第58話 見覚えのある男
宮下は、黒瀬と名乗る男から届いた文を読んで、レナへ電話をかけた。
昨夜、ミオが連絡先を知りたがっていると聞いていた。教えていいと答えたのは自分だが、仕事を紹介してほしいという男が出てくるとは思わなかった。
「今、男から連絡来たんだけど。黒瀬って知ってる?」
『名前は知らない。昨日、ミオと一緒にいた人じゃないの』
声を聞いた途端、宮下はあの男の顔を思い出した。こちらが胸に手を当てて止めても、男は睨み返して押し通っていった。レナの腕を引き、ミオと一緒に連れ出した男だ。
「そいつ、仕事の話を聞きたいって」
『はあ? 何それ。自分がやるのはいいんだ』
「本当にやりたいわけじゃないだろ。ミオちゃん、ほかに何か言ってなかった?」
『タクヤさんに話があるって。どうせ、もう私を誘うなとかでしょ。昨日からずっとそれだし』
レナは笑わなかった。宮下も合わせて笑わず、少し待っていてと言って電話を切った。
伊織とのやり取りを開き、昨日の新宿で邪魔をした男から、仕事について聞きたいと連絡が来たことを伝えた。仕事を受ける気はなく、こちらのことを探っているのかもしれないとも付け加える。
返事は短かった。
『連れてきて。俺が話す』
宮下はその文を読み直した。自分だけで会って、昨日の続きをする気はなかった。伊織が相手をするなら、少なくとも面倒をこちらへ残されずに済む。
待ち合わせを決める前に、もう一度レナへ電話した。
「そいつ、呼ぶことになった。伊織が直接話すって」
『いいよ。もう邪魔しないでって、ちゃんと言って』
「ミオちゃんに話すなよ」
『言わない。私がタクヤさんに話したことも、言わないでね』
「分かってる」
宮下は電話を切り、黒瀬への返信を書いた。午後五時なら、まだ時間があった。
*
玲司がカフェの椅子から立つと、葵は飲みかけのコーヒーを置いた。
スマートフォンの地図には、二人がいる店の位置が出ていた。通話もつないである。葵がイヤホンを片耳へ入れたのを見て、玲司は自分の端末を上着の内ポケットへしまった。
「何か言って」
「もう行くぞ」
葵はイヤホンを指で押さえ、頷いた。すぐ目の前にいる相手に電話越しで聞かれていると思うと、どうにも落ち着かなかった。玲司が出口へ向きかけると、葵に呼び止められた。
「ここで待ってるから」
「分かってる」
返事をしてから、玲司はもう一度葵を見た。葵はコーヒーには手を戻さず、端末を持ったままこちらを見ていた。
外へ出ると、店の冷房に慣れた腕へ夕方の空気が触れた。角を曲がれば待ち合わせのコンビニだった。道の向こうを歩いている人も、信号の音も、来たときと変わらない。玲司は内ポケットへ触れそうになった手を下ろし、歩道の先へ目を向けた。
宮下は店の前にいた。白いシャツの上に黒い上着を着て、玲司の顔を見ると、片手を上げた。
「黒瀬君?」
「はい」
「昨日はどうも」
玲司は足を止めた。宮下は笑っているが、昨日のことを忘れていないのは分かった。こちらから話を切り出そうとすると、先に男が車道の方を指した。
「車あるから。乗って」
黒いレクサスのセダンが、少し先に停まっていた。宮下がそちらへ歩き出したので、玲司も数歩ついていき、開いた後部座席のドアを見て止まった。ドアのそばに一人、車内の奥にも一人、知らない男がいる。運転席の男はこちらを見ず、前を向いていた。
「車で行くんですか。ここで話せませんか」
「ここじゃ落ち着かないでしょ」
「いや、そんな長い話じゃないんで」
宮下が戻ってきた。歩道にはコンビニから出てきた客もいたが、男は気にせず玲司のそばへ立った。
「仕事の話、聞きたいんじゃなかったの」
玲司は車内の男を見た。相手は膝に置いていた手をどけ、隣の座席を示す。座るよう勧められているだけなのに、礼を言って断れる感じがしなかった。
