第40話 誰に話した
「行け」
久世が無線へ告げると、アパートの脇にいた刑事二人が外階段へ走った。鉄板を踏む音に、二〇三号室の前の男たちが振り返る。
「警察だ! 刃物を捨てろ!」
紺色の上着の男は、持っていたスマートフォンを胸元へ引き寄せた。隣の男が刃物を構えたまま後ずさりし、閉まったドアへ背中をぶつける。
久世も車を降り、道路を渡った。階段の上では、男が手提げ袋を刑事へ投げつけていた。袋を払いのけた刑事に続いて、もう一人が前へ出る。男が刃物を振ると、刑事は手すり側へ身を引いた。刃先が上着の前をかすめる。
「捨てろ! その場に置け!」
紺色の男が、もみ合いの脇を抜けて階段へ走った。久世が下から上がってくるのを見ると足を止め、手すりの外へ目をやる。その襟を、背後から刑事が掴んだ。
男は廊下へ引き戻され、腕をひねられて床へ倒れ込んだ。スマートフォンが手を離れ、手すりの根元へ滑っていく。
久世が二階へ上がりきる頃には、刃物を持っていた男も床へ押さえられていた。靴先で遠ざけられた刃物が、廊下の端で止まる。閉じた二〇三号室のドアの向こうからは、物音一つしなかった。
「離せよ! 何もしてねえだろ!」
紺色の男が首をひねって怒鳴った。久世はその前にしゃがみ、顔を見た。
「ここへ何しに来た」
「人に会いに来ただけだ」
「誰に」
男は答えず、床へ押しつけられた肩を動かした。二〇三号室へ目を向けたのを見て、久世は立ち上がった。
「戸倉なら、ここにはいない」
男の抵抗が止まった。刃物を持っていた方も顔を上げ、何か言いたげに相方を見る。
久世は二人を刑事に任せ、落ちたスマートフォンへ目を向けた。画面には、まだメッセージが表示されていた。
平井の住所と、二〇三という部屋番号。その下には戸倉の写真があり、夕方には警察が来るから、それまでに済ませろと書かれている。
久世は触れずに画面を覗き込んだ。
部屋だけではなかった。夕方から警察が動くという話まで、相手に伝わっていた。
階段を下ろされる男が、足をもつれさせた。刑事に腕を支えられ、なおも文句を言っている。その声を聞きながら、久世は昼前に相馬と立っていた廊下を思い出した。
地図を覗き込み、住所を確かめていたときの顔は、普段と変わらなかった。
*
署へ戻ると、相馬は自分の机に向かっていた。
久世に気づくと、書きかけの書類から顔を上げる。
「平井、どうでした。連絡を待ってたんですけど」
「二人、来た」
「二人?」
「戸倉を捜しにな。刃物を持ってた」
相馬の手が止まった。ペン先が紙に触れたままになり、やがて少し持ち上がる。
「戸倉は無事ですか」
「別の場所にいる」
「移したんですか」
「その話もする。少し来てくれ」
相馬は久世の後ろにいる刑事へ目をやった。いつもならその場で聞き返すところを、ペンの蓋を閉めて立ち上がった。
小さな部屋へ入ると、相馬は机の向こうの椅子を引いた。久世が正面に座り、同行した刑事が壁際に腰を下ろす。相馬はそちらを一度見てから、久世へ向き直った。
「どういう話ですか」
「平井のこと、誰に話した」
「誰にも。広げるなと言ったのは久世さんでしょう」
返事は早かった。久世は相馬の顔から目を離さず、昼間のやり取りを一つずつ確かめた。
「住所と部屋番号は、俺から聞いたな」
「聞きました。それが何ですか」
「そのあと、誰かに伝えたか」
「伝えてません。……まさか、俺が漏らしたとでも?」
相馬は椅子を前へ寄せ、机に手を置いた。久世を正面から見据える。
「戸倉は、あのアパートへ行ってない」
「逃げたんじゃないですか」
「いや、最初からあそこにはいない。昨夜からずっと、別の場所にいる」
相馬の口が少し開いた。そのまま言葉が出ず、机に置いた手にも力が入っていた。
「三人に別々の場所を伝えた。お前には平井の二〇三だ。残りの二か所には、誰も来てない」
相馬は背もたれへ体を戻した。部屋の外から電話の音が聞こえ、すぐに誰かが応じる。久世はその声が遠ざかるのを待った。
「あいつらに届いた指示には、夕方には警察が来るとまで書いてあった。俺がお前に話したとおりだ」
