第56話 成功した夜
「もう一回、池袋やんないかな」
伊織はホテルのベッドに腰掛け、リモコンを隣へ放った。テレビには新宿の貴金属店が映っている。黄色い規制線の向こうで警察官が動き、店の前に残ったガラスをカメラが大きく映した。
窓際の椅子に座る柴崎亮吾は、顔を上げなかった。さっきからスマートフォンが鳴るたびに返事を打ち、ときどき電話を耳へ当てている。
「お前が見てない間に二回流れた」
「呼んでよ。俺、そこにいたのに」
「知ってるよ」
柴崎はスマートフォンを机に伏せ、缶コーヒーを飲んだ。伊織より年上のこの男は、こちらの機嫌がよくても、合わせて笑おうとはしない。各地の連中と連絡を取り、揉めた話もそのまま持ってくる。
伊織は右手を握った。指の節が少し痛むが、腫れるほどではない。池袋の店員は最初、伊織たちを追い出そうとしていた。一度殴って床へ倒すと、それきり立ってこなかった。ほかの店員も、陳列ケースを割られている間、奥で声を上げるだけだった。
自分が一歩進むだけで、人が逃げて道が空く。
思い出していると口元が緩んだ。隣で同じように笑っていた仲間の顔まで浮かび、伊織はもう一度テレビへ目を向けた。
画面が都内の地図へ切り替わった。新宿、池袋、上野・御徒町、中野、秋葉原、錦糸町。赤い印が増えるたび、伊織は足先で床を叩いた。
「ほら、全部出てる」
「見えてる」
「六か所だよ。俺が池袋にいる間、ほかでもみんなやってたんだな」
知ってはいた。集めた人数も、行かせる場所も、自分で聞いて決めた。それでも、テレビに並べられると笑いが止まらなかった。自分が行ったこともない店で、今日、自分の仲間がガラスを割り、人を追い払っていた。
伊織のスマートフォンにも連絡が入った。宮下からだった。新宿では受け取り役の女たちと揉めたが、品物は持ち出したという。
伊織は途中まで読んで、返信欄を開いた。
『荷物あるならいいよ。お疲れ』
送ってから端末をベッドへ置くと、柴崎がこちらを見ていた。
「秋葉原で一人捕まったぞ」
「え、あそこ取れたんでしょ」
「物はな。一人だけ逃げ遅れた」
柴崎は缶を置いた。伊織がテレビへ向きかけると、そのまま話を続ける。
「そいつが誰と会って、何を聞いてるか、今確かめてる。警察で黙ってるとは思うなよ」
「分かったって」
「分かってる顔じゃねえんだよ。次はもっと人数を集めりゃいいと思ってるだろ」
伊織は笑うのをやめた。柴崎は目を逸らさなかった。
「一人捕まったら、今日やったこと全部失敗になるの?」
「誰がそんな話した。俺まで引っ張られたくねえんだよ」
部屋には、テレビから流れる通行人の声が響いた。怖かった、子供を連れていたから、と女が話している。伊織はしばらく柴崎を見ていたが、やがてベッドに両手をついて笑った。
「じゃあ、まず乾杯しよ。まだ何にもしてないじゃん」
「それで済ませんなよ」
「済ませないって。今日は稼いだんだから、先にそっち」
伊織が冷蔵庫を指すと、柴崎は椅子を引いて立った。開けた扉の陰から二本の缶を取り出し、一本を伊織へ投げる。伊織は両手で受け止め、まだ熱を持っている右手の指の節へ当てた。
「で、いくらになりそう?」
柴崎が口にした見込みの額を聞いて、伊織は眉を上げた。柴崎もようやく笑い、缶の蓋を開ける。
「全部その値で売れたらな。まだ使うなよ」
「みんなの分は、ちゃんと払ってやってよ。今日中に」
「もう渡し始めてる。お前がテレビ見てる間にな」
「さすが」
伊織も蓋を開け、缶を持ち上げた。柴崎がそれへ軽く自分の缶を当てる。飲み込んだ冷たい酒が喉を通ると、ようやく一日が終わった気がした。
飲みながらも、次の話がしたくなっていた。さっきまで殴った手の感触を思い返していたのに、今は地図に並んだ六つの印の方が頭に残っている。
「次、今日来なかった奴も来たいって言うだろうな」
柴崎はすぐには答えず、机で震えるスマートフォンを取った。画面を読んで、鼻で笑う。
「もう言ってるよ」
伊織は声を出して笑った。
*
久世が小会議室へ入ると、机の上には現場の写真が並べられていた。どの店にも似たようなガラスの破片が散っているが、倒れた人間も、奪われた品物も違う。
「御徒町の男の話、聞かせてもらえますか」
向かいにいた鷲尾修一が、空いた椅子を示した。警視庁の匿名・流動型犯罪グループ対策本部に置かれた、匿流ターゲット取締りチーム。通称T3に所属し、今回の襲撃グループを追っている男だった。隣には同じチームの片桐航が座っている。
久世は腰を下ろし、持ってきた資料を鷲尾へ渡した。
「呼び名は伊織。御徒町の事件で目撃されている。薬なら自分が用意できると言って、目撃者を仲間に誘ったそうだ」
「自分でも店に入ってるんですね」
「そうだ。今日も参加していたかは、まだ分からん」
鷲尾が資料をめくる横で、片桐が手帳を開いた。
「秋葉原で捕まった男は、自分は受け取りに来ただけだと。店に入った人間とは別だと言っています」
