第57話 仕事を探してる
「ほかって、伊織のこと?」
葵は、机へ寄った玲司を見た。低くしたテレビの音より、廊下を歩く足音の方がよく聞こえた。玲司はその音が遠ざかってから、首を振った。
「そっちも気になるけど。宮下、レナに次も来いとか言ってなかったか」
「そこまでは知らない。私に来てるのは、さっき見せた分だけ」
葵が机の上のスマートフォンへ目を落とす。玲司も、その黒くなった画面を見た。レナは報酬をもらえなかったことに腹を立てている。埋め合わせのできる仕事だと言われれば、また行くかもしれない。
「あいつに言っても、もう聞かねえだろ。だったら、誘う方にやめてもらうしかない」
「あの宮下に言うの?」
「レナをもう呼ぶなって。それくらいは言っときたい」
葵は膝の上着を見下ろした。左の袖が裏返り、肘のあたりには白く擦れた跡がついている。右手で直しかけたが、途中でやめて机の端へ置いた。
「言ったら、やめるかな」
「分かんねえよ。でも、また誘われるまで待つのも嫌だろ」
答えの代わりに、葵はスマートフォンを手に取った。宮下とは直接やり取りしていないので、連絡先を聞くならレナになる。
玲司が画面を覗くと、葵は少し体を引いた。
「今、書いてるから」
「……分かった」
椅子を戻すと、まだ手をつけていない弁当が目に入った。玲司は箸を取り、冷めた飯を口へ入れた。向かいでは葵が何度か文字を消し、ようやく送信したあとも、そのまま端末を見続けていた。
*
翌日、レナから返事が来たのは昼を過ぎてからだった。
葵はソファで読んでいたが、途中で顔を上げ、机にいた玲司を呼んだ。差し出された画面には、宮下の連絡先と一緒に短い文が並んでいた。
『言いたいことあるなら、タクヤさんに直接言って。私に言われても困るから』
『昨日の人も一緒なの? もう二人で来ないでよ』
玲司は葵へスマートフォンを返した。自分の顔を見ても、レナには昨日腕を引っ張った男という認識しかないのだろう。無理に連れて帰ったのだから、そう思われても仕方がない。だが、あのままバイクに乗せておけばよかったとは思えなかった。
「連絡先、俺に送って」
「私から言うよ」
「お前が言ったら、昨日の続きになるだろ。先に俺が話す」
葵の親指が画面の上で止まった。
「玲司が言えば聞いてくれるの?」
「そういう話じゃねえよ」
自分でも返事が早すぎたと思った。葵は端末を下げずにこちらを見ている。玲司は机の椅子へ座り直し、少し間を置いてから続けた。
「レナをやめさせたいって送っても、返事来ねえかもしれないだろ。仕事の話を聞きたいって言って、会えないか聞いてみる」
「会いに行くつもりなの?」
「電話だけで終わらせたくない。あの男、昨日も『あとで』って言ってたじゃねえか」
店の脇で、宮下はレナのそばに立っていた。帰ると言う葵の話を聞こうともせず、まず手を放せと言っていた。あとで話すと言われても、そのあとを任せられる相手ではなかった。
「レナにはもう声をかけないって、本人に言わせたい。ついでに、伊織を知ってるかも聞ければいい」
葵は返事をせず、ソファの背へ体を預けた。すぐに左肩を浮かせ、座る位置を直す。その動きを見た玲司は、昨日より痛むのかと聞きかけたが、先に葵が口を開いた。
「久世さんには?」
「……レナの話もすることになるぞ」
葵の目がこちらへ戻った。
「仕事を紹介するのをやめさせてくれって頼んで、何の仕事か聞かれないと思うか。昨日、あいつが何してたかまで話さなきゃならない」
受け取った袋を抱えたまま、レナは逃げることを嫌がっていた。運ばされそうになったとだけ説明しても、宮下やほかの参加者から話を聞かれれば、違うと言われるだろう。
葵は画面に指を触れたものの、何も打たなかった。
「レナに事情を聞くってなるよね」
「なるだろ」
「……うん」
短く答えた葵が、宮下の連絡先を送ってきた。玲司の端末が机で震える。その音を聞いた途端、話しているだけだったときより、宮下に会うことが近く感じられた。
真壁に会う前も連絡しろ、と久世には言われている。今回は、言われたことを忘れているわけではなかった。
玲司は受け取った連絡先を開き、少し考えてから文を打った。
『レナから連絡先を教えてもらいました。黒瀬です。仕事の話を聞きたいんですけど、会って話せませんか』
画面を一度読み直してから送信すると、ソファにいた葵が言った。
「会ったら、昨日の人だって分かるよ」
「分かってる。別人のふりするつもりはねえよ」
