第55話 連れて帰る
店の前で足を止めていた男が、入口から離れるように後ずさった。
人の間から見えた陳列ケースは、上のガラスが大きく割れていた。白い台の上に破片が積もり、店員らしい男がその脇で片膝をついている。立とうとしてカウンターに手を掛けたところへ、黒い袖の男が拳を振り下ろした。
店員が奥へ倒れ、何かにぶつかる音がした。
「レナ、見たでしょ。今の」
葵が振り向くと、レナはバイクの男に声をかけられていた。返事をしながら一度だけ店を見て、すぐに目を戻す。
「分かったから。ミオ、こっち寄って」
店の入口から、黒い袋を抱えた男が出てきた。茶色い髪の、さっき薬を飲んでいた男だった。マスクが少しずれ、口元が見えている。葵たちを見つけると、袋を片手に持ち直して近づいてきた。
レナはヘルメットをバイクの後部座席へ置き、両手を空けた。
「これ、持って」
渡された袋を、レナが受け取った。重かったのか、胸へ抱え直す。閉じきっていない口から、細い鎖のようなものが垂れていた。
「それ、中入れとけよ」
男に言われ、レナは袋の口へ押し込んだ。葵が名前を呼んでも顔を上げず、そのままバイクへ向かう。
葵は右手を伸ばし、レナの腕をつかんだ。
「乗らないで」
「ちょっと、引っ張んないでよ。落とすじゃん」
レナは袋を左腕に抱え、つかまれた右腕を引いた。葵は放さず、バイクから離そうとする。運転する男が振り返り、通りにいた宮下もこちらへ戻ってきた。
「どうしたの、ミオちゃん」
「レナを連れて帰ります」
言い終えるより先に、レナが葵を見た。
「は? 何言ってんの」
「もうやめて。置いて、そんなの」
「今それ言う? 自分でやるって言ったんじゃん」
宮下が二人の間へ手を出した。
「帰りたいなら、あとで話すから。今は手、放して」
葵は首を振った。あとで、というのがどこなのかも知らない。バイクが走り出せば、レナが嫌だと言っても降ろしてもらえるとは限らなかった。
「帰る。レナも一緒に」
腕を引いたところで、左肩を後ろからつかまれた。
痛みが走り、葵はレナの腕を放した。茶髪の男が上着ごと肩を握り、こちらへ向かせようとしている。葵がその手を払っても、指は外れなかった。
「お前、荷物どこ持ってく気だよ」
「そんなのいらない! 手、放して!」
右手で男の手首をつかみ、体を引いた。だが、男は離すどころか、葵を壁際へ押しつけた。左肩が壁に当たり、息が詰まる。押し返そうとしても、左腕に力を入れられなかった。
「放せって!」
横から玲司が割り込み、男の腕を両手でつかんだ。葵への押さえが緩んだので、体を横へ抜く。男は玲司へ向き直り、胸を突き飛ばした。
玲司はよろめいたが、倒れずに足を止めた。男を睨み返しながらも、もう一度つかみかかろうとはしなかった。
「こっち来い!」
呼ばれても、葵はすぐに動けなかった。レナがまだバイクのそばにいる。宮下に何かを言いながら、袋を抱えたままこちらへ背を向けていた。
肩からずれた鞄を下ろし、葵は内ポケットを開いた。
指先に触れた小さな袋を引き出し、一錠を口へ入れる。飲み込んだあとも、壁にぶつけた肩は痛かった。レナの方を見たが、相手は宮下との話をやめず、こちらを振り向かなかった。
空の袋を鞄へ戻し、葵はファスナーを閉めて壁際へ置いた。
茶髪の男は、玲司に何か言いながら近づいていた。その脇を抜け、葵がレナへ手を伸ばそうとすると、男の腕が行く手を塞ぐ。
今度はつかまれる前に右手で払い、踏み込んで腹へ拳を入れた。
男が息を吐いて体を折った。葵の指の付け根にも、硬い感触が残る。相手は下がりながら腕を振ってきたが、肩が動くのを見て、葵はその外へ避けた。
「レナを連れてって!」
玲司が男の横を回り、レナへ向かった。追おうとした茶髪の男の前へ、葵が立つ。
「どけよ!」
伸びてきた手を避けると、男はそのまま体ごとぶつかってきた。葵は押し流され、壁へ背中を打ちつける。腕を突っ張って離そうとしたが、左肩に力を入れた途端、肘が落ちた。
すぐそばに男の顔があった。赤くなった目が、葵を睨んでいる。
葵は男の上着を右手でつかみ、腹へ膝を入れた。相手が身を引くと、腕の下から抜け、通り側へ回り込む。
「何すんの! 放してよ!」
レナの声がした。
玲司がレナの右腕を引いていた。宮下が正面に立ち塞がり、玲司の胸へ手を当てる。二人の顔は近かった。
「お前、誰なんだよ」
「どけ。そいつを帰らせる」
玲司が手を払い、レナを自分の後ろへ引こうとした。そのとき、店から出てきた別の男が、レナの抱える袋へ手を掛けた。
「それ置いてけ!」
袋が引っ張られ、レナが足をもつれさせた。
「レナ、放せ!」
葵が叫ぶと、レナの左手が袋から離れた。男は奪い返した袋を抱え、バイクへ向かう。レナは空いた手を伸ばしたが、玲司に腕を引かれ、追えなかった。
葵がそちらへ動こうとすると、茶髪の男が再びつかみかかってきた。
今度は右腕を取られた。引き寄せられた勢いで鞄を置いた壁際まで戻され、靴底が舗装を擦る。男は葵の顔を殴ろうと腕を振り上げた。
