第50話 こっち来れば
角を曲がったところで、葵は速度を落とした。
前を走っていた三人のうち、最後尾の男が足を止めていた。店員を投げ飛ばした男だった。こちらを見ながら、首元へ指を入れて上着の襟を引いている。
黒いバッグを抱えた男は、さらに先の角を曲がった。もう一人も続きかけたが、振り返って声を上げる。
「おい、何してんだよ」
「先行ってて」
男は片手を振り、葵へ向き直った。横には小さな駐車場があり、通りに面した二台分の区画が空いている。葵がそちらへ回ろうとすると、男も同じ方へ動いた。
「何。追っかけてきたの?」
「その荷物、どこに持ってくの」
男は仲間が消えた角を見てから、空の両手を広げた。
「俺、持ってないけど」
「受け取る人がいるんでしょ。そこに、知り合いがいるかもしれない」
「じゃあ、その知り合いに聞けば?」
鞄の中のスマートフォンは、さっきから鳴らなかった。レナが返事をくれれば、こんな男に話しかけずに済む。葵は男の脇から通りの先を見たが、もうバッグは見えなかった。
「連絡つかないの。どこで渡すのか教えて」
男は葵の肩の向こうへ目をやった。
「そっちも知り合い?」
追いついた玲司が、葵の隣で足を止めた。息が切れていて、返事の前に一度大きく呼吸する。
「……葵。あんまり近づくな」
「別に、何もしてないじゃん」
男が笑ったので、葵は思わず前へ出た。
「さっき店の人、投げ飛ばしたでしょ」
「だって、つかんでくるんだもん」
店員が倒れたときの音を思い出し、葵は男の顔を睨んだ。男は気にした様子もなく、駐車場の方へ手を伸ばす。
「ほら、邪魔だから。そこ、どいて」
肩を押されると思い、葵はその手を払った。ところが、腕を振り切るより先に、男のもう一方の手が上着をつかんだ。
体が後ろへ押し出された。踏ん張った靴が滑り、葵は駐車場の縁で膝をついた。伸ばした手がアスファルトを擦る。玲司が間へ入ろうとしたが、葵は自分で立ち上がった。
「何すんだよ、お前!」
玲司の声にも、男は肩をすくめただけだった。
「転んだの、そっちでしょ」
葵は鞄を開いた。内ポケットの袋を引き出し、玲司がこちらを振り向く間に、一錠を口へ入れる。乾いた喉に引っかかりかけたが、唾と一緒に飲み下した。
「持ってて」
鞄を押しつけると、玲司が腕で受けた。
「待てって。荷物の奴、先に行ったぞ」
「こいつが知ってる」
男はこちらを見ていた。葵は擦れた掌を一度閉じてから、駐車場の空いた区画へ足を運んだ。背後はフェンスで、その手前には白い車が一台停まっている。男の後ろには、仲間が逃げていった通りがあった。
「薬まで飲むこと?」
からかうように言いながら、男がついてきた。葵は男の肩と足を見た。さっきは、つかまれた時点でもう押し返せなかった。今度は触らせる前に動く。
「誰に渡すのか、答えて」
「だから、俺に聞かれても――」
男の手が伸びてきた。
葵はその腕を外へ払い、踏み込みながら腹へ拳を入れた。肩から先へ、いつもより強く力が伝わる。男の息が途切れ、靴底が舗装を擦った。
倒れると思った。
男は片足を引いて踏みとどまり、すぐに腕を振ってきた。葵は顔を引いて避けたが、続く拳を受けた両腕ごと押し込まれた。踵が車止めに当たり、横へ逃げるように足を運ぶ。
「……あれ、ギアだったんだ」
男が腹を押さえた。笑おうとして息が詰まり、口元を覆っていたマスクを顎まで下げる。
思っていたより若かった。玲司と、いくらも年が違わないように見える。額にかかった髪を払い、葵を見直す目に、さっきまでの面倒くさそうな感じがなくなっていた。
「効いた。今の」
その言葉が終わる前に、男が踏み込んだ。
葵は拳をかわし、横から蹴りを入れた。男の体が傾いたので、続けて打とうとしたが、相手は無理に踏ん張らず、葵へ体ごとぶつかってきた。肩に腕が回り、熱い息が頬のそばにかかった。
引き剥がそうとしても、腕が外れなかった。
葵は腰を落とし、男の腹へ膝を入れた。締めつけが緩んだところで、両腕を押し広げて抜ける。離れる間際に振られた拳が左腕を打ち、葵は停まっている車の方へよろめいた。
「後ろ、車!」
玲司の声で手を伸ばし、ボンネットへ掌をついた。金属板が音を立ててへこむ。そこを支えに足を戻したときには、男ももうこちらを向いていた。
殴れば下がる。膝も入った。それなのに、次に踏み込んでくる力が落ちない。
工場で向かってきた男たちも、ギアを飲んでいた。だが、目の前の男は、一発受けてよろめいたあとにも、こちらの動きに合わせて殴り返してくる。体を寄せられれば、力で振りほどくこともできなかった。
葵は車から離れ、玲司の方へ下がった。
「鞄」
