第39話 逃げたことにする
中野の仕事部屋へ戻ると、玲司はソファに置きっぱなしだった毛布をどけた。戸倉がそこへ腰を下ろすのを見てから、どけなければよかったと思った。
この男に殴られたことは、まだ忘れていない。その相手が自分の寝床に座り、腫れた顔で部屋を見回している。
「しばらくって、いつまでだよ」
「俺が聞きてえよ」
玲司は毛布を抱えたまま答えた。ソファ脇の仕事用の椅子には、先に葵が座っていた。上着を脱ぐのにも手間取り、右腕を袖から抜くと、そのまま机へ肘をつく。
朝倉は四人が入ったのを確かめて玄関を閉め、鍵をかけた。外には久世が寄越した警察官が一人残っている。玲司も来る途中は後ろを気にしていたが、ここまで追ってくる車はなかった。
「戸倉さん、窓には近づかないでください。カーテンも開けないように」
「分かってる」
戸倉は背もたれへ体を預けかけ、途中で動きを止めた。机の角にぶつけた背中が痛むらしく、片手を腰へ回している。
玲司は抱えていた毛布をソファの端へ落とし、空いている椅子を引いた。
「寝るなら、それ敷けよ。血、つけんな」
「もう止まってる」
「口も切れてんだろ」
「お前もな」
玲司は口元へ手をやった。移動中に出血は止まっていたが、喋るたびに顎が痛む。向かいの戸倉も似たような顔をしているのが、余計に面白くなかった。
葵が冷蔵庫を指した。
「玲司、水取って」
「自分で取れよ」
「今、立ちたくない」
机へ伸ばされた手を見ると、拳の辺りが赤くなっていた。あれで二人を殴り倒した。文句を続ける気がなくなり、玲司は冷蔵庫からペットボトルを二本取り出した。
一本を葵へ渡すと、戸倉がこちらへ手を出した。
玲司は思わず半歩下がった。戸倉の手が宙で止まり、それから指先だけがボトルへ向く。
「……水」
玲司は手に残っていた一本を押しつけ、自分の分を取りに冷蔵庫へ戻った。背中に戸倉の視線を感じたが、振り返らなかった。
朝倉は上着を椅子の背へ掛けると、葵の向かいに立った。
「篠崎さん。さっきの話を聞かせてください」
葵の手が、ボトルの蓋にかかったまま止まった。
「あのとき、ギアを使いましたね」
「……うん」
「どこで手に入れたんですか」
玲司は冷蔵庫の扉を閉めた。葵は蓋を緩めたが、水を飲もうとはしない。朝倉も質問を重ねず、返事を待っていた。
「あれは俺のだ」
ソファから戸倉が言った。
葵が顔を上げた。玲司も戸倉を見たが、本人は蓋を外したボトルを膝の間に挟み、朝倉へ目を向けている。
「自分で飲もうとしたら邪魔されて、落としたんだよ。こいつが拾って使った」
「戸倉さんが持っていた物を?」
「そう言ってんだろ。飲めてりゃ、ここまでやられてねえよ」
戸倉が腫れた頬を指した。
玲司は何も言えなかった。葵が錠剤を取り出したところを、自分は目の前で見ている。床から拾った物ではない。中野を出る前から、上着のポケットに入っていた。
戸倉がなぜそんなことを言い出したのか、すぐには分からなかった。葵を見ても、彼女はこちらへ顔を向けない。
朝倉の視線が葵へ戻った。
「拾ったんですか」
「うん。あのままだったら、戸倉も玲司もやられてたから」
「だから使った、と」
「ほかにどうすればよかったの」
葵の声が強くなった。机に置いた右手を握りかけ、途中で指を緩める。
「玲司、立てなくなってたんだよ。あいつ、まだ殴る気だったし」
「襲われていた状況は分かっています。薬をどこから持ってきたかを聞いているんです」
「だから、俺だって言ってんだろ」
戸倉が割って入ると、朝倉はそちらへ向き直った。
「持っていたのは一錠だけですか」
「ああ」
玲司はボトルを口へ運んだ。飲み口が傷に触れ、思ったより痛かったが、そのまま少し水を飲んだ。今こちらを見られたら、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
朝倉は三人を順に見てから、机の上のスマートフォンを取った。
「ひとまず、そういう説明だったと久世さんに伝えます。あとで改めて確認しますから」
「今言っただろ」
「戸倉さんだけに言っているんじゃありません」
朝倉は玲司にも目を向けた。咄嗟に頷きそうになったのをこらえると、余計に口元がこわばった。
朝倉が電話をするため玄関を出ていくと、葵はボトルを机へ置いた。
「あんた……」
「もう喋りたくねえ。口が痛い」
戸倉は毛布を引き寄せ、ソファへ横になろうとした。背中を庇って体をずらすうちに、膝の間のボトルが傾いた。
葵が椅子から手を伸ばして支えた。
「蓋くらい閉めてよ」
「分かってる」
戸倉は差し出されたボトルを受け取り、蓋を締めた。葵もそれ以上は聞かなかった。
玲司は机のそばへ椅子を寄せた。戸倉が葵をかばうとは思ってもいなかった。それで何もかも水に流せるわけではないが、早く出ていけとも言いにくくなった。
廊下で靴音がした。
戸倉がすぐに上体を起こした。片足を床につけ、玄関を睨んでいる。外の警察官が朝倉へ声をかけるのが聞こえるまで、その姿勢を崩さなかった。
「見張りの人だろ」
玲司が言うと、戸倉は顔をそむけた。
