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歌舞伎町ドラッグ・ギャンビット  作者: Aramaki_mai
第4部 匿名の暴力
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第59話 帰してくれ

挿絵(By みてみん)

玲司は床についた膝を動かし、ソファの男を見上げた。


伊織の頬には、薄い傷が残っていた。御徒町で葵の拳がかすめたところだ。葵と殴り合っていた男が、今は玲司だけを見ている。


「今日は一人なんだ」


玲司は答えようとしたが、口を開くと車で殴られた頬が痛んだ。唇の内側へ舌を当て、血の混じった唾を飲み込む。


「仕事の話、聞きたいんだって?」


伊織は背もたれへ体を預けた。宮下は入口のそばに立ち、玲司を連れてきた男たちも部屋から出ようとしない。肩越しにそちらを見たところで、伊織がもう一度声をかけてきた。


「何。違うの?」


「……宮下さんに、話があって」


「だから、何の話」


レナをもう誘うな。それだけ言えればいいと思って来た。だが、ここで同じことを言って、帰してもらえるのか。玲司が宮下へ顔を向けると、男は顎で伊織の方を示した。


「こっちに言ってよ」


伊織の声に、玲司は向き直った。


「レナを、もう仕事に誘わないでほしいんです」


伊織は少し黙ってから、宮下を見た。


「昨日、途中で帰った子?」


「そう。こいつらが連れてった」


宮下が答えると、伊織は玲司へ目を戻した。


「あの子、自分で来たんでしょ。お前に何の関係があるの」


「友達なんです。ああいうことには、もう関わってほしくない」


「本人に言えばいいじゃん」


言っても聞かないから、ここまで来た。玲司は膝の上に置いた手を握り、伊織の顔を見た。怒鳴られたわけでもないのに、次の言葉を口に出すまでに時間がかかった。


「また誘われたら、行くかもしれないから」


「じゃあ、やりたいんじゃん」


宮下が入口の方で笑った。


「レナちゃん、昨日のお金が入らないって、ずっと怒ってたよ。あれだけ嫌がってるのに連れてく方が、どうかと思うけどね」


玲司は振り向きかけたが、レナの怒った顔を思い出して止まった。連れ出されるのを嫌がっていたことも、金がもらえないと葵へ送ってきたことも、知っている。


「それでも、あのまま行かせるわけにいかなかったんだよ」


声が強くなった。すぐ後ろで男が動き、玲司は思わず肩を縮めた。


伊織は笑わずにこちらを見ていた。


「お前らさ、何を探ってんの」


「探ってるとかじゃなくて、レナを――」


「この前も来たよね。荷物どこに持ってくのかって。昨日も邪魔して、今日は仕事の話って嘘ついて」


玲司は口を閉じた。伊織と宮下がどうつながっているのか、聞き出せればと思っていた。今は、その話に触れることさえ怖かった。


「誰かに頼まれたの?」


「違う。俺が、自分で来たんです」


「だったら、もう来ないでくれる?」


伊織は前へ身を乗り出し、両肘を膝に載せた。玲司との距離が少し縮まり、反射的に引いた足が床を擦った。


「こっちはお前らに用ないんだよ。あの女にも、ちゃんと言っといて」


「あいつには、何も――」


「次に邪魔したら、お前もあの女も殺すから」


玲司は伊織を見た。男は目をそらさず、返事を待っていた。


葵はまだ、あのカフェにいるのだろうか。電話が切れたから、もう外へ出ているかもしれない。宮下を捜して、また別の男に声をかけていたら。


ここへ来る前には、一人で話をつけられると思っていた。今は葵に、あの店から動くなと伝えることもできない。


「……分かった」


伊織が聞き返すように顎を上げたので、玲司はもう一度言った。


「分かった。もう関わらない。あいつにも言う」


「うん」


伊織が頷いた。その顔を見て、玲司はようやく息を吐いた。レナを誘わないでほしいという話は、何も決まっていない。それでも、もう一度頼むことはできなかった。


「だから、帰してくれ」


声に出した途端、早く立ちたくなった。背後の男たちがどいてくれれば、ドアまでは数歩だった。玲司は片手を床につき、足を立てようとした。


伊織がソファから腰を上げた。


「そんなすぐ帰んなくてもいいじゃん」


顔を上げた玲司の目の前に、伊織が立った。何か答えようとしたとき、伊織が拳を振るった。


頬を殴られ、床についた手が滑った。玲司は肘から崩れ、口の中にたまった血を吐き出した。起き上がるより先に、背中を蹴られた。


「待っ……帰してくれって」


後ろの男が、もう一度蹴ってきた。体を起こせず、玲司は両腕で頭を覆った。靴の先が脇腹へ入り、声の代わりに息が漏れる。身を縮めて逃れようとすると、反対側からも足が出た。


「やめろ!」


叫んでも、男たちは離れなかった。玲司が顔を上げかけると、襟元をつかまれた。引き起こされたところで腹を殴られ、襟元をつかんでいた手も離れた。


床に倒れた拍子に、ソファが見えた。伊織はもうそこへ戻っていた。片腕を背もたれに載せ、玲司の周りに立つ男たちへ、何か話しかけている。


言葉は聞き取れなかった。すぐ近くで笑い声がして、玲司はそちらを見ようとしたが、近づいてきた靴を見て目を閉じた。


「もうしない。しないから……」


自分が何をしないと言っているのか、途中で分からなくなった。ここへ来たことか、レナを連れて帰ったことか。男の足が少し離れるたび、今度こそ終わったと思った。だが、体を伸ばそうとすると、また殴られた。