「宮下さんに、話が――」
「だったら乗れよ」
宮下の笑顔が消えた。玲司が一歩下がろうとすると、ドアのそばにいた男に腕をつかまれた。
「待って。俺、移動するとは――」
背中を押され、声が途中で途切れた。低い屋根に頭をぶつけそうになり、身をかがめたところを車内へ押し込まれる。奥に座っていた男へ体がぶつかり、謝るより先に肩を押し返された。
後ろからもう一人が乗り、ドアを閉めた。玲司は二人の間で身を起こしたが、両側の肩が触れている。宮下も助手席へ乗り込んでいた。
「どこに行くんですか」
前へ身を乗り出そうとした玲司を、隣の男が座席へ戻した。宮下は運転する男へ短く声をかけただけで、質問には答えなかった。
窓の外で、コンビニの看板が後ろへ流れていく。ついさっき通ってきた角が遠ざかり、玲司は思わずそちらを見た。
葵は聞いているだろうか。車と言った。ここで話したいとも言った。電話がつながっていれば、今のやり取りも聞こえたはずだった。
「ポケット、何入ってんの」
隣の男の手が、上着へ触れた。
「携帯と、財布だけです」
玲司が答えても、男は手を引かなかった。体をよじると、反対側の男につかまれる。上着を探られ、財布とスマートフォンを取り上げられたあとも、ほかに何か持っていないかと服の上から確かめられた。
「おい、これ」
男がスマートフォンを宮下へ渡した。助手席で画面を見た宮下が、ゆっくりこちらへ振り向いた。
「これ、誰と通話してたの?」
画面を向けられた。通話時間の表示が、まだ動いていた。
「友達です。別に――」
宮下の指が画面へ触れ、通話が終わった。玲司は手を伸ばしかけたが、隣から肩をつかまれ、前へ届かなかった。宮下はスマートフォンの電源を落とすと、自分の上着へしまった。
「返してください」
「何しに来たんだよ、お前」
横から言われ、振り向いたところへ拳が来た。
頬を殴られ、頭が反対側の男の肩へぶつかった。口の中を噛んだらしく、舌へ血の味が広がった。何か言おうとしても顎がうまく動かず、玲司は膝の上へ手を落とした。
その頭へ、布の袋がかぶせられた。
顔に触れた布を払おうとすると、腕を押さえられた。暗がりの中で吸った息が、自分の頬へ戻ってくる。車内にはまだ男たちがいるはずなのに、誰がどこを見ているのかも分からなくなった。
「動くなって」
すぐ耳元で言われた。玲司は唾を飲み込み、腫れ始めた唇を閉じた。葵にもう一言だけ伝えたかったが、電話は宮下の上着の中だった。
*
葵がカフェを出て、コンビニへ向かっている途中で、通話が切れた。
車で行くという声を聞いて、コーヒーを残したまま席を立った。鞄を右肩へ掛け、外へ出るあいだにも、どこに行くのかと尋ねる玲司の声が聞こえていた。その問いに答えないまま、宮下が言ったのだ。
誰と通話していたのか。
玲司が友達だと答えたあと、何も聞こえなくなった。
葵は走りながらかけ直したが、電話はつながらなかった。角を曲がった先にあるコンビニの前にも、玲司の姿はない。入口から出てきた客を避け、車道を見渡したが、車はいくつも通り過ぎていくだけだった。
もう一度かけた。端末を耳へ押しつけて待ちながら、停まっている車の窓を見て歩く。どこにも宮下らしい男は見えない。左肩が走った拍子から痛み続けていたが、それを押さえるために電話を下ろす気にはなれなかった。
地図を開くと、玲司の位置は大通りの途中で止まっていた。その場所へ目を向けても、いるはずの車が分からない。画面を見直したところで、位置を知らせた時刻が更新されていないことに気づいた。
「何で……」
葵は歩道の端で足を止めた。玲司が電話を持っていれば、何か返してくる。話している途中に切られたのだ。何度かけ直しても、玲司には届かないのかもしれなかった。
