第41話 小道具
戸倉が出ていってから、玲司は空のペットボトルを潰し、机に残ったコップを流しへ運んだ。ようやく自分のソファが空いたのに、敷き直した毛布には誰も座っていない。
水を止めると、背後で家具を動かすような音がした。
振り返った玲司と、ソファの脇にしゃがんだ朝倉の目が合った。朝倉は片手を床についており、もう片方の手にはスマートフォンを持っている。ライトが、壁とソファの隙間を照らしていた。
「何か落としたんですか」
「いえ。ちょっと」
朝倉が立ち上がると、椅子にいた葵もそちらを見た。
「ひなちゃん、さっき冷蔵庫の横も見てなかった?」
「見てましたけど」
「何探してんの」
「心当たりがあるなら、教えてください」
葵は玲司へ顔を向けた。こっちを見るなと思いながら、玲司は濡れた手をタオルで拭いた。
「俺に聞くなよ」
「まだ何も言ってないじゃん」
朝倉は二人を見比べ、ライトを消した。玲司がタオルを掛け直している間にも、今度は机の下へ目をやっている。戸倉がいなくなった分、こちらに使える時間が増えたらしい。
葵が椅子の上で脚を組み替え、玲司を呼んだ。
「ねえ。大田区の話、どうする?」
タオルから手を離した玲司は、戸倉が昨夜言ったことを思い出した。街に出回っているギアは、大田区の方で作っているらしい。住所までは知らないと言っていたが、探す範囲が一つの区になっただけでも、何もなかったときとは違う。
「何の話ですか」
朝倉が聞いた。葵が答えるより先に、玲司は机のノートパソコンを開いた。
「戸倉が言ってたんです。ギア、大田区で作ってるらしいって」
「いつ聞いたんですか」
「昨日、助けたあと。詳しい場所は知らないって」
朝倉が机のそばへ来ると、葵は椅子を少しずらした。玲司は以前調べた不動産会社のページを開き、所有物件の一覧をたどっていった。
「久我のところ?」
葵が覗き込む。
「ああ。舟渡の建物を持ってる会社」
「篠崎さんが閉じ込められていた建物ですか」
朝倉の問いに頷き、玲司は会社の名前を指した。上野で父親を見つけた飲食店も、舟渡の建物を所有するこの会社も、久我省吾の事業グループに入っていた。そのことを短く話すと、朝倉は画面へ身を寄せた。
一覧には集合住宅や店舗もあったが、大田区の工場と倉庫に当たるものは三件だった。玲司はそれぞれの住所を地図へ入れ、建物の写真を見比べた。
「三つか。これなら回れるな」
葵はもう椅子から立っていた。上着を取ろうとして右腕を止め、左手で椅子の背から引き剥がす。その動きを見た朝倉が、先に玄関の方へ回った。
「待ってください。どこへ行くつもりですか」
「大田区」
「勝手に動かないでください。まず久世さんに話を――」
「話してくれていいですよ。俺らも捜査協力なんだから、協力しますよ」
玲司は三件の住所をスマートフォンへ送り、パソコンを閉じた。
「協力する人は、勝手に出かけません」
「見に行くだけですって」
「昨日も、そうやって私を置いていきましたよね」
朝倉の目が玲司の頬へ向いた。腫れは引いておらず、口の中もまだ切れている。玲司は顎を引いたが、葵は上着へ腕を通しながら口を挟んだ。
「じゃあ、ひなちゃんも来ればいいじゃん」
「ついていけば何をしてもいい、という話じゃありません」
「分かってるって。外から見るだけ」
朝倉は二人の顔を順に見てから、椅子に掛けてある自分の上着へ目をやった。
「私も行きます。トイレに行ってくるので、その間くらい待ってください」
玲司が頷くと、朝倉はようやく玄関の前を離れた。トイレのドアが閉まってから、玲司は仕事用の棚から大きなバッグを引き出した。箱のように四角く、背負うための肩ひもがついている。
葵が振り返った。
