第63話 次はどこ
池袋の駅からしばらく歩いたところで、真壁が細い通りへ入った。葵も続き、飲食店の看板が並ぶ古いビルを見上げた。三階の窓に、白い明かりが見える。
「あそこ?」
真壁が頷いた。入口の案内板には会社の名前がいくつか残っていたが、三階の欄は空いていた。真壁によれば、連中が事務所として借りている部屋だという。
階段を上がる途中で、男の笑い声が聞こえた。別の声が何か言い返し、また笑いが重なる。葵は踊り場で足を止め、鞄から真壁に渡された袋を出した。
一錠を口へ入れ、唾と一緒に飲み下す。残りを鞄へしまって顔を上げると、真壁がこちらを見ていた。
「伊織がいても、いなくても、揉めるかもしれないでしょ」
真壁は答えず、残りの階段を上がった。葵は左腕を少し動かしてみたが、肩にはまだ痛みがあった。右手で鞄の紐を持ち直し、あとを追う。
三階にはドアが一つあった。真壁がノックすると、室内の声がやみ、少しして灰色のパーカーを着た男が顔を出した。
「何?」
「伊織に用がある」
男は真壁と葵を見比べた。中へ顔を戻し、伊織の客だと言うと、奥から入れればという声がした。
男が横へどき、真壁が先に入った。葵も続いて部屋を見渡した。
右手には古いソファと低いテーブルがあり、黒いTシャツの男が座っていた。奥の事務机には赤いジャージの男が寄りかかり、スマートフォンを見ている。ドアを開けた男を含めて三人。伊織の顔はなかった。
「伊織は?」
葵が尋ねると、黒いTシャツの男がソファの背へ頭を預けた。
「いねえよ。本人に連絡すれば?」
「どこにいるの。あんたたちは連絡取れるんでしょ」
「何で俺らが呼ばなきゃいけねえんだよ。お前ら誰?」
葵が答える前に、真壁が口を開いた。
「ここに薬を置いてたはずだ。伊織のギアだ。今もあるか」
灰色のパーカーの男が、真壁の前へ回った。
「ねえよ。帰れ」
「誰が持っていった」
男は真壁の上着をつかみ、ドアの方へ押した。葵は鞄を入口脇の床へ下ろし、二人の間へ入ろうとしたが、黒いTシャツの男が立ち上がった。
「お前も帰れって」
手が左肩へ伸びてきた。葵は体を引き、右手で払った。
「触んないで」
男の顔つきが変わり、払った手首をつかまれた。右腕が引かれ、踏ん張ったはずの足まで前へ出た。葵は男の胸元へぶつかりかけ、左手を上げようとして肩の痛みに顔をしかめた。
男はそのまま腕をねじろうとした。葵が腹へ膝を入れると、息が詰まる音がして、指の力が緩んだ。手を抜いて離れたが、男は腹を押さえもせず、すぐにこちらへ向き直った。
使っている。
葵はソファの方へ寄りすぎないよう足を動かした。振られた拳を避けると、男の腕がすぐ脇を通った。続けて踏み込まれ、左腕で受けかけてやめる。肩を打たれれば、今度こそ上がらなくなるかもしれなかった。
背後で椅子が倒れた。
真壁は灰色のパーカーの男を押し返していたが、事務机から離れた赤いジャージの男が、横から殴りかかった。真壁の顔が弾かれたところへ、灰色のパーカーの男が背後からしがみついた。
葵はそちらへ動こうとした。黒いTシャツの男が行く手を塞ぎ、もう一度右腕へ手を伸ばしてくる。葵はつかまれる前に腹を蹴った。
男が後ろへ下がり、低いテーブルへふくらはぎをぶつけた。葵はその脇を抜け、また真壁を殴ろうとしている赤いジャージの男へ近づいた。
「こっち見ろよ!」
男が振り向いたところへ、葵は蹴りを入れた。男が真壁から離れ、机の方へよろめく。真壁も背後の男を引き剥がし、壁へ押しつけた。葵は赤いジャージの男を追おうとしたが、黒いTシャツの男につかまれた。
左の上腕だった。
引かれた瞬間、肩の奥に鋭い痛みが走った。葵は声を上げ、振り返りながら右で殴った。拳が頬へ当たっても、男の手は離れない。もう一度引かれ、体ごとソファへ投げつけられた。
背中が座面へ落ちた。追ってくる男の顔が見え、葵は両足を上げて腹を蹴り返した。男がテーブルへぶつかる間に、右手で座面を押して立ち上がる。左腕を支えにする余裕はなかった。
伊織を殴るために来たのに、こんなところで止められている。
「邪魔すんなよ」
葵が踏み出すと、男もテーブルを押しのけて向かってきた。大きく振られた拳の下へ体を沈め、腹へ右を打ち込んだ。息を吐いた口元に、さっきまでの笑いはなかった。
男はそれでも葵へ腕を伸ばした。葵は横へ回り、もう一度蹴った。男の足がもつれ、ソファの前で膝をつく。
葵は拳を握ったまま近づいたが、男は顔を上げず、口から垂れた唾を床へ落とした。肩が大きく上下している。その手が伸びてこないのを見て、ようやく一歩離れた。
入口の方で、灰色のパーカーの男が壁へ背をつけて座り込んでいた。真壁は赤いジャージの男の腕を押さえ、事務机へ体を押しつけている。口の端が切れ、顎に血がついていた。
「もう、いいだろ……放せよ」
押さえられている男が言った。真壁はすぐには放さず、葵の方を見た。
「そっちは」
葵はソファの前の男を見下ろした。男は目だけをこちらへ向けたが、立ち上がろうとはしなかった。
「来ない」
真壁が赤いジャージの男を放した。男は腕を胸へ抱え、事務机へもたれたまま、二人から顔をそらした。
葵は壁際の男へ近づいた。