葵は110と押そうとして、一度違う数字に触れた。打ち直して電話をかけ、相手が出ると、息を整えないまま話し始めた。
「友達が、車で連れていかれたかもしれないんです。電話で、ずっと話を聞いてたんですけど、途中で切られて」
場所を聞かれ、コンビニの店名と、目の前の交差点の名前を伝えた。玲司の名前を言い、宮下という男に会いに来たことを説明する。車の色も番号も見ていない。声だけ聞いていたのだと答えると、自分が何も見ていなかったことが急に恐ろしくなった。
聞かれたことに答え、通話を終えると、今度は久世へかけた。
「葵か」
声を聞いた途端、喉が詰まった。何から話すか決めていなかったせいで、出てきたのは玲司の名前だけだった。
「黒瀬がどうした」
「連れていかれた。宮下って男に会ってて、車に乗せられて……電話、取り上げられたと思う」
「警察には連絡したか」
「今、した。110番に。私、近くにいたのに」
久世は現在地を確かめ、宮下とは誰なのかと聞いた。
「レナに仕事を紹介してる人。相沢レナっていう、私の友達。高額バイトに応募してて」
葵は通り過ぎる人たちの顔を見ながら、端末を握り直した。
「レナが行くかもしれないから、もう誘わないでって、玲司が宮下に言いに行ったの」
「黒瀬は、その宮下と一人で会ったんだな」
「うん。私は近くのカフェで、電話つないで聞いてた。車で行くなんて、思ってなかったから」
久世は少し黙ったあと、連絡先や待ち合わせについてのやり取りを送るよう言った。近くの捜査員にも連絡するから、そこで待てと続ける。
「私、捜さないと」
「行き先が分かるのか」
葵は大通りを見た。信号が変わり、停まっていた車が動き始める。その中に玲司がいないと言い切ることさえできなかった。
「……分かんない」
「一人で動くな。電話には出られるようにしておけ」
「早く見つけて。お願い」
久世の返事を聞きながら、葵はコンビニの壁へ背を寄せた。膝が震えていることに、そのとき初めて気づいた。
通話を終え、言われたものを送ったあとでレナにも連絡した。宮下の居場所を知らないかと書いて送ったが、返事はなかった。電話にも出ない。葵は画面を閉じられず、少し待ってから、もう一度玲司へかけた。
*
車が止まってからも、玲司は顔を上げられなかった。
さっきまで道路の継ぎ目を拾っていた揺れがなくなり、外でドアの開く音がした。隣から腕を引かれ、座席の上を移動させられる。どこまで頭を下げれば車から出られるのか分からず、額が硬い縁へ当たった。
「足、出せ」
地面へ下ろした靴の下で、小石が鳴った。立とうとしても体がうまく伸びず、両脇から引かれるまま歩いた。途中で足先が段差に引っかかり、転びかけたところを上着ごと引き上げられた。
もうコンビニの近くではない。車に乗っていた時間は長く感じたが、どれくらい離れたのかも分からなかった。布越しに油のような臭いがして、人の声が壁に響いた。
「連れてきた」
宮下の声だった。
腕を放され、玲司は床へ膝をついた。顔の袋を引き抜かれると、蛍光灯の明かりが眩しく、しばらく目を開けられなかった。
古い机が壁際へ寄せられていた。端の剥がれた車検の案内の下に、空の棚が並んでいる。窓の向こうには薄暗い作業場が見えた。整備工場の事務所らしかった。
その奥のソファに、若い男が座っていた。
男はスマートフォンを脇へ置き、床にいる玲司へ顔を向けた。額へかかった髪を払い、少し身を乗り出す。その顔を見た途端、御徒町の駐車場で葵が殴られたときの音が頭によみがえった。
伊織だった。
宮下に、レナをもう誘うなと言うつもりだった。ここへ来るまで、何度もその言葉を考えていたのに、玲司は口を開けなかった。
「ああ、あのときの」
伊織は玲司の顔を見て、笑った。




