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歌舞伎町ドラッグ・ギャンビット  作者: Aramaki_mai
第4部 匿名の暴力
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第51話 返さない

挿絵(By みてみん)

呼び出し音が三度続いたところで、久世が出た。


玲司は道の端へ寄り、後ろを歩いていた葵にも足を止めるよう手を上げた。葵はスマートフォンから顔を上げ、隣まで来たが、こちらを見ずにまた画面へ目を落とした。


「久世さん。真壁と会った」


電話の向こうで、久世が何かを置く音がした。


「いつだ」


「さっき。御徒町で。そのあと、時計屋の強盗に出くわして……葵が、犯人の一人とやり合った」


「今は離れているんだな」


玲司が答えると、久世は続けて怪我を尋ねた。葵はまだ左腕を下げていた。鞄は右肩に掛け、スマートフォンも右手で持っている。


「葵が肩を殴られた。左の。あと、手と膝を擦ってる」


葵が顔を上げたので、玲司はその肩を指した。


「腕、上がるか」


「上がるよ」


そう言って上げかけた腕を、葵は途中で下ろした。玲司はそれを見たまま、電話口へ告げた。


「動かせるけど、上げるのはつらそうだ」


葵が何か言いかけたが、久世の声が先だった。


「現在地を送れ。近くの捜査員に連絡する。怪我も見てもらうんだ」


玲司はそばの建物に掲げられた名前を伝え、通話をつないだまま位置情報を送った。葵はスマートフォンを下げ、時計店のある方へ目を向けていた。サイレンはまだ聞こえるが、ここから事件の現場は見えない。


「真壁と会う前に連絡しろと言ったはずだぞ」


端末を耳へ戻すと、久世が言った。


「話を聞いてから連絡するつもりだった」


「それでは、お前たちに何かあっても分からんだろう。真壁は今どこにいる」


「分からない。先に行った。強盗が起きたのは、そのあとだ」


玲司は、真壁が犯行への関与も、犯人たちへのギアの提供も否定したことを話した。ただ、連中を知らないとは言わず、帰り際にはこの辺に長居するなと告げていた。


久世は途中で口を挟まなかった。玲司が話し終えると、次は交戦した男について尋ねた。


「顔は見た。途中でマスクを下げたから。俺と同じくらいの年で、仲間に伊織って呼ばれてた」


「苗字は」


「分からない。そいつ、葵に仲間になれって。薬なら用意できるとも言ってた」


隣で葵が唇を結んだ。玲司はその顔を見て、すぐ前の道路へ視線を戻した。


「男はどちらへ逃げた」


駐車場の場所と、男たちが走っていった方向を説明した。葵がギアを飲んだことには触れなかった。レナを捜すために追ったことも、口に出さずにいた。


久世は、二人が待っている建物の名前をもう一度確かめた。


「そこで待っていろ。犯人を捜しに戻るなよ」


「……分かってる」


電話を切ると、葵が先に聞いた。


「来るの?」


「近くの捜査員に連絡するって」


「私、帰れるけど」


「顔、見てるだろ。逃げた方だって説明しなきゃなんねえし、肩もそのままにできねえよ」


玲司が言うと、葵は返事をせず、建物の壁へ背を預けた。左肩が触れた途端に体を起こし、今度は右側を壁へ向ける。


玲司は歩道を行き交う人の方へ向き直った。葵はまたスマートフォンを見たが、文字を打つことも、電話をかけることもしなかった。


*


伊織は、頬に貼りつくマスクが鬱陶しくなって、片方の紐を耳から外した。


血が内側に染みていた。まだ出ているのかと指で触れると、傷の縁がひりついた。さっきまでは気にならなかったのに、走るのをやめたら、脇腹も重く痛み始めている。


「お前、ティッシュ持ってない?」


前を歩く仲間に声をかけると、男は振り返って顔をしかめた。いくつか角を曲がってきたが、背後ではまだサイレンが鳴っている。男は歩きながらポケットを探り、くしゃくしゃの小袋を渡してきた。


「だから、さっさと来いって言っただろ」


「ちゃんと来たじゃん」


伊織はティッシュを二枚引き出し、小袋を返した。マスクをポケットへ押し込み、頬を拭う。思ったより赤くなった紙を見ても、嫌な気分にはならなかった。


あの右は危なかった。顔を引くのが遅れていたら、頬を切るだけでは済まなかったはずだ。こちらに上着をつかまれかけても、逃げるより先に殴り返してきた。小さいくせに、少しも引かなかった。


葵。


一緒にいた男が、何度もそう呼んでいた。


「あの子、どこに住んでんだろ」


「知るかよ。お前、顔も名前も知られちまったんだぞ」


「名前、呼んだのお前だけどね」


男が足を止めかけたので、伊織はその背中を軽く押した。


「いいって。怒ってないから」


本当に怒ってはいなかった。もう少し続けたかったとは思うが、次に会えれば、今度は途中で邪魔を入れずに済む。頬の血を押さえながら考えていると、後ろから名前を呼ばれた。