「あんた、何やってんの」
「小道具だよ」
玲司が肩ひもを伸ばしている横で、葵は隠していたギアの袋を取り出した。四錠のうち一錠だけを小さく包み、上着のポケットへ入れる。玲司もその手元を見ていたが、昨日あの薬に助けられたことを思い出すと、置いていけとは言えなかった。
残る三錠を葵が元へ戻したところで、トイレのドアが開いた。
朝倉は玲司のバッグへ目をやったが、二人が玄関へ向かったので、上着を取って後を追った。
階段を下りきったところで、朝倉が久世へ電話をかけた。駅へ歩こうとする二人を呼び止め、大田区の三件を見に行くと言い出したことを伝える。
「久世さん、二人にも聞かせます」
スピーカーに切り替わった途端、久世の声がした。
『黒瀬。お前、じっとしてられねえのか』
「三件だけです。外から見てきます」
『住所は全部送れ。三人で行けよ。朝倉、絶対に目を離すな』
「はい」
『そっちの署に連絡して、近くを制服に回ってもらう。何か分かったらすぐ知らせろ。何かあれば、応援を出せるようにしておく』
玲司が頷くと、朝倉は返事もするようにとこちらを見た。
「分かりました」
『こっちの処理が済んだら、俺も行く。勝手に中へ入るなよ』
「見るだけですって」
久世は念を押すようにもう一度朝倉の名前を呼んでから、電話を切った。朝倉はスマートフォンをしまい、玲司の隣へ並ぶ。
「私から離れないでください」
葵が反対側へ来ると、朝倉はそちらにも同じことを言った。
*
大田区で電車を降りた頃には、通りの街灯がついていた。商店の並ぶ道を抜けるにつれ、低い工場と住宅が混じる街並みに変わっていく。玲司は地図を見ながら歩いていたが、大きなバッグが塀に当たりそうになり、何度か肩をすぼめた。
一件目の前まで来ると、開いたシャッターの奥から金属を削る音が聞こえた。作業服の男が台の上で部品を並べている。玲司はバッグを背負い直し、通りにいる二人から少し離れて入口へ近づいた。
「すみませーん。ウーバーイーツです」
男が手を止めた。玲司は笑顔を向けながら、スマートフォンを持ち上げた。
「頼んでないよ」
「あれ。ここじゃないですか」
「うちじゃない。隣じゃないの」
「すみません、場所間違えました」
頭を下げて離れると、男はすぐに作業へ戻った。入口から見えたのは加工機械と金属部品の入った箱で、壁には製品らしい小さな金具がいくつも掛かっていた。
角を曲がってから、葵が玲司のバッグを指した。
「それ、そういうこと?」
「言っただろ。小道具だって」
「急に配達始めたのかと思った」
笑いかけた葵の横で、朝倉は笑っていなかった。
「そういうことをするなら、先に言ってください」
「人がいるか、確かめただけです」
「次は声をかける前に、私に言ってください」
返事を待たれ、玲司は頷いた。葵はまだ笑っていたが、朝倉に見られると口元を手で隠した。
二件目では、仕事を終えたらしい男が、入口脇で手を洗っていた。今度は朝倉に声をかけてから近づき、配達を名乗る。男は奥へ向かって誰か飯を頼んだかと聞いてくれたが、頼んでいないという声が返ってきた。
謝る玲司に、男は早く届けてやりなと笑った。玲司はもう一度頭を下げ、通りで待つ二人のところへ戻った。
こちらにも切断された金属の板や棒材が積まれ、奥では一人が床を掃いていた。葵も通りから中を覗いていたが、歩き出すとスマートフォンの地図へ目を落とした。
「普通の工場だね」
「二つともな」
薬を作っているようには見えなかった。少なくとも、今見えた範囲に気になるものはない。玲司は残った一件の住所を開いた。
三件目は、細い道の奥にあった。二階建ての古い工場で、正面のシャッターは下りている。脇の小さなドアに呼び鈴があり、会社名の札を外したような跡だけが壁に残っていた。
