第62話 薬は俺に渡せ
喫茶店へ入る前に、葵は朝倉からのメッセージを開いた。
『電話に出てください。久世さんにも伝えました。今どこにいますか』
その上にも、短い文と着信の履歴が並んでいた。葵は店の入口を避けて立ち、返信を打った。
『無事。あとで連絡する』
送ると、すぐにまた電話がかかってきた。朝倉の名前を見たまま、葵は出なかった。鳴り終わるのを待って鞄へしまい、店のドアを開ける。
真壁は奥の席にいた。壁を背にして座り、前にはコーヒーカップが置かれている。葵に気づくと、向かいの椅子へ目を向けた。
葵はそこへ座り、鞄を足元へ下ろした。水を持ってきた店員にアイスティーを頼み、店員が離れてから真壁を見た。
「連絡、読んでたんでしょ」
真壁は頷いた。
「玲司も送ってたよね。伊織のことも、また人を集めてるって話も。何で何も返さなかったの」
「お前たちに何を話すかは、俺が決める」
葵はテーブルへ身を寄せた。
「あんたが知ってることを教えてくれてたら、玲司だって――」
「何をしに行ったんだ、黒瀬は」
言葉を遮られ、葵は男を睨んだ。真壁は続きを待っていたが、謝る様子はなかった。
「友達を、もう仕事に誘うなって。相手にそう言いに行っただけだよ」
「御徒町で話してた友達か」
葵は頷いた。レナの話をここでまた始めれば、やめさせろと言われる気がした。あのときも言った。自分からも、何度もレナへ言った。それで聞いてくれるなら、玲司が会いに行くこともなかった。
「連れていかれたところに、伊織がいたんだって」
真壁はカップを持ちかけた手を戻した。
「帰してくれって言っても、やめなかったって。何人もで殴って、最後に薬まで飲ませたんだよ」
口にすると、御徒町で笑っていた伊織の顔が浮かんだ。あのとき、葵は玲司に腕をつかまれても、まだ男を追おうとしていた。自分を止めた玲司が、今はベッドに横になり、話すだけで顔を歪めている。
「あいつを殴りたい」
真壁はこちらを見ていた。葵は声を落としたが、目をそらさなかった。
「それで、警察に突き出す。玲司にしたこと、なかったことにさせたくない」
「警察は捜してるんだろ」
「捜してるよ。でも、まだ捕まってない。私は病院にいろって、そればっかり」
店員が近づいてきたので、葵は口を閉じた。アイスティーが置かれ、注文は以上かと聞かれる。葵が頷くと、店員は空いている隣のテーブルへ移り、食器を片づけ始めた。
葵はグラスへ手を伸ばした。喉が渇いていたことに気づき、ストローで続けて飲んだ。向かいの真壁は、こちらが話し終えるのを待っているようだった。
「伊織がどこにいるか、知らないの」
「今、どこにいるかまでは分からん」
「じゃあ、何で呼んだの。あいつのこと、知ってるんでしょ」
真壁は声を低くした。
「伊織はギアを大量に持ってる。自分で使うだけじゃなく、仲間へ配れるだけの量をな」
葵はグラスから手を離した。店を襲う連中がギアを使っていることは知っていた。伊織も自分で飲んでいる。だが、薬をどれだけ持っているのか、考えたことはなかった。
「俺は、それを手に入れたい」
真壁が続けた。
「あいつを止めたいのは、こっちも同じだ」
「だったら、手伝ってよ」
葵はすぐに言った。真壁が話す気になったのなら、今度こそ何も聞けないまま帰るつもりはなかった。
「あいつを捕まえれば、薬がどこにあるかも聞けるじゃん。あんたに分かってることを教えて。私も行くから」
真壁は葵の顔を見ていたが、やがて椅子の背から体を起こした。
「手伝うなら、条件がある」
「何」
「伊織たちが持ってるギアは、全部俺に渡せ。警察には渡すな」
伊織を捕まえる話なら、久世へ連絡することになる。見つけた薬だけ真壁へ渡して、久世には黙っていろというのか。葵はすぐには答えられなかった。
「あんた、手に入れてどうするの」
「そこまで話す気はない」
「また誰かに配るかもしれないじゃん」
真壁は答えず、葵を見ていた。店員が食器を載せた盆を持って離れていくと、隣の席には誰もいなくなった。
「あんたも伊織も、やってること変わんないんじゃないの」
言ってからも、葵は引かなかった。真壁がどういう顔をするのか見ていたが、男は怒鳴らず、低い声で答えた。
「それなら、俺を頼るな」
