第52話 一緒に行く
結びかけた髪を放すと、左肩の痛みが少し引いた。
葵は手首にヘアゴムを戻し、中野の部屋のソファへ座り直した。御徒町で伊織と殴り合ってから、一週間になる。やってきた捜査員に見たことを話し、そのあと肩も診てもらった。大きな怪我ではなかったが、腕を高く上げると、まだ痛む。
《MUSE》にはもう出勤していた。髪も仕事の前には結んでいる。ただ、部屋にいる間まで我慢して結ぶ気にはなれなかった。
机にいた玲司が電話を終え、椅子をこちらへ向けた。
「肩、まだ痛むのか」
「上げなきゃ平気。久世さん、何だって?」
「ああいう襲撃、この何日かは減ってるって。都内全体で」
葵は手首のゴムを指で引いた。あの日から、ニュースに時計店の映像が出るたびに見ていたが、同じ場面が繰り返されることが多かった。
「捕まったの?」
「伊織って奴が捕まったとは聞いてねえよ。お前、顔を見れば分かるって話もしてあるけど」
名前を聞いただけで、頬を切られても笑っていた男の顔が浮かんだ。あの顔なら、しばらく会わなくても分かると思う。
ソファに置いていたスマートフォンが鳴り、葵は手に取った。レナからの電話だった。
「もしもし」
『ミオ、今平気?』
いつもの声に、葵は少し背もたれへ寄りかかった。
御徒町で何度も確かめたメッセージには、その日の夜、ようやく返信が来た。今は家にいるという短い返事と、どうしたの、という言葉。無事だと分かって安心したが、仕事の話を持ち出すと、またファミレスでのようになりそうだった。そのあとは、お互いに当たり障りのないことしか送っていなかった。
「平気。ねえ、先週さ、私がどこにいるか聞いた日、御徒町にはいなかったんだよね」
『いないよ。何で?』
「時計屋の強盗、あったでしょ。あの近くにいたから、レナもいるのかと思って」
『私、あの日は仕事じゃなかったよ。あれ見たの?』
「うん。店の人が投げ飛ばされてた」
向こうでレナが息を吸う音がした。
『怖。ミオは大丈夫だった?』
自分もその男を追いかけ、殴り合った。そこまで話す気にはなれず、葵は大丈夫だと答えた。レナがあそこにいなかったことだけは、何度でも確かめたいくらいだった。
『それで連絡くれたんだ。あの日、ずっとスマホ見てなかったから』
「……返事くらいしてよ。心配したんだから」
『ごめんって。私、そんな毎日やってないよ』
レナは笑い、それから少し声を弾ませた。
『でも、次は結構もらえるかも』
葵は背もたれから体を離した。
「次って、またあの仕事?」
『そう。それで電話したんだけど。ミオ、やっぱりやらない?』
さっきまで緩んでいた指が、スマートフォンを握り直した。玲司がこちらを見ていたが、葵は膝へ目を落とした。
『このところ、次の連絡まで待っててって言われてたんだよね。やっと話が来た。今度は大きいから、人も増やすって』
「大きいって、何するの」
『そこまではまだ。前に一緒だった人たちだけじゃなくて、別のグループも来るんだって。だから運ぶ方も足りないみたい』
「いくつも店に入るってこと?」
『分かんない。人数いるなら、そうなのかもね』
レナは確かめるつもりもないようだった。何日にどこへ行くのかを聞いても、詳しい連絡はこれからだという。今は来られそうな人を集めているところらしかった。
「その中に、伊織って男の人いる?」
『イオリ? 知らない。誰?』
「ギア、用意できるって言ってた人。二十歳くらいの」
『会ったの、その人に』
「ちょっとだけ」
レナは少し考えてから、そういう名前は聞いたことがないと答えた。仕事の連絡をくれるのも別の相手で、伊織という男と直接やり取りしたことはないという。
『誰が薬持ってるとか、私、知らないよ。必要ないもん』
葵は左肩へ手をやりかけ、途中でやめた。
ギアを飲む連中も、レナには荷物を持ってくる人間でしかない。受け取って運べば終わると思っている。電話の向こうでは、次の仕事に誘う声が、さっき無事を喜んでくれた声のままだった。
「レナは、もう行くって返したの」
『うん。予定が合えば行くって。ミオが来るなら、一緒にできるか聞くけど』
葵は答えられなかった。スマートフォンの向こうでレナが名前を呼び、返事を待った。
『……また怒ってる?』
「怒ってない」
『前もそういう声だったじゃん。嫌なら、断ってくれていいんだよ』
「私のことはいいから、レナも――」
言いかけたところで、向こうが静かになった。
葵は唇を閉じた。前に会ったとき、レナは食べ終えてからも目を合わせてくれなかった。今度また行くなと言えば、次からは誘う電話さえ来なくなるかもしれない。
「……少し考える。あとで返事する」
