第61話 ひなちゃん、ごめん
昼を過ぎてからもう一度病室へ入ると、看護師が玲司のスマートフォンを枕元の棚へ置いたところだった。葵は看護師が出ていくのを待ち、ベッドのそばへ椅子を寄せた。
「玲司、真壁に連絡していい?」
玲司はこちらを見た。朝よりも目が開いていたが、頬の腫れは変わらず、声を出す前に唇を少し湿らせた。
「何を聞くんだよ」
「伊織のこと。あいつらのこと、知らないわけじゃなかったでしょ」
「返事、来てないぞ」
「分かってる。でも、今のことは知らないじゃん。私が送るから」
棚の端末へ手を伸ばしかけると、玲司が葵の名前を呼んだ。葵は手を止め、その顔を見た。
「会いに行くなよ」
「まだ、返事が来るかも分かんないし」
「連絡だけだぞ」
葵が頷くと、玲司は棚へ目を向けた。布団から右腕を出し、端末を取ろうとして顔をしかめる。葵が先に取って手のそばへ置くと、玲司は画面のロックを外してから、こちらへ押した。
「何か言ってきたら、教えろ」
「うん」
葵は端末を受け取った。匿名アプリを開くと、御徒町の事件のあとに玲司が送った文が残っていた。伊織という名前と、また人が集められているという知らせ。その下には、真壁から何も届いていなかった。
『篠崎です。玲司のスマホを借りて送ってます。昨日、玲司が伊織たちに殴られました。ギアも無理やり飲まされて、今は入院してます』
そこまで打ち、ベッドへ目を向けた。玲司は目を閉じていたが、口元が動いた。
「変なこと、書くなよ」
「本当のことしか書いてない」
葵は画面へ目を戻した。伊織を殴りたい、と打ちかけた文を消し、捕まえたいと書き直す。指先に力が入りすぎて、隣の文字まで消してしまった。
『あいつを捕まえたい。話をさせてください。返事は私の方にください』
自分のアプリの連絡先を添えて送った。続けて真壁の連絡先を自分のスマートフォンにも移し、借りた端末を棚へ戻す。
玲司は眠ったようだった。葵は自分の端末の画面を伏せ、しばらくその寝顔を見ていた。起きている間は見つめられなかった唇の傷が、今はよく見えた。昨日、宮下に会いに行くと言ったときにはなかった傷だった。
病室のドアが開き、葵は自分の端末を鞄へしまった。
朝倉の後ろから入ってきた男は、ベッドの玲司を見て足を止めた。葵が立つと、男はこちらへ小さく会釈した。
「警視庁の片桐です。久世からお二人の話は聞いています」
御徒町や新宿の襲撃を追っている、T3というチームの刑事だと、片桐は短く説明した。葵のそばに来た朝倉が、玲司の様子を確かめる。
玲司は物音で目を開けていた。
「少しだけ、話を聞いてもいいですか。つらかったら、今日はやめます」
片桐が尋ねると、玲司は小さく頷いた。
車へ乗せられたところから聞かれ、玲司は途切れがちに答えた。宮下のほかにも男がいたこと、車の中で殴られ、顔に袋をかぶせられたこと。葵は横で聞いていたが、袋の話で玲司の口元から目を離せなくなった。
自分が電話をかけ直していた間、玲司は周りを見ることさえできなかった。
「連れていかれた先で、話をしていたのは誰ですか」
「伊織です。宮下に話そうとしたら……」
玲司は一度息をつき、少し間を置いて続けた。
「伊織に、こっちに言えって言われて」
「最初に手を出したのは?」
「伊織。そのあと、ほかの奴らが」
葵は椅子の端をつかんだ。朝には、何人もで殴られたと聞いていたが、誰が殴ったかまでは聞けなかった。玲司の目がこちらへ動くと、葵は手を膝へ戻した。横から口を出せば、玲司に気を遣わせてしまう。
片桐が次を尋ねる前に、玲司は体を動かそうとして、低く呻いた。布団の上へ戻した手が脇腹の辺りで止まる。
「今日はここまでにしましょう」
