第59話 帰してくれ
玲司は床についた膝を動かし、ソファの男を見上げた。
伊織の頬には、薄い傷が残っていた。御徒町で葵の拳がかすめたところだ。葵と殴り合っていた男が、今は玲司だけを見ている。
「今日は一人なんだ」
玲司は答えようとしたが、口を開くと車で殴られた頬が痛んだ。唇の内側へ舌を当て、血の混じった唾を飲み込む。
「仕事の話、聞きたいんだって?」
伊織は背もたれへ体を預けた。宮下は入口のそばに立ち、玲司を連れてきた男たちも部屋から出ようとしない。肩越しにそちらを見たところで、伊織がもう一度声をかけてきた。
「何。違うの?」
「……宮下さんに、話があって」
「だから、何の話」
レナをもう誘うな。それだけ言えればいいと思って来た。だが、ここで同じことを言って、帰してもらえるのか。玲司が宮下へ顔を向けると、男は顎で伊織の方を示した。
「こっちに言ってよ」
伊織の声に、玲司は向き直った。
「レナを、もう仕事に誘わないでほしいんです」
伊織は少し黙ってから、宮下を見た。
「昨日、途中で帰った子?」
「そう。こいつらが連れてった」
宮下が答えると、伊織は玲司へ目を戻した。
「あの子、自分で来たんでしょ。お前に何の関係があるの」
「友達なんです。ああいうことには、もう関わってほしくない」
「本人に言えばいいじゃん」
言っても聞かないから、ここまで来た。玲司は膝の上に置いた手を握り、伊織の顔を見た。怒鳴られたわけでもないのに、次の言葉を口に出すまでに時間がかかった。
「また誘われたら、行くかもしれないから」
「じゃあ、やりたいんじゃん」
宮下が入口の方で笑った。
「レナちゃん、昨日のお金が入らないって、ずっと怒ってたよ。あれだけ嫌がってるのに連れてく方が、どうかと思うけどね」
玲司は振り向きかけたが、レナの怒った顔を思い出して止まった。連れ出されるのを嫌がっていたことも、金がもらえないと葵へ送ってきたことも、知っている。
「それでも、あのまま行かせるわけにいかなかったんだよ」
声が強くなった。すぐ後ろで男が動き、玲司は思わず肩を縮めた。
伊織は笑わずにこちらを見ていた。
「お前らさ、何を探ってんの」
「探ってるとかじゃなくて、レナを――」
「この前も来たよね。荷物どこに持ってくのかって。昨日も邪魔して、今日は仕事の話って嘘ついて」
玲司は口を閉じた。伊織と宮下がどうつながっているのか、聞き出せればと思っていた。今は、その話に触れることさえ怖かった。
「誰かに頼まれたの?」
「違う。俺が、自分で来たんです」
「だったら、もう来ないでくれる?」
伊織は前へ身を乗り出し、両肘を膝に載せた。玲司との距離が少し縮まり、反射的に引いた足が床を擦った。
「こっちはお前らに用ないんだよ。あの女にも、ちゃんと言っといて」
「あいつには、何も――」
「次に邪魔したら、お前もあの女も殺すから」
玲司は伊織を見た。男は目をそらさず、返事を待っていた。
葵はまだ、あのカフェにいるのだろうか。電話が切れたから、もう外へ出ているかもしれない。宮下を捜して、また別の男に声をかけていたら。
ここへ来る前には、一人で話をつけられると思っていた。今は葵に、あの店から動くなと伝えることもできない。
「……分かった」
伊織が聞き返すように顎を上げたので、玲司はもう一度言った。
「分かった。もう関わらない。あいつにも言う」
「うん」
伊織が頷いた。その顔を見て、玲司はようやく息を吐いた。レナを誘わないでほしいという話は、何も決まっていない。それでも、もう一度頼むことはできなかった。
「だから、帰してくれ」
声に出した途端、早く立ちたくなった。背後の男たちがどいてくれれば、ドアまでは数歩だった。玲司は片手を床につき、足を立てようとした。
伊織がソファから腰を上げた。
「そんなすぐ帰んなくてもいいじゃん」
顔を上げた玲司の目の前に、伊織が立った。何か答えようとしたとき、伊織が拳を振るった。
頬を殴られ、床についた手が滑った。玲司は肘から崩れ、口の中にたまった血を吐き出した。起き上がるより先に、背中を蹴られた。
「待っ……帰してくれって」
後ろの男が、もう一度蹴ってきた。体を起こせず、玲司は両腕で頭を覆った。靴の先が脇腹へ入り、声の代わりに息が漏れる。身を縮めて逃れようとすると、反対側からも足が出た。
「やめろ!」
叫んでも、男たちは離れなかった。玲司が顔を上げかけると、襟元をつかまれた。引き起こされたところで腹を殴られ、襟元をつかんでいた手も離れた。
床に倒れた拍子に、ソファが見えた。伊織はもうそこへ戻っていた。片腕を背もたれに載せ、玲司の周りに立つ男たちへ、何か話しかけている。
言葉は聞き取れなかった。すぐ近くで笑い声がして、玲司はそちらを見ようとしたが、近づいてきた靴を見て目を閉じた。
「もうしない。しないから……」
