第60話 何であんたが謝るの
「まだ会えませんか」
葵が尋ねると、看護師は手にしていたものを置き、こちらへ向き直った。
「今は処置をしています。終わったらお知らせしますから、座ってお待ちください」
同じことを、少し前にも言われた。葵は分かったと答えたが、椅子へ戻る途中でまた廊下の奥を見た。玲司がどの部屋にいるのか、案内された先からは分からなかった。
久世から連絡が来たときには、もう外が暗くなっていた。
閉鎖された整備工場で玲司が見つかり、病院へ運ばれた。そう聞いて駆けつけたが、着いてからも会えなかった。どんな怪我なのかと聞いても、今は治療中だとしか言われていない。
葵は長椅子の端に座り、鞄を膝へ置いた。左肩が痛んだので右へ寄せ、スマートフォンを取り出す。玲司へ何度もかけた履歴が並んでいた。電話が切れたあと、角を曲がればまだいると思った。コンビニの前にいなくても、近くの車のどれかには乗っていると思った。
今は同じ建物の中にいる。それでも、声を聞くことさえできなかった。
画面を暗くして顔を上げると、廊下を看護師が通った。立ちかけた葵を見たが、その人は別の部屋へ入っていった。葵は鞄を持ち直し、浮かせた腰を椅子へ戻した。
しばらくして医師が来ると、葵は鞄を抱えて立ち上がった。
「処置は終わりました。今は状態も落ち着いています。ただ、まだ注意して経過を見る必要があります」
「玲司、助かるんですか」
医師は葵を見て頷いた。
「ひとまず、危険な状態は脱しました。搬送が遅れていれば、命に関わっていました」
葵は口を開いたまま、次の言葉を出せなかった。医師が続けて説明していたが、もう少し遅ければというところから、うまく頭に入ってこなかった。
近くで電話を聞いていれば、何かできるはずだった。玲司も場所を送ってくれた。その両方が途切れたあと、自分にできたのは、何度もかけ直すことと、警察へ電話することだけだった。
「……会いたいんですけど」
「今夜は休ませてあげてください。面会できる状態になったら、お伝えします」
葵は頷いた。看護師に椅子を示され、そこへ座ってからも、医師が去った方を見ていた。
「葵」
顔を上げると、久世が廊下をこちらへ来ていた。朝倉も一緒だった。葵が立とうとすると、久世は座ったままでいいと言った。
「電話で聞いたことを、もう一度確かめたい。宮下と会う前には、車の話は出てなかったんだな」
「うん。コンビニの前で話すと思ってた」
葵は、車で行くという声を聞いてカフェを出たことを話した。宮下が通話相手を尋ねたあと、電話が切れた。店の前に着いたときには、もう玲司はいなかった。
久世は途中で何度か問い返したが、葵が見ていない車のことを尋ねられても、答えは変わらなかった。
「近くにいたんだよ。すぐ行けるところに」
葵は地図を開いて端末を差し出し、カフェを指したが、指先が震えてうまく触れられなかった。
朝倉が隣へ座った。葵は画面を見せたまま、コンビニまで走ったときのことを話し続けた。
久世は宮下の連絡先や、葵から送られたやり取りについても確かめた。
「今晩は朝倉をつける。勝手に動くな」
「私、ここにいるよ。まだ玲司に会ってないし」
「場所を移るなら、朝倉と一緒だ。朝、また来る」
久世は朝倉にも、変わったことがあれば連絡するよう伝えた。朝倉が頷くのを見てから、廊下を戻っていった。
「少し、目を閉じていたらどうですか」
朝倉に言われても、葵は椅子の背へ寄りかかれなかった。
「呼ばれたら、分かんないじゃん」
「そのときは私が起こします」
葵は返事をせず、手元の画面へ目を落とした。待ち合わせのコンビニと、その近くのカフェが並んでいる。自分が選んだ店だった。
葵は指で地図を拡大した。二つの店は、こんなに近かった。
*
翌朝、朝倉と廊下の椅子にいると、看護師が呼びに来た。短い時間なら話せるという。
葵は病室の前で右手を上げ、ノックしかけて止めた。寝ているかもしれない。看護師が先に声をかけ、入っていいと言われてから、葵はドアを開けた。
