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歌舞伎町ドラッグ・ギャンビット  作者: Aramaki_mai
第4部 匿名の暴力
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第52話 一緒に行く

挿絵(By みてみん)

結びかけた髪を放すと、左肩の痛みが少し引いた。


葵は手首にヘアゴムを戻し、中野の部屋のソファへ座り直した。御徒町で伊織と殴り合ってから、一週間になる。やってきた捜査員に見たことを話し、そのあと肩も診てもらった。大きな怪我ではなかったが、腕を高く上げると、まだ痛む。


《MUSE》にはもう出勤していた。髪も仕事の前には結んでいる。ただ、部屋にいる間まで我慢して結ぶ気にはなれなかった。


机にいた玲司が電話を終え、椅子をこちらへ向けた。


「肩、まだ痛むのか」


「上げなきゃ平気。久世さん、何だって?」


「ああいう襲撃、この何日かは減ってるって。都内全体で」


葵は手首のゴムを指で引いた。あの日から、ニュースに時計店の映像が出るたびに見ていたが、同じ場面が繰り返されることが多かった。


「捕まったの?」


「伊織って奴が捕まったとは聞いてねえよ。お前、顔を見れば分かるって話もしてあるけど」


名前を聞いただけで、頬を切られても笑っていた男の顔が浮かんだ。あの顔なら、しばらく会わなくても分かると思う。


ソファに置いていたスマートフォンが鳴り、葵は手に取った。レナからの電話だった。


「もしもし」


『ミオ、今平気?』


いつもの声に、葵は少し背もたれへ寄りかかった。


御徒町で何度も確かめたメッセージには、その日の夜、ようやく返信が来た。今は家にいるという短い返事と、どうしたの、という言葉。無事だと分かって安心したが、仕事の話を持ち出すと、またファミレスでのようになりそうだった。そのあとは、お互いに当たり障りのないことしか送っていなかった。


「平気。ねえ、先週さ、私がどこにいるか聞いた日、御徒町にはいなかったんだよね」


『いないよ。何で?』


「時計屋の強盗、あったでしょ。あの近くにいたから、レナもいるのかと思って」


『私、あの日は仕事じゃなかったよ。あれ見たの?』


「うん。店の人が投げ飛ばされてた」


向こうでレナが息を吸う音がした。


『怖。ミオは大丈夫だった?』


自分もその男を追いかけ、殴り合った。そこまで話す気にはなれず、葵は大丈夫だと答えた。レナがあそこにいなかったことだけは、何度でも確かめたいくらいだった。


『それで連絡くれたんだ。あの日、ずっとスマホ見てなかったから』


「……返事くらいしてよ。心配したんだから」


『ごめんって。私、そんな毎日やってないよ』


レナは笑い、それから少し声を弾ませた。


『でも、次は結構もらえるかも』


葵は背もたれから体を離した。


「次って、またあの仕事?」


『そう。それで電話したんだけど。ミオ、やっぱりやらない?』


さっきまで緩んでいた指が、スマートフォンを握り直した。玲司がこちらを見ていたが、葵は膝へ目を落とした。


『このところ、次の連絡まで待っててって言われてたんだよね。やっと話が来た。今度は大きいから、人も増やすって』


「大きいって、何するの」


『そこまではまだ。前に一緒だった人たちだけじゃなくて、別のグループも来るんだって。だから運ぶ方も足りないみたい』


「いくつも店に入るってこと?」


『分かんない。人数いるなら、そうなのかもね』


レナは確かめるつもりもないようだった。何日にどこへ行くのかを聞いても、詳しい連絡はこれからだという。今は来られそうな人を集めているところらしかった。


「その中に、伊織って男の人いる?」


『イオリ? 知らない。誰?』


「ギア、用意できるって言ってた人。二十歳くらいの」


『会ったの、その人に』


「ちょっとだけ」


レナは少し考えてから、そういう名前は聞いたことがないと答えた。仕事の連絡をくれるのも別の相手で、伊織という男と直接やり取りしたことはないという。


『誰が薬持ってるとか、私、知らないよ。必要ないもん』


葵は左肩へ手をやりかけ、途中でやめた。


ギアを飲む連中も、レナには荷物を持ってくる人間でしかない。受け取って運べば終わると思っている。電話の向こうでは、次の仕事に誘う声が、さっき無事を喜んでくれた声のままだった。


「レナは、もう行くって返したの」


『うん。予定が合えば行くって。ミオが来るなら、一緒にできるか聞くけど』


葵は答えられなかった。スマートフォンの向こうでレナが名前を呼び、返事を待った。


『……また怒ってる?』


「怒ってない」


『前もそういう声だったじゃん。嫌なら、断ってくれていいんだよ』


「私のことはいいから、レナも――」


言いかけたところで、向こうが静かになった。


葵は唇を閉じた。前に会ったとき、レナは食べ終えてからも目を合わせてくれなかった。今度また行くなと言えば、次からは誘う電話さえ来なくなるかもしれない。


「……少し考える。あとで返事する」


『ほんと? じゃあ待ってる。無理はしなくていいからね』


電話が切れたあとも、葵はしばらく端末を耳から離せなかった。


*


玲司は仕事の手を止め、葵が話すのを待っていた。


葵は、レナが御徒町の事件には加わっていなかったことから話した。それから次の仕事と、ほかのグループも集めているという話を伝えた。伊織の名前を知らなかったことも言うと、玲司は机の上のスマートフォンへ目を向けた。