「伊織、どこ」
「だから、いねえって言っただろ」
「どこに行ったか聞いてんの」
男は葵を見上げ、鼻の下を袖で拭いた。
「今日、見てねえよ。来るとも聞いてない。俺に聞かれても知らねえって」
葵は男の前へしゃがもうとしたが、左腕が動いて痛みが走り、途中で止まった。右手で肩を押さえると、男の目がそこへ動いた。
「薬は」
真壁が後ろから尋ねた。
「もうない。持ってかれた」
「誰に」
「柴崎」
初めて聞く名前だった。葵は男の顔を見た。
「誰、それ」
「伊織と一緒にいる奴。ここのことも、そいつと話してたんだよ」
真壁が男のそばへ来た。
「いつ持っていった。お前が見たのか」
「昼。俺が渡したんだよ。残ってる分、出せって言われたから」
葵はソファの前へ目を向けた。黒いTシャツの男は座り込み、テーブルの上から取ったペットボトルの水を飲んでいた。
「そいつ、使ってるじゃん」
「自分の分、持ってたんだよ。さっき飲んだから、もうねえよ」
灰色のパーカーの男が答えた。黒いTシャツの男は何も言い返さず、二人を睨んでいた。
真壁は薬を置いていた場所を尋ねた。男が示したのは、事務机の脇にある棚だった。引き出しを開けても、充電用のケーブルと小銭があるだけで、錠剤の入った袋はなかった。
葵は部屋の奥へ回った。もう一つあったドアを開けると、小さな流し台とトイレしかない。誰も隠れていなかった。入口へ戻りながら、ソファの下にも目をやった。
伊織はいない。
分かっても、すぐには部屋から出る気になれなかった。三人とも、目の前にいる。どの男を殴っても、病室の玲司をあんな顔にした伊織には届かなかった。
「どんな物に入れて渡した」
真壁の質問が続いていた。男は小さな箱だと答え、両手で大きさを示した。
「どれだけ残ってた」
「数えてねえよ。袋が何個か入ってて、それを箱ごと――」
「伊織のことは聞かないの?」
葵が言うと、真壁がこちらを向いた。
「柴崎が持っていった物を確かめてる」
「誰が持ってったかは分かったじゃん。箱の大きさまで聞いて、何になるの」
「薬を持っていったと言えば、俺たちが帰ると思ってるかもしれないだろ」
男が、嘘じゃねえよと口を挟んだ。真壁は男へ向き直り、柴崎に連絡するよう言った。
男は渋ったが、葵がそばから動かずにいると、ポケットからスマートフォンを出した。何度か画面を触り、耳へ当てる。しばらく待っても話し始めず、やがて端末を下ろした。
「出ねえ」
「連絡がついたら何て言うつもりだったの」
葵が尋ねると、男は顔を上げた。
「知らねえ奴が来て殴ったって言うよ。お前ら、何なんだよ」
男の声が強くなった。葵は返そうとしたが、伊織に会わせろと繰り返したところで、電話の相手が出るわけでもなかった。
真壁が柴崎の連絡先を確かめ、自分のスマートフォンへ控えた。葵はその間、部屋を見ていた。倒れた椅子と、ずれたテーブル。ソファの前の男は水を飲み終え、まだ腹を押さえている。赤いジャージの男も、机から離れてこちらへ来ようとはしなかった。
真壁が薬を探して棚の中を確かめても、何も出てこなかった。
「行くぞ」
真壁に言われ、葵は壁際の男をもう一度見た。男は端末を握ったまま、こちらを睨み返していた。
「伊織に会ったら、捜してるって言っといて」
「勝手に捜せよ」
葵は男へ一歩近づいた。真壁が入口で待っている。背中にその視線を感じながら、葵は足を止めた。
鞄を床から拾い、部屋を出た。階段へ向かう背後で、さっきの男が電話で話し始めた。
「伊織に言っといてくれ。知らねえ男と女が来たんだよ」
葵は足を止めかけたが、続きはドアの閉まる音に遮られた。
*
階段を下りるときは、上がってきたときよりも左腕を体へ寄せていた。少し揺れるだけで肩が痛む。真壁も途中で足を止め、ティッシュで口元を拭った。紙についた血を見てから、丸めて上着のポケットへ入れる。
葵はその横を通り、先にビルの外へ出た。通りには、店の前で笑っている人たちがいた。さっきまでいた部屋のことなど、誰も気にしていないようだった。
「次はどこ」
追いついてきた真壁へ尋ねた。
「今夜はここまでだ。柴崎のことを確かめる」
「連絡先、聞いたじゃん。あんたからもかけてよ」
「かける。ただ、つながるかは分からん」
葵は鞄の紐を握った。部屋にいる三人には勝った。それなのに、ここへ来る前と同じように、伊織がどこにいるかは分からない。
「薬、一個使ったんだよ」
真壁は葵の顔を見た。
「まだ三つある。次に行く場所が分かったら連絡する」
「そういう話じゃない」
何のために飲んだのか。何のために、また肩を痛めたのか。伊織の顔さえ見ていないのに、もう帰れと言われている。
真壁の口元には、まだ少し血が残っていた。自分だけが戦ったわけではないと分かっていても、葵は黙って頷く気になれなかった。
「分かったら、すぐ教えて。今度は無視しないでよ」
「分かった」
真壁がスマートフォンを取り出し、電話をかけた。葵はそのそばで足を止めたまま、通りを行く人たちを見ていた。
葵は鞄の紐から右手を離し、左肩を押さえた。今すぐ次へ行きたいのに、行き先がない。葵は建物の壁へ寄り、真壁が話し始めるのを待った。