玲司は朝倉へ声をかけてから、呼び鈴を押した。
待っても、足音は聞こえなかった。もう一度押し、配達だと呼びかけても、ドアは閉まったままだった。
「いないのかな」
葵が二階を見上げた。窓はどれも暗く、通りの灯りを鈍く映している。玲司は地図の住所とドアの脇の表示を見比べたが、場所は合っていた。
「裏、見てみるか」
建物の側面に沿って細い道が続いていた。朝倉も一緒に角を曲がると、換気扇の低い音が聞こえた。裏側には明かりのついた窓が一つあり、曇ったガラスの向こうで何かが動いた。
葵が立ち止まる。玲司も足を止めて耳を澄ますと、機械の音に混じって男の声がした。言葉までは聞き取れなかった。
「いるじゃん」
葵が小声で言った。玲司は窓に目を凝らしたが、ガラス越しでは人の姿もはっきりしない。脇にもう一つドアがあるのに気づき、近づいてノブへ手を伸ばすと、朝倉が横から腕を出した。
「ここまでです」
「このドアからなら――」
「呼んでも出てこなかったんですよね。勝手に入らないでください」
葵が朝倉の横から窓を見た。
「ちょっと中を見るだけだって」
「さっきは外から見るだけと言いましたよね」
朝倉は二人の前から動かなかった。玲司がドアへ目をやるたびに、こちらへ向き直る。奥でまた何か声がしたが、誰がいるのかは分からない。
「でも、ここだけ何やってるか分かんないじゃん」
「だから、久世さんに伝えます」
「伝えるだけ?」
「まず伝えるんです。協力するなら、指示にも従ってください」
玲司は口を閉じた。さっき自分で言ったことを返されると、言い返しにくい。葵はまだ窓を見ていたが、朝倉に名前を呼ばれると、ようやく道路の方へ戻った。
正面へ回り直す間、玲司はスマートフォンで三件目の住所に印をつけた。ほかの二件と違い、ここだけは何をしているのか分からないままだった。
朝倉が久世へ電話をかける横で、葵が玲司の袖を引いた。顎で工場を示したので、玲司は小さく頷いた。朝倉がこちらを向くと、二人とも手元の地図へ目を戻した。
*
朝倉からの報告を聞き終え、久世は中へ入らずに待つよう伝えた。電話の向こうで葵が何か言っているのが聞こえた。朝倉が返事をするまで、通話を切れなかった。
相馬のいる部屋からは、交代で入った刑事が出てきたところだった。久世を見ると首を振り、そのまま別の部屋へ向かっていく。
久世は立ったまま肩を回した。大田区へ出る前に残りの引き継ぎを済ませようと机へ戻ると、相馬の交友関係を調べていた刑事が、数枚の紙を持ってきた。
「大学時代の件で、一つありました」
差し出された紙には、古い事故の概要が印刷されていた。大学の研究室でガス中毒事故があり、女性の大学院生が一人亡くなっている。
久世は椅子を引き、紙を机へ置いた。
「相馬がいた大学か」
「在学中です。当時、関係者として話を聞かれた記録が残っていました」
久世は二枚目をめくった。そこに相馬俊介の名前があった。今日まで同じ事件を追っていた男の名前が、ずっと昔の死亡事故の記録に載っている。
「このとき、何を話してる」
「まだ概要だけです。詳しい記録を取り寄せています」
「分かった。ほかに誰が話を聞かれたのかも確認してくれ」
刑事が離れると、久世は事故の概要へ戻った。当時は事故として処理されている。これが今日の情報漏洩と関係するのかも、今は分からない。
それでも、女性が一人亡くなっていた。
久世は紙を揃えて手に持ち、相馬のいる部屋へ向かった。ドアを開けると、相馬は椅子に座ったまま顔を上げた。机の上に置かれた紙へ目をやり、それから久世を見る。
久世は向かいの椅子を引いた。
「大学にいた頃の話を聞かせてくれ」