葵は玲司から鞄を受け取り、中を探った。指に触れた金属を引き出して、右手にはめる。
「こいつ、今までの奴と違う」
葵が鞄を返すと、玲司はメリケンサックに目をやり、鞄を自分の肩へ掛けた。
男はすぐには追ってこなかった。葵の右手を見て、唇の端を持ち上げる。
「何、お前、そんなのも持ってんの?」
声は楽しそうだったが、今度は無造作に手を伸ばしてこなかった。葵の右側へ回り込まず、少し離れたまま、こちらが動くのを待っている。
葵は拳を握り込んだ。金属が指の根元に収まり、男の目がそこへ落ちる。左で顔の前を打つと、男はそれを払った。葵は空いた脇へ踏み込み、右を打ち込んだ。
硬い感触が返り、男の顔が歪んだ。息を吐きながら腕を振ってくる。葵は引ききれず、左肩を打たれた。体が流れたところへ、上着をつかもうとする指が伸びてくる。
葵はその手を振り払い、男の顔へ拳を返した。
男が頭を引いたため、拳は頬をかすめた。薄く皮膚が裂け、血が一筋流れる。男は二歩下がった。脇腹を押さえていた手を離し、頬を指で拭う。
葵も追い打ちに出られなかった。左肩が動かしにくい。痛みは鈍かったが、腕を上げようとすると、さっきより重かった。
男は指についた血を見たあと、顔を上げた。
「葵っていうんだ」
葵は答えず、右の拳を構え直した。
「そんな睨まなくてもいいじゃん。俺、お前みたいなの好きだよ」
笑いながらも、男は葵の拳が届くところへ戻ってこなかった。呼吸するたび、先ほど殴った脇腹をかばっている。それでも、帰ろうとはしない。
「お前さ、こっち来れば? 薬なら用意できるし」
葵は男を見た。周囲で靴の音がしたが、目を外す気にはなれなかった。
「……あんたが配ってんの?」
「持ってるよ。欲しいの?」
「いらない。あの連中に渡すの、やめてよ」
男は葵の右手を見てから、顔へ視線を戻した。
「自分だって飲んでんじゃん」
葵は息を吸ったが、すぐには言葉が出なかった。
確かに自分も飲んだ。いま、この男を殴るために使っている。右手にはメリケンサックまでつけていた。
だからといって、店員を投げ飛ばして笑うこいつに、同じものを見るような顔をされたくなかった。
「一緒にすんな!」
声と一緒に踏み込むと、男も顔つきを変えた。葵の右を避け、横から腕をぶつけてくる。左腕で受けたが、打たれた肩にはうまく力が入らなかった。右腕も使って押し返すと、靴が舗装を擦り、踏ん張った足元で小石が跳ねた。
「葵!」
玲司が呼んでいた。
振り向く余裕はなかった。男の腕を押しのけ、もう一度打とうとしたところで、葵にもサイレンが聞こえた。
「伊織! もう行くぞ!」
別の声がした。通りへ目を向けると、さっき仲間を追っていった男が角から戻ってきていた。手招きしながら、何度も背後を振り返っている。
「いつまでやってんだよ!」
伊織と呼ばれた男は、葵から目を離さずに舌打ちした。それから自分で距離を取り、通りの方へ退く。
「いいとこだったのに」
「待って。荷物、どこに持ってったの」
葵が追うと、玲司が横から腕をつかんだ。
「もうやめろ。仲間も戻ってきてる」
振りほどきかけたとき、伊織がマスクを上げた。頬を押さえて顔をしかめたが、葵と目が合うと、片手を上げてみせる。
「じゃあ、またね」
伊織は仲間と一緒に走り出した。葵は玲司の手を引きずるように一歩出たが、相手はもう角へ着いていた。
「放して。まだ聞けてない!」
「追いついたら、また殴り合うのかよ!」
玲司が正面へ回った。葵は足を止めたが、拳を下ろせなかった。肩越しに通りを見ても、二人はもういなかった。
サイレンが近づいてくる。玲司は逃げた男たちとは反対の方を示し、葵の腕を引いた。
「ここから離れるぞ」
葵は駐車場から出た。走りながら、右手にはまった金属を左の指でつかむ。すぐには抜けず、歩調を落としてようやく外した。
玲司から鞄を返され、メリケンサックをしまった。続けてスマートフォンを取り出すと、レナへ送ったメッセージには、まだ返事がなかった。
荷物を受け取る人間を確かめるはずだった。その荷物がどこへ行ったのか、もう分からない。
「……レナがいたかもしれないのに」
葵が言うと、玲司も足を緩めた。何か返してくるかと思ったが、こちらの左肩を見ただけだった。
葵は画面を閉じ、空いた右手を握った。メリケンサックを外しても、指の付け根には押されていた感触が残っていた。
少し前を歩く玲司が、自分のスマートフォンを取り出した。
「久世さんに、真壁と会ったことを話す。今のことも」
葵は顔を上げた。
「レナの名前は――」
「分かってる」
玲司は画面へ目を落とし、電話をかけた。葵はその横で、レナへのメッセージをもう一度開いた。




