第64話 そっちの方が面白い
伊織はホテルのソファで、冷めたポテトを食べていた。紙箱の底には短いものばかり残っている。向かいの椅子に座る柴崎が電話を切らないので、二、三本まとめて口へ入れ、テーブルの上のコーラを取った。
「それで、もう帰ったんだな」
柴崎は返事を聞いてから、また何か尋ねた。来客を待っているはずなのに、ホテルへの道を教えている様子ではない。伊織がストローを噛んで見ていると、ようやく通話が終わった。
「池袋の部屋、荒らされたぞ」
「警察?」
「知らねえ男と女だ。お前を捜してる。薬のことも聞かれたってよ」
伊織はカップをテーブルへ戻した。
「三人いたんじゃなかった?」
「いたよ。三人ともやられた。女の方も相当強かったらしい」
「何それ。薬、飲んでなかったの?」
「一人は飲んでた。それでもだ」
伊織は紙箱へ伸ばしかけた手を止めた。御徒町で自分を殴りにきた女の顔が浮かぶ。こちらにつかまれても膝を入れて抜け出し、殴られれば殴り返してきた。逃げ出す連中ばかり見ていた日に、あの子だけは違った。
「女って、若い?」
「若くて、小柄だと。帰る頃には左肩を押さえてたらしい。知ってる奴か」
「葵って子かも」
柴崎は聞き覚えがないという顔をした。伊織は、御徒町で喧嘩になった相手だとだけ答えた。
あの男には、もう関わるなと言っておいた。もう関わらないと約束して、帰してくれと頼んでいたくせに、女の方には伝わらなかったのか。それとも、聞いたうえで来たのか。
後者なら、ずいぶん馬鹿にされた話だった。伊織はストローの先を指でいじりながら、それでももう一度顔を見たいと思った。一緒にいた男が誰なのかも気になる。
「薬は取られた?」
「昼に俺が引き上げた分は無事だ。部屋には残してなかった」
「じゃあ、よかったじゃん」
「どこから部屋を聞いたのか分かってねえんだよ。こっちのことを調べてる奴がいるんだぞ」
柴崎が端末を置く音が強くなった。伊織は顔を上げたが、聞きたいのはそこではなかった。
「俺に連絡くれれば会うのに」
「会ってどうすんだよ」
「来てから考える」
柴崎は返事をせず、残った紙箱を自分の方へ引き寄せた。伊織がまだ食べると言うと、中をのぞいてから戻してくる。底には塩と、小さな欠片しか残っていなかった。
「で、今日来る人は? 遅くない?」
「もう着く。お前が早く来ただけだろ」
柴崎によれば、盗品の売り先を紹介してくれる男だという。伊織は、大きな金の話があるから聞いておけと呼ばれていた。詳しく尋ねても、本人が来てからだと言われ、食事だけが先に終わっていた。
「この間の分、売れなくなったとかじゃないよね」
「別の話だ。金塊をこっちへ持ち込んで売ってる連中がいる。その代金を近いうちに海外へ持っていくってよ」
「いくら?」
「億はいくらしい」
伊織はソファの背から体を起こした。
「それ、先に言ってよ」
「話が本当ならな」
柴崎が言い終わる前に、ドアが叩かれた。
*
入ってきた男は、伊織を見ると入口で一度止まった。紺色のシャツに黒い鞄。髪を後ろへ撫でつけていて、柴崎よりいくらか年上に見えた。
「二人か」
「話を決める奴がいるって言っただろ」
柴崎が答えると、男は伊織へ目を戻した。その視線が顔から足元まで動いたので、伊織も同じように見返した。
「俺じゃ嫌?」
「いや。若いなと思って」
「あんた、何歳からこういうことやってんの」
男は笑おうとしたが、伊織が笑っていないのを見ると口を閉じた。柴崎が窓際の椅子をテーブルへ寄せ、座るよう促した。
男は鞄を足元へ置いて腰を下ろした。伊織は邪魔な紙箱をカップの横へ押しやり、空いた場所へ肘をついた。
「金の話、聞かせてよ」
男は柴崎へ、どこまで話したのか確かめた。柴崎が短く答えると、ようやく伊織にも向き直った。
「海外から金塊を入れて、日本で売ってる連中がいる。俺は、その売り先をつないでる。今回の分も、もう金になってる」
「それを、また海外に持ってくの?」
「そう。持っていく奴も向こうで用意してる」
伊織は、男の足元の鞄を見た。あれに札束を詰めたら、いくら入るのだろう。金塊なら重そうだが、札なら自分でも持てる。先日の盗品がいくらで売れるかと聞いたときより、金を手にした場面がはっきり浮かんだ。
「で、何でそれ、俺らに教えんの」
「ただで教えるとは言ってない」
男の返事が早かった。伊織が柴崎を見ると、柴崎も男の方を見たままだった。
「電話でもそればっかりだったな。先に、何があったか話せよ」
「あいつら、売り先を見つけるまではこっちに頭下げてたんだよ。急いでくれ、まとめて扱えるところを捜してくれって。こっちが話をつけて、金が入った途端に、約束の額は払えないって言い出した」