「……俺を試したんですか」
「誰に話したか、答えてくれ」
「最初から、俺を疑ってたんですね」
「お前じゃなきゃいいと思ってたよ」
相馬が顔を上げた。久世は自分の声が大きくなったことに気づいたが、下げなかった。
「話すなと言った情報が、刃物を持った人間に渡ってる。戸倉が本当にいたら、どうなってた」
相馬は答えなかった。机から手を離し、久世を見ている。
「俺を騙したまま、戸倉を捜しに行くつもりだったのか。お前が漏らした場所へ、俺たちと一緒に」
相馬の目が一度だけ壁際へ動いた。刑事は口を挟まずに座っていたが、その視線に気づいて顔を上げた。
相馬はまた久世を見た。何か言いかけるように唇が動き、久世は続きを待った。しかし、聞こえたのは椅子が小さくきしむ音だけだった。
*
朝倉が電話を終えて部屋へ戻ると、戸倉はソファから腰を浮かせた。
「もう行けんのか」
「はい。迎えが来ます」
玲司は机の上のスマートフォンを伏せた。葵も椅子へ座り直す。昼から何度も、いつまでここにいるんだと聞いていた戸倉が、今度は立ち上がりきらずに朝倉を見ていた。
「確かめるって言ってたやつ、どうなった」
「偽の潜伏先へ来た男を二人、確保しました。情報が漏れた経路も絞れています」
「警察からか」
朝倉は何も言わなかった。
「関係する者から、今、話を聞いています」
「……ふざけんなよ」
戸倉がソファへ座り直した。玲司もすぐには何も言えず、朝倉の顔を見た。久世から可能性を聞いていても、実際にそうだったと言われると、昨日までとは違った。
「その中へ俺を連れてくのか」
「その人を、戸倉さんの移動や聞き取りには関わらせません。久世さんからも指示が出ています」
「ほかにいねえって、分かんのかよ」
戸倉の声に、葵が机から手を離した。朝倉は戸倉の前へ来たが、立つように急かしはしなかった。
「今は断言できません。だから、移動に関わる人も久世さんが絞っています。迎えが来たら、私が確認します」
戸倉は膝の上で手を組んだ。左目の周りには腫れが残り、下を向くと頬の傷が目立つ。昨日、玄関の外で靴音がしただけで身構えたことを思い出し、玲司は口を開いた。
「だから久世さん、お前を署へ連れてかずに、ここに置いたんだろ」
「お前、その久世ってやつの何なんだよ」
「何でもねえよ。俺だって、何度も怒鳴られてるし」
「そりゃ怒鳴るだろ」
「お前に言われたくねえ」
言い返すと、戸倉は玲司の腫れた頬を見た。昨日より色が濃くなっている。玲司も相手の顔を見ていたが、先に目をそらした。
ほどなくして迎えが来た。朝倉が玄関へ出て話をしている間に、戸倉は毛布をどけて立ち上がった。背中が痛むのか、ソファの肘掛けから手を離すまでに時間がかかった。
葵も立ち、自分の椅子を机の下へ押し込んで通り道を空けた。
「歩ける?」
「歩けるよ」
戸倉は二歩進み、机の端に置いていたペットボトルを取った。もう空だった。捨てる場所を探すように見回したので、玲司は手を出した。
「貸せよ。こっちで捨てとく」
戸倉はボトルを渡した。昨日、水を求めて伸ばされた手から半歩下がったことが頭をよぎったが、今はその距離のまま受け取れた。
玄関で靴を履く戸倉の背中に、葵が声をかけた。
「昨日の、あれ……」
戸倉が振り返る。葵は朝倉へ一度目をやり、それから戸倉へ視線を戻した。
「ううん。いい」
戸倉は何も聞かなかった。靴の踵を直し、朝倉が開けたドアから廊下へ出ていく。そこで待っていた刑事を一度見て、自分からその隣へ並んだ。
玲司は玄関からその姿を見送った。葵も隣にいたが、階段を下りる足音が聞こえなくなると、自分から部屋へ戻っていった。
ソファには、丸まった毛布が残っていた。玲司は端を持って広げ、昨日と同じ場所へ敷き直した。
*
久我は予定していた面会を終え、ビルの廊下で携帯電話を耳へ当てた。エレベーターのボタンを押そうとした手が、相手の話を聞いて止まる。
『戸倉が出頭した』
「いつだ」
『今日だ。今は警察にいる』
久我は通路の奥へ歩き、窓の前で足を止めた。
「向かわせた連中は、どうした」