「真壁、まだ何も言ってこない?」


葵が聞くと、玲司は首を振った。


真壁は、襲撃する連中を知らないとは言わなかった。伊織の名前を伝えれば何か答えると思っていたのに、あの日から何も聞けていない。葵はソファから立ち、机のそばへ寄った。


「もう一回、送ってみてよ。連中がまた人を集めてるって」


玲司はすぐには端末を取らなかった。だが、やがて手に持つと、久世へ真壁に再度連絡すると伝え、それから匿名アプリを開いた。


葵は隣から画面を見た。御徒町のあと、久世に知らせたうえで玲司が送ったメッセージが並んでいた。犯人の一人が伊織と呼ばれていたこと、ギアを用意できると言っていたこと。どれにも、真壁からの返信はなかった。


今日送った文も、その下に増えただけだった。


葵は相手の表示名を見た。御徒町では、肝心なことには答えずに、向こうが歩き出した。それでも、連絡すればまた会えるとは思っていた。


玲司がスマートフォンを机へ置いた。


「久世さんに、さっきの話をしよう」


「レナの話でしょ」


「ほかにも人を集めてるって話だよ。一人や二人のことじゃねえんだろ」


玲司は椅子から立った。葵はその前にいたが、道を空ける気になれなかった。


「誰から聞いたって言うの。レナが何やってたかも話すんでしょ」


「そこを隠したままじゃ、いつまでたっても何も頼めねえよ」


葵は手元のスマートフォンを握った。画面は暗くなっていた。


「私も一緒に行く」


玲司は一瞬黙り、それから葵を見た。


「何に」


「受け取る仕事。レナと一緒に入れてもらう。そうすれば、どこにいるか分かるから」


「お前までやってどうすんだよ」


「やるふりだけ。荷物を受け取る前に、レナを連れて帰る」


言葉にすると、さっき電話で聞いた誘いが、今度は使えるものに思えた。レナがいるかどうかも分からない通りを走るより、隣にいた方がいい。あのときのように、返事のない画面を見続けずに済む。


「本人は帰る気ねえんだろ」


玲司の声で、葵は顔を上げた。


「向こうに着いてから説得すんのか。周りにあいつらがいるところで」


「じゃあ、どうすればいいの。行かないでって言って、聞いてくれないのに」


「だから、久世さんに話すんだよ。お前が入っていく前に」


葵は玲司の顔を睨んだ。正しいことを言っている顔に見えるのが、余計に腹立たしかった。


レナが捕まれば、もう仕事には行けなくなる。けれど、電話で笑っていた声も、二度と自分へ向けてくれなくなる気がした。あとで返事をすると、さっきは普通に約束したばかりだった。


「捕まえればいいって、そんな簡単に言わないでよ」


「簡単だなんて言ってねえだろ」


玲司の声が大きくなった。葵も口を開きかけたが、その前に腕を指された。


「この前だって、あいつを止められなかったじゃねえか。まだ肩も治ってねえのに、今度は集団の中に入るって?」


「殴りに行くんじゃない!」


声を上げた拍子に肩へ力が入り、葵は左腕を体へ寄せた。玲司がそれを見たので、すぐに下ろしたが、もう遅かった。


「何かあったらどうすんだよ。薬を飲めば、あいつら全員どうにかできると思ってんのか」


「そんなこと言ってない」


葵は机から離れた。伊織につかまれたとき、自分の力だけでは腕を外せなかった。そこへ戻りたいわけではない。今度こそ勝てると言うつもりもなかった。


それでも、レナは行くと返事をしている。葵が断れば、隣には別の誰かが立つ。その子も同じように、お金がもらえるのを待っているだけかもしれない。


「レナが行くの、ここで待ってられないよ」


玲司は何も言わなかった。葵が持っているスマートフォンに目を落とし、また顔へ戻した。


「まだ返事するな。少し待て」


葵はレナとのやり取りを開いた。一緒に食べた日のあとも、短い言葉が残っていた。何をしているのか、今日は店なのか。仕事の話さえしなければ、いつもどおりに話せる友達だった。


『レナと一緒にできるなら、私もやる』


打ち終えると、葵は一度玲司を見た。男は首を横に振った。


葵はそのまま送信を押した。


「……送ったのか」


頷くと、玲司は口を閉じた。葵はスマートフォンを胸元へ引き寄せたが、今度は何を言われても、顔を上げられそうになかった。

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