「頼らなかったら、何も教えないくせに」
「こっちの条件はのめないのに、手伝えって言うのか」
葵は口を閉じた。真壁は同情してここへ来たわけではなかった。ギアの話をしているときの方が、玲司について聞いていたときより言葉が多い。その男に、伊織のところへ連れていってほしいと頼んでいる。
もう帰りたい、と一瞬思った。席を立てば、少なくともこれ以上、真壁の言うことを聞く必要はなくなる。
だが、鞄を取ろうとして下を向くと、玲司のベッドの脇へ置いたときのことを思い出した。あのそばに戻って、明日も、伊織が捕まったかどうかを聞いて待つ。何もできなかったと言った玲司の顔を見ながら。
「……見つけた薬は、渡す」
葵は顔を上げた。
「でも、伊織は警察に渡すから。それは邪魔しないで」
真壁は少し黙ってから頷いた。
「分かった」
葵はグラスを引き寄せたが、ストローを口へ運ぶ気にはなれなかった。中の氷はもう小さくなっていた。
「それで、どこへ行けばいいの」
「連中が使っていた場所を聞いてる。まず、そこだ」
「誰に聞いたの」
「薬を扱ってる人間だ。連中がそこを使ってたと聞いた」
真壁はそれ以上、相手のことを話さなかった。久世からは、そんな場所の話は聞かなかった。葵はテーブルの向こうの男を見た。伊織を知り、ギアを欲しがり、玲司へ薬を渡した男には、まだ聞かなければ分からないことが多すぎた。
「そこに、まだいるの?」
「それを確かめに行く。薬も、もう別の場所かもしれない」
葵は唇を噛みかけてやめた。今すぐ伊織の居場所が分かるわけではない。それでも、朝から聞いてきた話の中で、初めて自分が行ける場所が出てきた。
「いつ行くの」
「今夜でも行ける」
「じゃあ、今から」
葵は鞄を取ろうとした。床へ左手を伸ばしかけ、肩の痛みに動きを止める。右手へ替える間に、真壁がこちらの肩へ目を向けた。
「その肩で行くのか」
「行くって言ってるでしょ。御徒町でも、あいつとはやり合ったんだから」
「伊織と?」
「そう。こっちも殴った」
葵は引き上げた鞄を膝へ置いた。殴ったのは本当だった。だが、倒せなかったことは言わなかった。体を押さえ込まれたとき、力だけでは振りほどけなかったことも。
「まだ、渡した薬はあるか」
「一錠。でも、中野に置いてきた。今は持ってない」
真壁はコーヒーを飲み、カップを置いてから伝票を取った。
「こっちで用意する。行くぞ」
*
店を出ると、通りには明かりがついていた。葵は鞄を右肩へ掛け、先を歩く真壁についていった。朝倉と病院を出たときには、この男と並んで歩くことになるかどうかも分かっていなかった。
真壁は少し先で足を止め、建物の入口から離れた壁際へ寄った。葵が近づくと、上着から小さな袋を取り出した。
透明な袋の中に、灰色の錠剤が四つ入っていた。葵の手の届くところへ差し出されたそれを見て、足が止まった。
「持ってろ」
葵はすぐには手を出さなかった。
玲司に飲ませたのも、これと同じ薬だった。病室で、無理やり飲まされたと話していた声がよみがえった。葵は袋へ手を伸ばしかけ、真壁の顔を見た。
「これを使って、取りに行けってことね」
「必要ならな」
葵は右手を伸ばして受け取った。真壁の指が離れると、錠剤が袋の底へ寄った。これがなければ伊織にはかなわない。御徒町では使っても、あいつを倒せなかった。
「あんたも来るんだよね。場所だけ教えて、私に行かせるんじゃないよね」
「俺も取りに行く。お前だけに任せるつもりはない」
真壁が答えた。葵は四錠の入った袋を鞄の内ポケットへしまい、口を閉じた。中野へ戻らなくても、もう手元に薬がある。
鞄の中でスマートフォンが震えた。
取り出すと、朝倉からだった。
『無事なら電話に出てください。迎えに行きます』
葵はその文を読んだ。来てもらうつもりはないのに、返信の欄へ指を置いたまま、何も打てなかった。朝倉は、まだ自分を捜している。
「行くぞ」
真壁が歩き出した。葵は顔を上げたが、すぐには足が出なかった。会って話せば何とかなる。昨日の玲司も、そう思っていたのだろうか。
今はその玲司を置いて、ここにいる。葵は朝倉への返事を打たずに、端末を鞄へ戻した。
真壁が駅の方へ曲がる。葵は右手で鞄を押さえ、人の間を抜けて、その隣に追いついた。