また何か言われるのかと思い、振り向いたところで笑みが消えた。


真壁が歩いてきた。暗い色のジャケットに片手を入れ、こちらから目を離さずに近づいてくる。伊織はティッシュを頬から離した。


「……何でいんの」


真壁は数歩手前で止まり、伊織の顔と、その横にいる男を見た。


「お前を捜してた」


「ずっとついてきてたの?」


「騒ぎの方へ行ったら、お前がいた」


伊織は通りの先を見た。真壁以外にも歩いている人間はいたが、こちらを気にしている様子はない。仲間が顔を寄せ、小声で誰なのかと聞いてきた。


「知ってる人。先、行ってて」


「またかよ」


男は真壁を見てから、伊織にも目を向けた。伊織が顎で先を示すと、ようやく歩き出したが、次の角まで行ったところで立ち止まった。


真壁は男の背中を一度見送り、伊織へ視線を戻した。


「盗んだギアを返せ」


やっぱりその話か、と伊織は息を吐いた。脇腹に響いたので、上着の上から軽く押さえる。


「返さないよ。まだ使うし」


「ほかの連中に渡した分もあるだろう」


「あるよ。俺だけじゃ、こんなにいらないもん」


真壁の目が細くなった。伊織はティッシュを折り、血のついていない面を傷へ当てた。さっきの女の話ならいくらでもできるのに、この男は顔の傷についてすら聞いてこない。


「誰に、どれだけ渡した」


「言ったら、そいつらのとこにも行くんでしょ」


「回収する。お前の手元にある分も全部だ」


伊織は頬を押さえていた手を下ろした。


今は殴られたところが痛む。それでも、ギアを使って人を投げ飛ばしたときの感触を思い出すと、また試したくなった。つかんできた手が煩わしくて投げただけなのに、店員の体は簡単に浮いた。倒れた相手を見て、周りの人間が悲鳴を上げる。その中心に自分がいるのが、たまらなく気持ちよかった。


でも、あの女は殴られても引かなかった。こちらを殴り返し、武器まで出してきた。あんな相手がいると知ったばかりで、ギアを手放す理由などなかった。


「困るんだよね。俺が渡すって言って、来てもらってる奴もいるし」


「もう渡すな」


「あんたに言われてやめたら、俺、何なの」


真壁が伊織を見据えた。仲間へ帰れと言い、薬を全部集めて、この男へ渡す。言われたことを頭に浮かべると、伊織は馬鹿らしくなって笑った。


「金なら払うよ。いくら?」


「売りに来たんじゃない」


「取り返しに来たんでしょ。分かってるって。でも、俺は返さないから、別の話してんの」


紙を丸めると、傷に触れていた部分が指へくっついた。伊織はそれを剥がし、ポケットへ押し込んだ。真壁は金額を言わず、伊織から目を離さなかった。


「今日も店で使わせたな。あんなことを続ければ、いずれ誰かが捕まる」


「今日は捕まってないじゃん」


「毎回、同じように逃げられると思うな」


真壁の声が低くなった。伊織は顔を上げ、ようやく男をまともに見た。


「俺が捕まると困る?」


真壁は答えなかった。その顔を見ていると、伊織は少し愉快になった。何も言わずについていかなければならない相手でもなければ、頭を下げて許しをもらう理由もない。


「だったら、もう行かせてよ。俺も捕まりたくないし」


伊織は仲間の待つ角へ向き直った。歩き出すと、真壁が横から回り込んで行く手を塞いだ。肩が触れそうな距離まで近づかれ、伊織は足を止めた。


「どいて」


真壁は動かなかった。


伊織は男の目を見たまま、顎を少し上げた。殴り合うつもりなら、それでもよかった。脇腹に手を当てるのをやめ、両腕を下ろす。真壁の手がジャケットから出てきたが、何も持っていなかった。


通りの向こうで、サイレンが大きくなった。


伊織にも、ここで騒ぎを起こせば自分が危ないことは分かっていた。それでも、先にどちらが道を譲るかと思うと、その場を動きたくなかった。真壁の肩越しに、角で待っていた仲間が手を振っている。


「ここでやるの? 警察、まだその辺にいるけど」


伊織が言うと、真壁の視線が一瞬だけ通りへ動いた。その隙に、伊織は横へ踏み出した。肩を押さえられるかと思ったが、手は伸びてこなかった。


二歩進んでから振り返る。真壁は体の向きを変えて、こちらを見ていた。


「残りは動かすな。こっちから連絡する」


「まだやんの、その話」


伊織はそう返し、待っている仲間の方へ歩いた。


真壁は追ってこなかった。角まで来て、仲間が何を言われたのか聞いてきた。伊織はその肩へ腕を回しかけ、脇腹が痛んだので途中でやめた。


「薬、返せだって」


男の顔が強張った。


「おい、大丈夫なのかよ」


「返してないでしょ」


伊織は笑った。笑うと頬の傷が開き、口の端へ血が流れてきた。指で拭いながら真壁のいた方を見ると、暗い色のジャケットは、こちらとは逆へ歩いていくところだった。


伊織はもう呼び止めなかった。仲間にティッシュをもう一度ねだり、歩きながら頬へ当てた。


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