玲司は頭を抱えたまま膝を寄せた。上着が背中の方へ引っ張られ、裾がめくれても直せなかった。冷たい床に頬を押しつけていると、口から漏れた唾が肌へ触れた。


「……やめてくれ」


誰に向けて言えばいいのかも分からなかった。自分のそばにいる男に頼み、顔を上げられないまま、同じ言葉を繰り返した。


「そのへんにしといて」


伊織の声が聞こえても、玲司は腕を下ろせなかった。


男たちの靴が離れ、ようやく体に何も当たらなくなった。玲司は少しずつ息を吸おうとしたが、胸の奥が痛み、途中で咳き込んだ。口元を拭こうとしても、腕が重くてうまく動かない。


そばで誰かがしゃがんだ。また殴られると思い、玲司は腕を顔へ戻した。


「もう殴んないって」


伊織だった。玲司が指の隙間から見ると、男は自分の上着から小さな袋を出していた。そこから取り出した錠剤を、隣の男へ渡す。


灰色が見えて、玲司は顔を背けた。


「これ、飲んどいて」


嫌だと言おうとして、声が出なかった。男たちに体を起こされ、腕を押さえられる。閉じた口も無理に開かされ、錠剤を押し込まれた。逃れようと頭を振ったが、男はペットボトルの水を口へ流し込んできた。


むせて咳き込むと、口から水がこぼれた。顎を伝って服へ染み込むのが分かった。錠剤を吐き出そうとしたが、もう舌には触れない。喉を通ってしまったのだと気づき、玲司は男の手から逃れようと肩を動かした。


「やめ……何、飲ませたんだよ」


伊織は玲司の顔をのぞき込んだ。


「ギア。知ってるでしょ」


肩を押さえていた手が離れ、玲司は横へ倒れた。肘をつくことも間に合わず、床に体が当たった痛みで目を閉じた。


飲まされた。


そう言おうとしても、咳が先に出た。喉に残った水を吐き出すうちに、伊織の靴が目の前から離れていく。


「お前もギア飲んだからな。警察に行ったら、お前も捕まるぞ」


玲司は顔を上げようとした。自分で飲んだわけじゃない。お前たちが飲ませたんだろう。言い返したかったが、声にはならなかった。


宮下が上着から玲司のスマートフォンを取り出し、伊織へ渡した。伊織は電源を入れると、しばらく画面を見てから電話をかけた。


「あ、救急です。男が一人、けがして動けなくなってて」


伊織はソファのそばに立ち、受け取ったスマートフォンを耳へ当てていた。場所を聞かれたのか、どこかの住所を答えている。玲司は聞き取ろうとしたが、途中から分からなくなった。


「はい。意識はあります。お願いします」


通話が終わると、伊織は電源を落として宮下へ戻した。宮下がかがみ、玲司のそばへスマートフォンを置いた。


「ほら、返すよ」


黒い画面が見えた。玲司が手を伸ばすより先に、別の男が財布をその横へ落とした。二つともすぐそばにあるのに、どちらを拾うこともできなかった。


「じゃあ、行こうか」


伊織が声をかけると、男たちが入口へ向かった。玲司は身を縮めたまま、目の前を通り過ぎる靴を見ていた。


「救急車、来るから。待ってて」


伊織が言った。


玲司は口を動かしたが、男は返事を待たずに部屋を出ていった。


作業場の方で話し声がした。ドアの開く音が続き、やがて車のエンジンがかかった。音が遠ざかっても、玲司はしばらく床から顔を上げられなかった。


体のどこが痛いのか、一つずつ確かめる気にはなれなかった。寒いのに顔だけが熱く、目を閉じると、まだ男たちがそばにいるような気がした。


スマートフォンへ手を伸ばした。指先が端に触れたが、つかもうとしても床の上を少し滑っただけだった。玲司は肘で体を支えようとし、胸の痛みに耐えられず、また頬を床へ戻した。


葵に、連絡しなければ。


待っていると言っていた。無事かどうかも分からないまま、何度も電話をかけているかもしれない。ここにいると伝えたいのに、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。


伊織を前にして、もう関わらないと言った。レナを誘うなと頼みに来たはずが、途中からは帰してくれとしか言えなかった。


思い出すと、泣きたいほど悔しかった。だが、目を閉じても涙は出ず、喉の奥で息が引っかかるだけだった。


玲司はもう一度、スマートフォンへ手を伸ばそうとした。指を動かしたところで力が抜け、床についた手をそのままにした。


誰もいない入口を見て、車の音が戻ってこないことを願った。目を開けていようとしても瞼が下がり、そばにあるスマートフォンも見えなくなった。


葵の名前を呼ぼうとしたが、口からは息しか漏れなかった。頬に触れる床の冷たさも分からなくなり、玲司はそのまま意識を失った。


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