片桐が言うと、玲司は答える代わりに目を閉じた。葵も椅子を離れたが、すぐには出ていけなかった。棚の上のスマートフォンを、玲司が腕を大きく伸ばさず取れるところへ寄せた。
*
廊下へ出ると、片桐は葵からも、宮下と知り合った経緯を聞いた。葵が直接聞いたことと、レナから聞いたことを分けて確かめ、宮下が仕事を紹介していたというところで顔を上げた。
「レナさんから、その後、連絡は?」
「ない。玲司が入院したって送っても、返事しない」
口にすると、また腹が立った。そばにいれば何を言ったか分からない。葵はスマートフォンを出しかけたが、鞄の中で手を止めた。
「返事が来たら、久世か私に知らせてください」
片桐が差し出した名刺を受け取り、葵はそこに書かれた名前を見た。片桐航。玲司に質問していたときと同じ、落ち着いた声が続いた。
「こちらからも話を聞きたいので」
「先に伊織を捕まえてよ」
片桐が葵を見た。隣の朝倉もこちらを向いたが、葵は続けた。
「連れていかれたところにいたんでしょ。玲司が顔も見てるのに、まだ何も分かんないの?」
「その場所に、今もいるとは限りません。宮下も、車にいた男たちも捜しています」
「逃げてから捜したって――」
「葵さん」
朝倉に呼ばれ、葵は口を閉じた。名刺の角が指に当たっていた。
「伊織が見つかったら、ちゃんと教えて」
片桐は頷き、まだ聞けていないこともあるので、また来ると言った。葵は見送る間も、その名前を忘れないよう名刺を見ていた。
片桐がいなくなってから、葵は真壁との画面を開いた。自分の端末には、まだ一度も返信が来ていない。
『さっき黒瀬の方から送った篠崎です。読んでますか』
送信しても、画面は変わらなかった。
「少し、何か食べませんか」
朝倉に言われ、葵は端末を下ろした。
「いらない」
「私が食べたいんです。一緒に来てください」
朝倉は葵を残して歩き出そうとはしなかった。葵は鞄へ端末を戻し、朝倉と一階へ降りた。
葵が買ったサンドイッチを休憩用のテーブルへ置くと、朝倉も向かいに座り、自分のパンを出した。葵はサンドイッチの隣にスマートフォンを置いたが、袋を開ける気になれず、パンの間からのぞく薄いハムを見ていた。
「ひなちゃん、私がまた出てくと思ってる?」
朝倉は手元の袋から顔を上げた。
「思ってます。久世さんにも、やめるとは言いませんでしたよね」
「何もしてないじゃん。ここにいるのに」
「今は、いてくれてますね」
朝倉は責めるようには言わなかった。そのせいで、葵はかえって返す言葉を失った。袋の端を引くと、うまく切れずにパンを押し潰してしまった。
朝倉が手を出しかけたので、葵は小さく首を振った。自分で開け、潰れた方からかじる。腹が減っていないつもりだったのに、飲み込むともう一口欲しくなった。
「玲司はさ、私が行くって言ったら、また止めるんだよね」
「そうでしょうね」
「分かってる。言われたし」
パンを持ったまま、葵はテーブルへ目を落とした。今度は自分が動けばいいと思ったのに、行くなと言われる。玲司を助けられなかった自分が、あのベッドのそばで大人しくしていればいいのか。
「何で、あいつばっかりなんだろ」
「葵さんも、怪我してます」
「私のなんか、あれに比べたら」
「比べることじゃないです」
葵は朝倉を見た。朝倉は食べる手を止め、こちらを見ていた。
「黒瀬さんがあんな状態で、葵さんまで運ばれてきたら、私はどっちの顔を見ればいいんですか」
葵は答えず、残りのサンドイッチを袋へ戻した。
ひなちゃんを困らせたいわけではなかった。昨夜も、眠れない自分の隣にいてくれた。
だから、ここで真壁に送った文を見せれば、止められる。
葵はテーブルの端末を取り、膝の上へ下ろした。
*