玲司はベッドに横になっていた。頬が腫れ、片方の目は開けにくそうだった。唇には傷があり、鼻の下を細い管が通っている。布団から出た腕には点滴がつながっていた。
「……葵」
呼ばれて、葵は足を止めた。
昨日、カフェで聞いた声と違っていた。口を少し動かしただけなのに、玲司は痛そうに眉を寄せる。葵はベッドのそばまで行ったが、どこに手を触れればいいのか分からず、鞄の持ち手を握った。
「起きてたんだ」
玲司が頷きかけたので、葵は慌てて言った。
「動かなくていいから」
椅子を引くと、脚が床を擦った。その音で玲司の肩がわずかに動き、顔がこちらを向いた。葵は椅子を止め、ゆっくり座った。
「痛い?」
聞いてから、そんなことは見れば分かると思った。玲司は答えず、布団の上に出ていた指を少し動かした。
「宮下に、やられたの」
「伊織が……いた」
葵は玲司の顔を見た。
「伊織?」
「連れてかれたところに。あいつがいて」
玲司はそこで言葉を切った。息を吸うと顔が歪み、しばらく口を閉じたままになる。葵は待った。自分の呼吸まで止めていたことに気づき、玲司から顔をそらして息を吐いた。
「殴られた。何人もで」
御徒町で、伊織の腕を振りほどけなかったときのことが浮かんだ。殴り返しても離れず、痛がりながら笑っていた男だった。玲司は、その男たちの中に一人でいた。
「……ふざけんなよ」
葵が言うと、玲司の目がこちらへ戻った。葵は唇を結び、布団の上の手を見た。指の関節にも傷があった。葵は鞄を椅子の脇へ下ろし、膝の上で右手を握った。
「レナのこと、言ったんだけど」
「今、それはいいよ」
「何も、できなかった」
玲司は葵の顔を見ずに言った。
「帰してくれって、言った。もう関わらないからって」
葵は返事をしようとしたが、玲司が先に続けた。
「それでも、やめてくれなくて」
声が途切れた。玲司は布団の端をつかもうとし、うまくつかめなかったのか、手をそのままにした。
「……悪い」
「何であんたが謝るの」
思っていたより強い声になった。玲司がこちらを見たので、葵は目をそらした。
レナがまた行ったら、誰が連れて帰るのか。そう言ったのは自分だった。レナに腹を立て、何も言ってくれない玲司にも腹を立てた。そのあと、玲司が宮下のことを聞き始めた。
昨日も、自分が連絡先を送った。玲司が会いに行くまで、すぐそばで話していた。
葵の肩を気にしていた玲司が、今はベッドから起き上がることもできない。
「私が、レナのこと……」
そこまで言って、葵は口を閉じた。自分のせいだと話せば、玲司が何か返そうとするかもしれない。こんな状態の玲司に、今度は自分のための言葉まで言わせたくなかった。
「謝んないでよ」
玲司は返事をしなかった。葵も、もう言葉を探さなかった。ベッドのそばに座っているのに、昨夜よりも遠くにいるような気がした。
「お前も、殺すって」
玲司が言った。
葵は顔を上げた。玲司はこちらを見ていたが、すぐに目を伏せた。
「また邪魔したら、俺もお前もって。だから……もう、行くな」
「あんな奴の言うこと――」
「行くなよ」
玲司の声がかすれた。
葵は続きを言えなかった。玲司は目をそらしたまま、布団の端を指で押さえていた。
「今は、ここにいるから」
葵が答えると、玲司は目を閉じた。分かったとは言っていない。そのことに気づいたのかどうかも、顔からは読み取れなかった。
少し待ってから、玲司がまた唇を動かした。
「ギアも、飲まされた」
葵は椅子の上で体を起こした。
「あいつらに?」
「無理やり。警察行ったら、俺も捕まるって」
葵は玲司の手のそばへ右手を置いた。触れかけた指を止め、シーツだけをつかむ。
「そんなことまで、されたの」
玲司は目を開けず、かすかに頷いた。
ドアをノックする音がして、看護師が入ってきた。そろそろ休ませたいと言われ、葵は立ち上がった。鞄を持とうとすると、玲司の指が布団の上で動いた。
「また来る。まだ病院にいるから」