「呼んだ相手は」
「そこを聞くと、アプリの指示に従っただけだと繰り返す。報酬の約束は覚えてるのに、誰に言われたかは曖昧なんです」
片桐は手帳に目を落としたまま続けた。
「相手のことを知らないのか、話すのが怖いのか。もう少し聞きます」
鷲尾は六地域の被害を記した紙を、写真の隣へ置いた。
「同じ日のうちに、これだけ人を動かしている。捕まった一人の話だけで終わらせたら、また集められる」
「薬を渡している相手にも届くはずだ」
久世が言うと、鷲尾は渡された資料へ指を置いた。
「この伊織という男が、その両方をやってるなら早い。こちらでも呼び名と顔の特徴を当たります。薬の方で何か出たら、すぐ回してください」
「そっちもな」
片桐の電話が鳴った。短く断って席を立つと、廊下へ出る前から、捕まえた男の名前を口にしていた。
*
中野へ戻ると、葵は上着を脱ぐだけで手間取った。
玲司が買った弁当を机へ置こうとしたところ、葵は脱いだ上着を膝へ載せて座っていた。左腕をかばい、右手でスマートフォンを引き寄せて場所を空ける。電車では平気だと言っていたくせに、今は少し姿勢を変えるだけで顔が歪んだ。
テレビには、新宿の店の前に集まった人たちが映っていた。玲司が昼間いた通りも、画面越しでは狭く見える。葵は横目で一度見ただけで、手元のスマートフォンへ顔を戻した。
「中野でもやってたんだな」
玲司が言っても、返事はなかった。ニュースは池袋の映像へ切り替わり、その間も葵は画面を親指で動かしていた。
「レナから?」
葵は頷き、端末を机へ置いた。
『ほかの人はもうお金もらったって。私だけ途中で帰ったからなしだってさ』
『ミオが連れ出さなきゃ、もらえてたのに』
玲司が読み終えるのを待って、葵は端末を引き寄せた。何か打とうとしていたが、親指を止め、そのまま画面を暗くする。
「誰に聞いたんだ」
「今日いた人。お金もらったって聞いて、宮下にも連絡したんだって」
「まだ連絡取ってんのかよ」
葵は返事をせず、膝の上着へ手を下ろした。玲司が向かいへ座ると、視線だけをこちらへ向ける。
「今日、あそこにいたでしょ。殴られてる店の人も見たでしょ。それで、まだこれなんだよ」
玲司は弁当の蓋へ掛けた指を止めた。
「金のことしか言ってこないの?」
「……うん」
葵は自分の端末を見た。通知は増えていなかった。レナに何か言い返すつもりで待っているのか、それとも別の言葉が届くと思っているのか、玲司には分からなかった。
「あんなに嫌がられると思わなかった」
葵がぽつりと言った。
玲司は店の脇道で、腕を振りほどこうとしていたレナを思い出した。葵が前へ出て男を止めている間も、レナはこちらへ怒鳴っていた。今も玲司の袖には、引っ張られて伸びたところがある。
「でも、あそこに置いて帰れなかったでしょ」
葵が顔を上げた。
「分かってるよ」
「だったら、そう言ってよ。さっきも、何も言わないで」
玲司は葵を見た。あの場で何を言えばよかったのか、今だって分からない。レナの言い分に頷いたわけでも、葵が間違っていたと思ったわけでもなかった。それでも、何も言わずにいた自分まで責められると、腹が立った。
「俺だって一緒に連れ出しただろ。何で俺に言うんだよ」
葵は口を閉じ、すぐに机へ目を落とした。右手でスマートフォンを持ち上げると、もう一度レナからの文面を開く。
玲司は割り箸の袋を破ったが、食べ始める気になれなかった。
レナをあの場から離し、葵もここにいる。あの店でできたことを考えれば、それでよかったはずだった。なのに、レナは今も宮下に連絡し、葵はその返事から目を離せずにいる。
これでやめるとは、とても思えなかった。
「次も誘われたら、あいつ、行くかもしれねえぞ」
葵は否定しなかった。
「そしたら、お前もまた行くのか。その肩で」
「じゃあ、誰が連れて帰るの」
返事はすぐだった。葵自身も、言ってから玲司を見た。玲司は言い返しかけたが、スマートフォンを握る葵の指に力が入っているのが目に入った。
今日、レナは逃げようとさえしていなかった。葵が止めなければ、盗品を抱えてバイクに乗っていた。次も連れ戻すつもりなら、葵はまたあの男たちの前へ出ていく。
机の引き出しには、ギアが一錠しか残っていない。あれを使えば必ず帰れるわけでもないことは、御徒町で伊織と戦う葵を見て知っていた。
玲司は手に持った箸を弁当の脇へ置いた。
宮下は、レナに仕事を紹介するだけの男ではなかった。今日も現場に立ち、あの男たちと話をしていた。そこから先を調べれば、薬を渡している相手にも届くかもしれない。伊織とつながっているのかどうかも、確かめられる。
葵がまたレナについていくのを、待っているわけにはいかなかった。
「なあ。宮下って、ほかに何か話してなかったか」
葵が顔を上げた。玲司はテレビの音量を下げ、椅子を机へ寄せた。




