳が飛び、頭をずらすと壁が鳴った。さっき腹を蹴ったのに、息も乱していない。池袋の男と同じだった。
葵は右で顔を打った。男は頭を振ったが、離れずに体ごと押してくる。右腕が胸の前へ押し込まれ、左腕を上げようとした途端、肩に痛みが走った。
真壁を呼ぶ声は、もう出したくなかった。
男の足が近づいたところで、葵は腰をずらし、右膝を腹へ突き上げた。押す力が緩んだ隙に脇を抜ける。離れるつもりで踏み出した足が靴のまま室内へ上がり、敷かれていたマットが滑った。
葵は台所の流しへ右手をついた。肩をかばって体を起こす間にも、男が向き直る。廊下へ戻るには、その脇を通らなければならなかった。
「一人で何しに来てんだよ」
男が笑った。
一人じゃなかった。
言い返す前に男が来た。葵は流しから手を離し、踏み込んできた足を横から蹴った。男の体が傾いたところへ右を打ち、顔が上がった瞬間に腹を蹴り込む。
男が玄関へ下がり、上がり口の縁へ腰を落とした。葵は追いかけた。立とうとする男の手が伸びてきたので払い、肩口へ右拳を打ちつける。男は壁へぶつかり、片手を床についた。
葵も息が上がっていた。もう一度向かってこられたら、どこまで左腕を使わずに済むか分からない。拳を下ろさずにいると、男は顔を上げてこちらを睨んだ。
「……分かったよ。もう来んな」
「あんたが来たんでしょ」
声が震えた。男が口を開いたので、葵は一歩詰めたが、続きは出てこなかった。浅く息をしながら、男は視線を廊下へ動かした。
外階段から足音が近づいていた。
*
真壁が戻ったとき、細身の男の腕を後ろから押さえていた。もう片方の手には黒い鞄がある。男を玄関へ押し戻し、茶色の男の隣へ座らせると、真壁は葵を見た。
「大丈夫か」
葵は答えなかった。
真壁は黒い鞄を上がり口へ置き、ファスナーを開けた。畳まれたシャツとズボンの下には、洗面道具の入った袋があった。そちらも開けて確かめたが、薬は出てこなかった。
「だから、入ってねえって言っただろ」
細身の男が怒鳴った。
「何で持って逃げた」
「俺の荷物だよ。置いて帰れっていうのかよ」
葵は鞄の中を見た。着替えを追いかけている間、自分は壁へ押しつけられていた。真壁が洗面道具の袋を閉じるのを見ていると、すぐにでも何か投げつけたくなった。
「伊織は、ここには来てないの」
葵が尋ねると、細身の男は床へ目を落とした。
「俺がいる間は来てねえよ。会えるとも聞いてない」
「誰に呼ばれて来た」
真壁が聞いた。男は一度こちらを見てから、声を落とした。
「連絡回してる奴がいるんだよ。俺はそいつに言われて来ただけだ」
「伊織からじゃなくて?」
葵が聞き返すと、男は頷いた。
「そいつには会ったことあるの」
「昨日、会った。呼ばれて行って、それで今日はこっちへ来いって」
真壁が場所を聞くと、男はポケットからスマートフォンを出した。呼び出されたときの文を見せられ、葵も画面をのぞいた。建物の名前と部屋番号がある。
「ここに伊織がいるの?」
「知らねえよ。俺は見てない」
男は端末を引き戻しかけた。真壁がまだだと言い、自分のスマートフォンへ相手の連絡先と場所を控えた。
部屋を確かめても伊織はいなかった。真壁が薬を尋ねると、茶色の男は、持っていた分は飲んだと答えた。残りを出せと言われても首を振り、壁にもたれたまま動かなかった。
真壁が部屋の中を調べている間、葵は二人の前に立っていた。細身の男は鞄へ手を伸ばしかけ、葵と目が合うと引っ込めた。
もう、どこへでも持っていけばいい。
そう思っても、口には出さなかった。
真壁は何も持たずに玄関へ戻ってきた。葵は男たちに背を向け、廊下へ出ると、壁際に置いた自分の鞄を拾った。
*
建物を出ると、葵は鞄を持った右手を下げたまま、真壁へ向き直った。
「呼んだの、聞こえてたよね」
真壁は足を止めた。
「ああ」
「なのに、行ったんだ」
「あの男が薬を持って逃げると思った」
「入ってなかったじゃん」
真壁は黙った。葵はその口元を見ていたが、謝る言葉は出てこなかった。
「私がやられてても、薬を追うわけ?」
「お前なら止められると思った。逃げた方を見失えば、薬も追えなくなる」
葵は鞄を地面へ下ろした。右手を離すと、指が勝手に握り込まれた。
「私、手伝ってって言ったよね」
「聞こえてた」
「だったら、何で私が大丈夫かどうか、あんたが決めんの」
近くを歩いていた人がこちらを見た。真壁はそちらへ目をやったが、葵は声を落とす気になれなかった。右手で左肩を押さえると、真壁の視線も戻ってきた。
「薬の方が大事?」
「取り戻すために来てる。それは最初に話しただろ」
「知ってるよ。でも、置いてかれていいなんて言ってない」
喉が詰まった。怒鳴りたいのに、次の声を出せば泣いてしまいそうだった。葵は肩から手を離し、真壁を睨んだ。
一人で行くと言えればよかった。だが、狭い玄関で男に押しつけられ、助けを呼んだときのことを思い出すと、口にできなかった。左腕は今も痛む。それでも伊織を捜すには、またこの男と一緒に行かなければならなかった。
真壁は何か言いかけたが、葵が先に口を開いた。
「さっきの場所、確かめて。その連絡役が、まだいるかどうか」
「……連絡する」
葵はしゃがんで鞄を拾った。立つときに左肩が揺れ、また顔をしかめたが、真壁の方は見なかった。
「次は、勝手に置いてかないで」
返事を待たずに歩き出した。鞄を肩へ掛ける気になれず、右手に提げたまま、葵は駅の方へ向かった。