自分が何をしないと言っているのか、途中で分からなくなった。ここへ来たことか、レナを連れて帰ったことか。男の足が少し離れるたび、今度こそ終わったと思った。だが、体を伸ばそうとすると、また殴られた。
玲司は頭を抱えたまま膝を寄せた。上着が背中の方へ引っ張られ、裾がめくれても直せなかった。冷たい床に頬を押しつけていると、口から漏れた唾が肌へ触れた。
「……やめてくれ」
誰に向けて言えばいいのかも分からなかった。自分のそばにいる男に頼み、顔を上げられないまま、同じ言葉を繰り返した。
「そのへんにしといて」
伊織の声が聞こえても、玲司は腕を下ろせなかった。
男たちの靴が離れ、ようやく体に何も当たらなくなった。玲司は少しずつ息を吸おうとしたが、胸の奥が痛み、途中で咳き込んだ。口元を拭こうとしても、腕が重くてうまく動かない。
そばで誰かがしゃがんだ。また殴られると思い、玲司は腕を顔へ戻した。
「もう殴んないって」
伊織だった。玲司が指の隙間から見ると、男は自分の上着から小さな袋を出していた。そこから取り出した錠剤を、隣の男へ渡す。
灰色が見えて、玲司は顔を背けた。
「これ、飲んどいて」
嫌だと言おうとして、声が出なかった。男たちに体を起こされ、腕を押さえられる。閉じた口も無理に開かされ、錠剤を押し込まれた。逃れようと頭を振ったが、男はペットボトルの水を口へ流し込んできた。
むせて咳き込むと、口から水がこぼれた。顎を伝って服へ染み込むのが分かった。錠剤を吐き出そうとしたが、もう舌には触れない。喉を通ってしまったのだと気づき、玲司は男の手から逃れようと肩を動かした。
「やめ……何、飲ませたんだよ」
伊織は玲司の顔をのぞき込んだ。
「ギア。知ってるでしょ」
肩を押さえていた手が離れ、玲司は横へ倒れた。肘をつくことも間に合わず、床に体が当たった痛みで目を閉じた。
飲まされた。
そう言おうとしても、咳が先に出た。喉に残った水を吐き出すうちに、伊織の靴が目の前から離れていく。
「お前もギア飲んだからな。警察に行ったら、お前も捕まるぞ」
玲司は顔を上げようとした。自分で飲んだわけじゃない。お前たちが飲ませたんだろう。言い返したかったが、声にはならなかった。
宮下が上着から玲司のスマートフォンを取り出し、伊織へ渡した。伊織は電源を入れると、しばらく画面を見てから電話をかけた。
「あ、救急です。男が一人、けがして動けなくなってて」
伊織はソファのそばに立ち、受け取ったスマートフォンを耳へ当てていた。場所を聞かれたのか、どこかの住所を答えている。玲司は聞き取ろうとしたが、途中から分からなくなった。
「はい。意識はあります。お願いします」
通話が終わると、伊織は電源を落として宮下へ戻した。宮下がかがみ、玲司のそばへスマートフォンを置いた。
「ほら、返すよ」
黒い画面が見えた。玲司が手を伸ばすより先に、別の男が財布をその横へ落とした。二つともすぐそばにあるのに、どちらを拾うこともできなかった。
「じゃあ、行こうか」
伊織が声をかけると、男たちが入口へ向かった。玲司は身を縮めたまま、目の前を通り過ぎる靴を見ていた。
「救急車、来るから。待ってて」
伊織が言った。
玲司は口を動かしたが、男は返事を待たずに部屋を出ていった。
作業場の方で話し声がした。ドアの開く音が続き、やがて車のエンジンがかかった。音が遠ざかっても、玲司はしばらく床から顔を上げられなかった。
体のどこが痛いのか、一つずつ確かめる気にはなれなかった。寒いのに顔だけが熱く、目を閉じると、まだ男たちがそばにいるような気がした。
スマートフォンへ手を伸ばした。指先が端に触れたが、つかもうとしても床の上を少し滑っただけだった。玲司は肘で体を支えようとし、胸の痛みに耐えられず、また頬を床へ戻した。
葵に、連絡しなければ。
待っていると言っていた。無事かどうかも分からないまま、何度も電話をかけているかもしれない。ここにいると伝えたいのに、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。
伊織を前にして、もう関わらないと言った。レナを誘うなと頼みに来たはずが、途中からは帰してくれとしか言えなかった。
思い出すと、泣きたいほど悔しかった。だが、目を閉じても涙は出ず、喉の奥で息が引っかかるだけだった。
玲司はもう一度、スマートフォンへ手を伸ばそうとした。指を動かしたところで力が抜け、床についた手をそのままにした。
誰もいない入口を見て、車の音が戻ってこないことを願った。目を開けていようとしても瞼が下がり、そばにあるスマートフォンも見えなくなった。
葵の名前を呼ぼうとしたが、口からは息しか漏れなかった。頬に触れる床の冷たさも分からなくなり、玲司はそのまま意識を失った。