「昨日のこと、何て言うの」
「言われたら話す。最初からレナのことで文句言うつもりだって分かったら、会ってくれねえだろ」
宮下が自分の胸へ当てた手を思い出した。すぐ目の前で、誰なんだと聞かれた。あれだけ近くで顔を合わせていて、覚えていない方へ賭ける気にはなれなかった。
返信はまだなかった。玲司が端末を机へ置くと、葵がソファから立ち上がった。
「私も行くから」
「お前は来るな」
「何で」
「その肩で、また何かあったらどうすんだよ」
葵は左腕を見ず、玲司の前まで来た。
「何かあるかもしれないところに、一人で行くんでしょ。私にはあれだけ言ってたのに」
「俺は殴り合いしに行くんじゃねえよ」
「私だって、殴られに行ったわけじゃない!」
玲司は口を閉じた。葵は机へ右手をつき、こちらを見下ろしている。昨日、レナを引き止めようとして伸ばした腕を、男につかまれていた。そのあと壁へぶつけられるところまで、玲司は見ていた。
「向こうが何するかなんて、分かんないじゃん。玲司なら平気なの?」
葵の声がまだ大きかったので、玲司は窓の方へ目をやった。閉まっているのを確かめてから葵へ戻すと、相手は顔をしかめた。
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「だったら、こっち見てよ」
玲司は椅子の背から体を起こした。葵の言うことは分かる。分かるが、だから二人で行こうと言ってしまえば、結局また、怪我をした葵を連れていくことになる。
「二人で行って、レナを誘うなって言うんだぞ。昨日邪魔した奴らが揃って来たら、最初から喧嘩になるかもしれねえだろ」
「一人ならならないの?」
答えに詰まると、葵は机から手を離した。鞄を取りに行くのかと思ったが、ソファの前で足を止め、こちらを振り返る。
「話だけで終わると思ってるなら、私がいてもいいでしょ」
言い返したかった。だが、昨日の葵へ自分が言ったことを思い出すほど、今度は自分に返ってきた。玲司は机の端にあった煙草へ手を伸ばしかけ、葵が見ているのに気づいてやめた。
「……近くで待ってるのは」
「それじゃ、何話してるか分かんない」
「電話つないどく。真壁と会ったときみたいに」
葵は少し黙り、机のスマートフォンへ目を向けた。
あのときも、玲司が一人で相手に会い、葵が近くのコーヒーショップで聞いていた。声が聞こえているだけでも、何も知らずに帰りを待つよりはいい。玲司自身、あの場に葵がいたらと思うより、どこかで会話を聞いていることに助けられていた。
「場所も送る。ずっと分かるようにしとくから」
「遠いところでは待たないよ」
「分かってる。すぐ近くでいい」
葵はソファへ腰を下ろし、隣に置いていた鞄を膝へ載せた。右手で持ち手をつかみ、しばらく玲司を見ていた。
「仕事、やるって約束しないでよ」
「しねえよ」
「その場で断れなくなっても、行かないで」
玲司は頷いた。昨日、レナは金をもらうつもりだった。自分には、そのつもりがない。話がおかしくなれば切り上げて帰ればいいと考えたが、葵へ言うと、また同じことを聞かれる気がした。
黙って端末へ手を伸ばしたところで、宮下から返信が届いた。
『レナの友達?』
玲司はそうだと返し、葵を呼んだ。鞄を置いてそばへ来た葵に見せるため、端末を机の上へ置く。
『今日なら出勤前に少し時間あるよ』
続いて、午後五時という時刻と、新宿にあるコンビニの場所が送られてきた。大通り沿いで、玲司も前を通ったことがある店だった。
「今日、会えるって」
葵は地図を拡大した。指で少しずらすと、角を一つ曲がった先にカフェがあった。
「私、ここにいる。終わったら来て」
玲司は画面の店を見てから、時刻を確かめた。まだ三時間ほどある。宮下の仕事が始まる前なら、長く引き止められることもないだろう。そう思ってから、相手の都合を自分にいいように受け取っていることには気づいた。
「変だと思ったら、久世さんに電話するからね」
葵が言った。玲司が顔を上げると、相手は端末から目を離さずに続けた。
「レナのこと聞かれても、もう知らないから」
「……ああ。それでいい」
葵が指を離したので、玲司は端末を手元へ戻した。返信欄へ『五時に行きます』と打ってから、もう一度、宮下の指定した場所を思い浮かべる。街を歩いていれば、誰でも立ち寄るような店だった。
葵はまだこちらを見ていた。玲司はその前で、送信した。
すぐに、宮下から次の文が届いた。
『じゃあ、待ってるね』