葵は顔をかばうより先に、相手の腹を蹴った。
手首が放れ、男が後ろへよろめいた。倒れるまではいかなかったが、すぐに戻ってこられず、腹を押さえて葵を睨む。その向こうで、玲司が宮下の横を押し通っていた。
宮下は追おうとして一歩出た。だが、バイクのエンジン音に続いてサイレンが聞こえると、通りの方へ顔を向けた。
「もう行くぞ!」
仲間の声に、茶髪の男も振り返った。
葵は追わず、足元の鞄を拾った。右肩へ掛け直したとき、玲司が振り向き、早く来いと叫んだ。レナはまだその手を振りほどこうとしていたが、葵が近づくと、こちらへ怒鳴った。
「何なの、ほんとに!」
「あとで聞くから、走って!」
葵はレナの背中を押し、玲司と一緒に脇道の奥へ走った。背後でバイクが動き出す音がしたが、振り返らなかった。
*
二つ目の角を曲がったところで、レナが玲司の手を振り払った。
「もう放して!」
玲司が止まり、葵も足を緩めた。店の騒ぎは見えなくなったが、サイレンはまだ聞こえていた。通りの端へ寄ると、レナは乱れた髪を直し、つかまれていた右腕をさすった。
「痛いんだけど」
「止まってたら、連れ戻されるだろ」
玲司の返事に、レナは顔を上げた。
「そもそも誰なの、あんた」
「私の知り合い」
葵が間へ入った。レナは玲司を見てから、葵へ目を戻した。
「呼んでたんだ」
「一人じゃ、何かあったら――」
「私には言わないで?」
葵は口を閉じた。レナは二人を見比べ、笑うように息を吐いた。
「何それ。二人で決めて来てたわけ?」
「レナを連れて帰りたかったの」
「私、帰りたいなんて言ってないじゃん!」
通りを歩いていた人が、こちらを見た。葵は気づいたが、レナから目を外せなかった。肩に掛けた鞄が重く、左腕はさっきより動かしにくかった。それでも、目の前にレナがいて、ちゃんと話せていることに、少し前までは安心しかけていた。
「今日のお金、どうなるの。あそこまでやって、何ももらえないかもしれないんだけど」
葵はレナを見つめた。
「……今、それ?」
「今でしょ。タクヤさんにも、何て言えばいいの。ミオがやるって言うから、私が頼んだんだよ」
「あんなところに残せるわけないじゃん。店の人が殴られてたんだよ」
「だから、それ私がやったの?」
レナは右腕から手を離し、葵へ一歩近づいた。
「私、受け取っただけじゃん。ミオが止めなかったら、そのまま行って終わってたよ。あの人だって、急に持って帰るとか言うから怒ったんでしょ」
つかまれた肩の痛みが、まだ残っていた。葵は鞄の紐を握った。あの男に押さえつけられている間、レナは帰ることよりも、仕事を続けることを考えていたのか。
「私が悪いって言うの」
「邪魔したの、ミオじゃん」
葵は息を吸ったが、言葉が出なかった。レナの顔が、さっきより近い。少し前まで並んで歩いていたのに、今は道を空けろと言われているようだった。
「嫌なら最初から断ればよかったでしょ。一緒にやるって、自分で言ったくせに」
「そう言わなきゃ、会わせてもくれなかったじゃん!」
声を上げると、レナが黙った。
葵も、続けて言おうとした言葉を止めた。レナは何か確かめるようにこちらを見て、それから玲司へ目を向けた。
「……最初から、やる気なかったんだ」
葵は答えられなかった。
レナはもう一度、葵を見た。
「じゃあ、私が一緒にできるように頼んだのも、タクヤさんに会ってもらったのも、全部それに使ったんだ」
「レナがやめてくれないからでしょ!」
レナの眉が上がった。葵は止まれず、その顔へ言葉を重ねた。
「何回言っても、運ぶだけだからって。人が殴られてるの見ても、お金のことばっかり!」
「仕事しに来たんだから、当たり前じゃん!」
「あんなの、仕事じゃない!」
レナが口を閉じた。葵はその顔を睨んだまま、呼吸を整えようとした。少し離れたところで、玲司が来た道を見ていたが、何も言わなかった。
「……ミオがそう思うのは、分かったよ」
レナは葵から一歩離れた。
「でも、私が何するかまで決めないでよ」
「決めてない。危ないからやめてって――」
「嫌だって言っても、引っ張って連れてきたじゃん。これ以上、何て言えばいいの」
葵が伸ばしかけた手を見て、レナは自分の腕を引いた。
さっきまで、何度も向こうから触れてきた手だった。葵は途中で止めた右手を下ろしたが、レナはまだ距離を取ったままだった。
「もう帰る」
「送るよ」
「来ないで」
返事を待たず、レナは通りを歩き出した。葵も一歩出たが、レナが振り返ったので足を止めた。
「今日はもう、ミオといたくない」
レナはそのまま行ってしまった。葵は追えずに立っていたが、やがて見えなくなった背中から目を外し、隣の玲司を見た。
「……放っとけっていうの?」
玲司は口を開きかけたが、すぐには答えなかった。
葵は返事を待たず、レナが去った方へ向き直った。さっきつかんだ腕の温かさが、まだ右手に残っていた。