男は袖口を引っ張りながら、柴崎へ身を寄せた。
「払えないんじゃない。払いたくないんだ。もう売り先が分かったから、次から俺はいらないってことだろ」
「それで、俺たちに取り返させたいのか」
柴崎に言われ、男は鼻で笑った。
「俺が削られた分なんて、ほんの一部だよ。お前たちが店から持ってきてる物、何回売ればそこまでいく?」
柴崎の表情が変わった。伊織が顔を向けても、柴崎は男から目を離さなかった。
「人の取り分を減らす奴の文句を言いに来て、お前もこっちを安く使うつもりか」
「だから、金になる話をしてるだろ」
「お前は話すだけだ。取りに行くのは俺たちだぞ」
男が口を閉じた。空調の音が聞こえる中、伊織はカップを持ち上げた。氷が溶けて、コーラが薄くなっている。さっきまで欲しかったポテトは、もうどうでもよかった。
「金塊を売ったとこ、あんたもいたんだよね」
伊織が尋ねると、男は頷いた。
「話をつないだだけじゃない。金の受け渡しまで付き合った。それなのに、俺に渡す分だけ惜しみやがる」
「海外に持ってくっていうのは、誰に聞いたの」
「連中から直接だよ。出国する前に金を用意したいからって、売るのを急がせたんだ」
伊織はカップを置いた。
「それで、今度は俺らにくれるの?」
男は口元を緩めた。
「欲しいなら、取ればいい。取れた金から、俺にも渡してくれれば」
「取れなかったら?」
「そのときは俺ももらえない。それなら、文句ないだろ」
男は柴崎へ言った。柴崎はすぐには答えず、椅子に深く座り直した。
伊織は男が来る前に聞いた額を思い返した。あれだけあれば欲しかった車も買えるし、仲間を連れて何日でも遊んでいられる。金が足りるかと柴崎に聞く必要もない。だが、そういうことを考えている間も、目の前の男の話し方が気になった。
さっきから、相手の顔色をうかがいながら金をねだっている。自分の取り分を減らされて、これだけ腹を立てているのに。
「自分じゃ取りに行かないんだ」
男の笑いが消えた。
「俺はそういう仕事じゃない」
「そんなに怒ってるなら、殴って払わせればいいじゃん」
「伊織」
柴崎が口を挟んだ。
「相手は店員じゃねえんだぞ。金を取られて、それでおしまいになる連中じゃない。誰がやったか捜して、取り返しに来る。捕まったら、殴られるだけじゃ済まねえよ」
男も、そういう連中だと頷いた。その顔を見た途端、伊織は笑ってしまった。
「それを俺らにやらせようとしてんだ?」
「だから、金はあるって言ってるだろ」
男の声が大きくなった。伊織は口元へ手を当てたが、笑いを隠す気にはならなかった。どれだけ腹が立っても、自分では手を出せない。そういう相手の金を持ってきてほしいと、この男は頼みに来たのだ。
「伊織、聞いてんのか」
柴崎の声が低くなった。
「聞いてるよ。取ったら、取り返しに来るんでしょ」
「お前、面白がってんだろ」
伊織は手を下ろした。
「うん。そっちの方が面白い」
柴崎が黙った。
先日の店では、最初の一人が倒れると、誰も近づいてこなくなった。奪った品物は金になり、テレビでも騒いでいた。楽しかったのは確かだが、殴り返してきた葵の顔ほど、その店員の顔は思い出せない。
今度の相手は、追いかけてくるかもしれない。その連中が自分たちの金だと怒鳴っても、目の前で持っていったらどうなるのか。どこまでやれば、向こうから来なくなるのか。想像しているうちに、まだ何もしていない手に力が入った。
柴崎は伊織をしばらく見てから、男へ向き直った。
「その金、本当に億もあるんだな。お前が見たんだな」
男が頷くのを、伊織は見ていた。柴崎はまだ、話を終わらせようとはしなかった。それが嬉しくて身を乗り出すと、柴崎もこちらへ顔を向けた。
「やるなら、俺の分も先に決めるぞ。お前が好きに使う金と一緒にすんな」
「いいよ」
「軽く返事すんな。冗談じゃねえからな」
「冗談にしてないって。欲しいんでしょ、金」
柴崎は睨んだまま、欲しいよ、と答えた。伊織は今度こそ笑い、二人を見比べた。
「じゃあ、取ろうよ。俺らで」
男が足元の鞄へ手を置いた。
「俺の分も忘れるなよ。話だけ聞いて、あとで知らないなんて言うなよ」
「忘れないよ。あんたに恨まれたら、また誰かに俺らのこと話しに行くんでしょ」
男の手が止まった。柴崎が短く笑うと、男はそちらを見て、笑い事じゃないと言い返した。
伊織はカップと紙箱をまとめ、テーブルの端へ寄せた。仲介役がまだ何か言おうとするのを待たず、空いたところへ両肘をつく。
「それで、いつ持ってくの。その金」