午後の残りも病院で過ごした。玲司は眠っている時間が長く、葵は病室と廊下を行き来した。朝倉はそのたびに一緒に立ち、帰るなら中野まで付き添うと言った。
玲司が目を覚ますと、朝倉も葵と一緒に病室へ入った。ベッドのそばで足を止め、二人に目を向けた。
「お二人に、私からも言っておきます」
玲司が顔を向けるのを待って、朝倉は続けた。
「お二人を逮捕することになれば、私もその役目をします。警察官ですから、かばうことはできません」
「分かってる」
葵は朝倉を見て答えた。玲司も枕に頭をつけたまま、はい、と答えた。
真壁には、もう二度送った。何を知っているのか、少しだけでも話せないか。返事を待つ間にレナとの画面も開いたが、こちらにも何も届いていなかった。
夕方になり、葵は朝倉へ、中野へ着替えを取りに戻りたいと言った。玲司の分も持ってきたい。言いながら病室を見たが、玲司は眠ったままだった。
「じゃあ、一緒に戻りましょう」
朝倉が答えたところで、手の中のスマートフォンが震えた。
真壁だった。
『黒瀬は話せるのか』
葵は立ち止まった。朝倉に何か来たのかと聞かれ、少し待ってと答える。鞄を持ち直すふりをして体の向きを変え、返信した。
『少しだけ。ずっとは無理。私と話して』
『何をするつもりだ』
葵は画面を見た。ここで、何もしないと書くつもりはなかった。
『伊織を捕まえたい。あんた、何か知ってるんでしょ。協力してほしい』
返事が来るまで、今度は少し間があった。朝倉が隣にいる。葵は歩き出し、エレベーターを待ちながら画面を確かめた。
『新宿まで来られるか。会って話す』
続けて、喫茶店の場所と待ち合わせの時刻が送られてきた。葵は行くと返し、端末を鞄へしまった。
「レナさんですか」
「違う」
「誰から?」
葵はエレベーターの階数表示を見た。
「店。今日、出られないって送ってたから」
朝倉の顔を見ずに答えた。ドアが開くと、葵は先に乗り込んだ。鏡に映った朝倉と目が合いそうになり、鞄の紐を右肩へ掛け直した。
病院を出たあとも、朝倉は隣を歩いていた。人が多いところでは葵の左側へ回り、すれ違う人が肩へぶつからないよう間に入ってくれた。
葵は真壁の返事を思い出しながら、その横顔を何度か見た。中野へ戻れば、部屋でも朝倉が一緒だ。ギアが一錠残っている引き出しを開けることも、黙って玄関を出ることもできない。
駅で中野へ向かう電車に乗り、二人で扉の近くに立った。葵は鞄の上からスマートフォンの位置を確かめた。真壁が来る。やっと返事をしてきた。このまま中野まで行って、また画面の向こうへ戻してしまいたくなかった。
電車が途中の駅に停まった。降りる人に続いて、ホームから客が乗ってくる。朝倉が通路の奥へ一歩下がったので、葵もついていきかけた。
扉が閉まるという放送が流れた。
葵は足を止め、朝倉を見た。病室で言われたことは覚えている。この人に逮捕されるかもしれない。それでも、今は真壁に会いに行く。
「ひなちゃん、ごめん」
朝倉が振り向くと同時に、葵はホームへ降りた。
「葵さん!」
朝倉が乗客の間を抜けてこちらへ来た。閉まりかけた扉の向こうで手が伸び、葵は反射的に一歩下がった。扉が合わさると、朝倉の手がガラスへ触れた。
怒った顔だった。葵は目をそらせず、そのまま電車が動き出すのを見ていた。ガラスの向こうで朝倉が何か言ったが、もう聞き取れなかった。
車両が通り過ぎても、葵はしばらく動けなかった。鞄の中でスマートフォンが震え、取り出すと朝倉の名前が出ていた。
出れば、戻れと言われる。玲司にも連絡がいく。
葵は鳴っている端末を握ったまま、階段へ向かった。着信が途切れたところで、真壁が送ってきた店の場所をもう一度開いた。