返事はなかった。葵はドアのところでもう一度振り返ったが、玲司は目を閉じたままだった。
*
葵は看護師に、玲司がギアを無理やり飲まされたと話していたことを伝えた。医師へ知らせるという返事を聞いてから廊下へ出ると、少し先の椅子に、戻ってきた久世が座っていた。
その隣に立っていた朝倉が、先に葵へ気づいた。
「話せましたか」
葵は頷いた。久世が立ち上がり、病室のドアへ目をやった。
「黒瀬は何て言ってた」
「伊織がいたって。宮下に連れていかれたところに。殴られて、ギアまで飲まされたって」
久世の顔つきが変わった。葵は二人を見ながら、警察へ行けば玲司も捕まると脅されたこと、自分も殺すと言われたことを続けて話した。
「詳しくは、黒瀬が話せるようになってから聞く」
「宮下は?」
「連絡がつかない」
「じゃあ、伊織は」
「まだだ。捜してる」
葵は病室を振り返った。ドアは閉まっていて、さっきまで見ていた玲司の顔も見えない。
「宮下、レナとは連絡取ってるかもしれない。私から聞いてみる」
「返事は来てるのか」
「……来てない」
「来たら知らせろ。自分で会いに行くな」
葵が黙っていると、久世は少し声を低くした。
「もう、この件に首を突っ込むな。黒瀬にも俺から言う」
「玲司、殺されかけたんだよ」
「だから、もうやめろと言ってる」
「あいつらは、まだ外にいるじゃん」
葵の声が廊下に響いた。朝倉がこちらへ一歩寄ったが、葵は久世から目をそらさなかった。
「玲司だけ、あんなことになって。それで終わりにしろって言うの?」
「捜査はやめない。お前らが勝手に動くのをやめろと言ってるんだ」
久世は病室へ目を向け、それから葵へ戻した。
「前に話したギアの受け渡しも、使用の件も、終わったわけじゃない。次に勝手なことをしたら、お前ら二人とも逮捕する」
葵は久世を見た。胸の奥が熱くなり、鞄の持ち手を握り直した。
「こんな目に遭っても、玲司を逮捕するの」
「同じことを何度も言わせるな。お前までやられてからじゃ遅いんだよ」
言い返そうとしても、病室の玲司が浮かんだ。昨日も、何かあったらどうするのかと玲司に聞いていた。自分が近くにいれば大丈夫だとは、もう言えなかった。
久世は返事を待っていた。葵は頷かず、廊下の床へ目を落とした。
「朝倉には、このままついてもらう。勝手に動くな」
葵が顔を上げると、朝倉は久世へ分かりましたと答えた。
「いつまで?」
「お前も殺すと言われたんだろ。一人にはさせない」
久世は朝倉へ、変わったことがあればすぐ連絡するよう言った。玲司の面会について病院側へ確かめに行くと言い残し、二人から離れた。
葵はその背中を見ていた。姿が見えなくなっても、鞄を握った手を緩められなかった。
「座りましょう」
朝倉に言われ、葵は椅子へ腰を下ろし、鞄を膝に載せた。朝倉も隣へ座った。
「ひなちゃん、玲司、謝ったんだよ」
朝倉が葵を見た。
「何もできなかったって。自分があんなことになってるのに」
葵は膝の鞄を抱き寄せた。左肩に痛みが走ったが、そのまま抱えた。
「レナを連れて帰りたいって、私が言ってたのに」
朝倉はすぐには答えなかった。葵も顔を上げず、鞄の中からスマートフォンを出した。
「レナさんには、連絡するんですか」
「うん」
「返事が来たら、私にも見せてください」
葵はレナとのやり取りを開いた。宮下の居場所を聞いた文に返事はなく、折り返しの電話もなかった。
何度か打ち直して、短い文を送った。
『玲司が入院した。新宿で私と一緒にいた人。宮下に会いに行って殴られた。連絡して』
葵は送った文を読み返した。自分が書いた「入院した」という文字を見ていると、さっきの玲司の顔が浮かんだ。これだけでは、レナには何も伝わらないかもしれない。
もう一度電話をかけようとして、指を止めた。今、レナの声を聞いたら、何を言ってしまうか分からなかった。
朝倉の隣で、葵は画面を見続けた。しばらく待っても、新しい返事は届かなかった。