「分かってるよ」
今度は横にならず、ソファの端に座り直した。玲司は何か言おうとしたが、やめた。まだ水を一口も飲んでいない戸倉の手で、ボトルの胴がへこんでいた。
*
朝倉は玄関から少し離れ、廊下の端で久世へ電話をかけた。
「全員、無事に着きました。今のところ、周りに不審な動きはありません」
到着を伝えてから、葵が使ったギアについて話した。戸倉が持っていた一錠を落とし、葵が拾ったという説明をすると、久世は短く聞き返した。
「お前はどう思う」
「信じていません。篠崎さんが答えに詰まってから、戸倉さんが話し始めました。黒瀬さんも、急に黙りましたし」
「あいつが黙るときは、大抵ろくなことじゃないな」
朝倉は閉まった玄関を見た。
「ここに、まだ持っているんじゃないでしょうか」
「俺もそう思う。落ち着いたら部屋も調べる。今は、ひとまずそういうことにしておけ」
「はい」
「葵の具合は」
「手と脚が痛むようです。受け答えは普通ですが、かなり疲れています」
「様子が変わったら、すぐ連絡しろ」
朝倉は返事をし、室内へ戻りかけて足を止めた。
「戸倉さんの件は、どう進めるんですか」
「明日、動く。あいつは逃げたことにする」
「逃げた?」
「襲われたあと助け出したが、署へ連れていく前に逃げられた。そのあとで、潜伏先らしい場所の情報が入ったことにする」
朝倉は声を落とした。
「伝える相手は、もう決まっているんですか」
「三人までは絞れてる。だが、誰が漏らしてるのか決め手がない。それぞれ違う場所を伝えて、反応を見る」
「そこに誰か来れば……」
「どこから漏れたか分かる。本当の居場所は出さない」
朝倉は玄関の前に立つ警察官へ目をやった。こちらに気づいた彼が、何かあったかという顔をする。朝倉は首を振ってから、電話へ意識を戻した。
「こちらの三人には、どこまで話しておきますか」
「逃げたことにする、とだけ言っておいてくれ。あとはお前ら、そこから動くな」
*
翌日の昼前、久世は署の廊下で、捜査に加わっている刑事の相馬俊介を呼び止めた。
「戸倉に逃げられた」
相馬は抱えていた書類から顔を上げた。
「昨夜、見つかったんじゃなかったんですか」
「襲われていたところを助けた。だが、連れてくる前に逃げられた」
「何やってるんですか」
「言ってくれるな。こっちも、もう少し大人しくしてると思ったんだよ」
相馬は呆れたように口を閉じた。通りかかった職員を先に行かせ、久世のそばへ寄る。
「行き先は」
「一つ、情報が入ってる」
久世はスマートフォンに地図を出した。江戸川区平井にある、二階建ての古いアパートだった。
「取り壊し前で、今は誰も住んでいない。戸倉が二階の二〇三に潜り込んでるらしい」
「確かなんですか」
「まだ裏を取ってる。今のところは、そこが一番ありそうだ。夕方からこっちで当たる」
相馬は地図を覗き込み、住所と部屋番号を確かめた。久世は画面を消さず、相馬が顔を上げるのを待った。
「動くときは手を貸してもらう。それまでは広げるな。また消えられると面倒だ」
「分かりました。今度は逃がさないでくださいよ」
「分かってる」
相馬が廊下の角を曲がるまで、久世はその場にいた。途中で携帯を出すことも、急に足を速めることもなかった。いつもどおりに歩いていく同僚の背中を見ていると、こんな話を吹き込んだ自分の方が間違っているような気もした。
残る二人にも、別々に話をした。戸倉が昨夜逃げたことと、潜伏先を探っていることは同じにして、場所だけを変えた。
三か所とも、すでに見張りを置いてある。
最後の連絡を終え、車へ向かう途中で、朝倉から電話が入った。
「戸倉はどうしてる」
「室内にいます。外出しようとする様子はありません。ただ、逃げたことにすると伝えたら、余計なことをするなと怒っていました」
「そうか。もう少し我慢してもらってくれ」
久世は通話を切り、駐車場へ歩いていった。
*
午後四時を少し過ぎた頃、平井のアパートの前を、銀色のワゴン車がゆっくり通り過ぎた。
久世は通りの反対側に止めた車の助手席で、顔を上げた。アパートには色褪せた雨戸が並び、外階段の下に空の植木鉢が重ねてある。昼過ぎから見ていたが、敷地へ入った者は一人もいなかった。
ワゴン車は先の角を曲がり、見えなくなった。
運転席の刑事が久世を見た。久世はまだ何も言わず、曲がり角へ目を向けていた。
少しして、男が二人、歩いてきた。一人は紺色の上着を着ており、もう一人は黒い手提げ袋を持っている。紺色の男は歩きながらスマートフォンを見て、アパートの前で足を止めた。
二人が短く言葉を交わす。紺色の男が先に敷地へ入り、手提げ袋の男が通りを見回してから続いた。
久世はシートに身を沈めた。フロントガラス越しに外階段が見える。先を行く男は一階の部屋には見向きもせず、二階へ上がっていった。
ほかの二か所からは、動きなしと報告が来ていた。
久世は無線へ手を伸ばした。
二人が止まったのは、二〇三号室の前だった。紺色の男が呼び鈴を押し、もう一人は手提げ袋から抜き出した刃物を、体の脇へ下げた。