『ほんと? じゃあ待ってる。無理はしなくていいからね』
電話が切れたあとも、葵はしばらく端末を耳から離せなかった。
*
玲司は仕事の手を止め、葵が話すのを待っていた。
葵は、レナが御徒町の事件には加わっていなかったことから話した。それから次の仕事と、ほかのグループも集めているという話を伝えた。伊織の名前を知らなかったことも言うと、玲司は机の上のスマートフォンへ目を向けた。
「真壁、まだ何も言ってこない?」
葵が聞くと、玲司は首を振った。
真壁は、襲撃する連中を知らないとは言わなかった。伊織の名前を伝えれば何か答えると思っていたのに、あの日から何も聞けていない。葵はソファから立ち、机のそばへ寄った。
「もう一回、送ってみてよ。連中がまた人を集めてるって」
玲司はすぐには端末を取らなかった。だが、やがて手に持つと、久世へ真壁に再度連絡すると伝え、それから匿名アプリを開いた。
葵は隣から画面を見た。御徒町のあと、久世に知らせたうえで玲司が送ったメッセージが並んでいた。犯人の一人が伊織と呼ばれていたこと、ギアを用意できると言っていたこと。どれにも、真壁からの返信はなかった。
今日送った文も、その下に増えただけだった。
葵は相手の表示名を見た。御徒町では、肝心なことには答えずに、向こうが歩き出した。それでも、連絡すればまた会えるとは思っていた。
玲司がスマートフォンを机へ置いた。
「久世さんに、さっきの話をしよう」
「レナの話でしょ」
「ほかにも人を集めてるって話だよ。一人や二人のことじゃねえんだろ」
玲司は椅子から立った。葵はその前にいたが、道を空ける気になれなかった。
「誰から聞いたって言うの。レナが何やってたかも話すんでしょ」
「そこを隠したままじゃ、いつまでたっても何も頼めねえよ」
葵は手元のスマートフォンを握った。画面は暗くなっていた。
「私も一緒に行く」
玲司は一瞬黙り、それから葵を見た。
「何に」
「受け取る仕事。レナと一緒に入れてもらう。そうすれば、どこにいるか分かるから」
「お前までやってどうすんだよ」
「やるふりだけ。荷物を受け取る前に、レナを連れて帰る」
言葉にすると、さっき電話で聞いた誘いが、今度は使えるものに思えた。レナがいるかどうかも分からない通りを走るより、隣にいた方がいい。あのときのように、返事のない画面を見続けずに済む。
「本人は帰る気ねえんだろ」
玲司の声で、葵は顔を上げた。
「向こうに着いてから説得すんのか。周りにあいつらがいるところで」
「じゃあ、どうすればいいの。行かないでって言って、聞いてくれないのに」
「だから、久世さんに話すんだよ。お前が入っていく前に」
葵は玲司の顔を睨んだ。正しいことを言っている顔に見えるのが、余計に腹立たしかった。
レナが捕まれば、もう仕事には行けなくなる。けれど、電話で笑っていた声も、二度と自分へ向けてくれなくなる気がした。あとで返事をすると、さっきは普通に約束したばかりだった。
「捕まえればいいって、そんな簡単に言わないでよ」
「簡単だなんて言ってねえだろ」
玲司の声が大きくなった。葵も口を開きかけたが、その前に腕を指された。
「この前だって、あいつを止められなかったじゃねえか。まだ肩も治ってねえのに、今度は集団の中に入るって?」
「殴りに行くんじゃない!」
声を上げた拍子に肩へ力が入り、葵は左腕を体へ寄せた。玲司がそれを見たので、すぐに下ろしたが、もう遅かった。
「何かあったらどうすんだよ。薬を飲めば、あいつら全員どうにかできると思ってんのか」
「そんなこと言ってない」
葵は机から離れた。伊織につかまれたとき、自分の力だけでは腕を外せなかった。そこへ戻りたいわけではない。今度こそ勝てると言うつもりもなかった。
それでも、レナは行くと返事をしている。葵が断れば、隣には別の誰かが立つ。その子も同じように、お金がもらえるのを待っているだけかもしれない。
「レナが行くの、ここで待ってられないよ」
玲司は何も言わなかった。葵が持っているスマートフォンに目を落とし、また顔へ戻した。
「まだ返事するな。少し待て」
葵はレナとのやり取りを開いた。一緒に食べた日のあとも、短い言葉が残っていた。何をしているのか、今日は店なのか。仕事の話さえしなければ、いつもどおりに話せる友達だった。
『レナと一緒にできるなら、私もやる』
打ち終えると、葵は一度玲司を見た。男は首を横に振った。
葵はそのまま送信を押した。
「……送ったのか」
頷くと、玲司は口を閉じた。葵はスマートフォンを胸元へ引き寄せたが、今度は何を言われても、顔を上げられそうになかった。