『返事がない』
「二人ともか」
『どちらからもない。報告が来るはずの時間は、とっくに過ぎている』
久我は腕時計へ目を落とし、声を落とした。
「失敗したのか」
『そう考えるしかない』
「お前が渡してきた住所だろう。そこにいると言ったじゃないか」
『相馬が警察で聞いた住所だ。そこに警察が待っていたとしたら、何のために聞かされたと思う』
久我は窓から顔を背けた。
「相馬を試したっていうのか」
『可能性の話だ。だが、そうなら、あいつのことも知られたことになる』
廊下の向こうでエレベーターの扉が開いた。降りてきた二人連れがこちらへ歩いてきたので、久我は窓を向いた。二人が脇を通り過ぎるまで、どちらも喋らなかった。
『これ以上、勝手なことをするな』
相手が再び口を開いた。
『最初に殺そうとしなければ、戸倉が警察へ逃げ込むこともなかった』
「今度の話には、お前も乗っただろ」
『だから、もう動くなと言っている。これ以上、人を出して捜査のきっかけを増やすな。こちらまで辿られる』
「自分が危なくなったら、俺のせいか」
久我の声が上がり、通り過ぎた男の一人が振り返った。久我は電話を耳へ押しつけたまま、その男を見返した。男はすぐに前を向き、連れと一緒に角を曲がった。
『戸倉の口を塞ぐより先に、お前が黙っていろ』
「何だと」
『人を殺せば済むと思うな。失敗したら何が起きるか、今見ているだろう』
久我は言い返しかけたが、窓に映った自分の顔を見て口を閉じた。さっき面会相手と別れたときには、こんな顔をしていなかった。
「……分かったよ」
『本当に分かっているのか』
「今は動かない。それでいいんだろ」
通話を終えると、久我はしばらく携帯電話を握っていた。戻ってエレベーターのボタンを押したが、扉が開いても、先に乗っていた人間の顔を一度確かめてから中へ入った。
*
戸倉が出頭したという連絡が入った頃にも、相馬は同じ椅子に座っていた。
平井で捕まえた男たちは、互いの名前さえろくに知らなかった。誰の指示かと聞いても、匿名アプリのアカウントを挙げるだけだった。戸倉を捜すよう言われ、住所が届いたから行った。指示を送ってきた人物の名前も居場所も、二人は知らないと言っている。
久世が部屋へ戻ると、相馬は顔だけを上げた。机に置かれた紙コップには、まだ水が残っている。
「戸倉が来た。自分の足でな」
相馬は何も言わなかった。久世は向かいに座り、その顔を見た。
「昨夜、あいつが襲われたと話したよな。聞いた上で、次にいる場所を教えたのか」
相馬の喉が動いた。久世は待ったが、やはり返事はなかった。
机を叩きたくなった。そうすれば、目の前の男も何か言うのではないか。怒鳴り返してでも、何を考えていたか口にするのではないかと思った。
久世は机へ伸ばしかけた手を引き、椅子の脇へ下ろした。
「黒瀬と葵の本名を外へ流したのも、お前か」
「……話すことはありません」
久世は相馬を見つめた。今日の昼まで、こちらを呆れたように見ていた男だった。今は同じ問いを何度向けても、口を閉じて待っている。
「お前が情報を渡した相手は、また人を寄越すかもしれないんだぞ」
相馬は紙コップへ手を伸ばした。持ち上げた水が少し揺れたが、飲まずに机へ戻した。
久世はそれ以上問いを重ねず、立ち上がった。壁際の刑事に目で合図し、一緒に廊下へ出る。入れ替わりに別の刑事が室内へ入っていった。
「相馬の件は、上にも伝えてある。こいつをギアの捜査から外す」
「連絡先を調べますか」
「必要な手続きを進めてくれ。今の付き合いだけじゃなく、警察に入る前からの交友関係も知りたい」
刑事が頷いたあと、閉まったドアへ目を向けた。
「長い付き合いの相手だと?」
「まだ分からん。金なのか、ほかに何かあるのかもな」
久世は閉まったドアを見た。同じ事件を追ってきたのに、仕事の外で相馬が誰と会っているのか、自分はろくに知らなかった。
「誰とつながってるのか、確かめる」
そう言って部屋へ戻ると、相馬は下を向いていた。
久世が椅子を引いても、相馬は顔を上げなかった。




