第38話 もう逃げねえ
玲司は葵を追ってビルへ入り、狭い階段を駆け上がった。二階へ近づくにつれ、靴が床を擦る音と、苦しそうな男の息遣いがはっきり聞こえてくる。
踊り場の先で、ドアが半分開いていた。隙間から覗くと、使われていない事務所のようだった。机が二つ残り、壁際の棚は扉が外れている。その奥で、戸倉が灰色のTシャツを着た男に胸ぐらを掴まれていた。
ほかにも二人いる。入口に近い黒いパーカーの男と、戸倉の横へ回ろうとしている短髪の男。二人とも、手に刃物を握っていた。
戸倉が机を蹴るようにして体をずらした。短髪の男の刃先がシャツをかすめ、戸倉はその腕にしがみつく。灰色の男が、なおも襟を引いていた。
「三人かよ……」
玲司は葵の隣へ身を寄せ、声を落とした。葵は室内を見つめながら、上着のポケットに手を入れている。
「お前、ギア持ってんのか」
「……一錠だけ」
「いつ持ってきた」
「中野出る前。何かあったらって思って」
朝倉にも、玲司にも黙って持ち出したらしい。文句を言いかけたところで、戸倉の背中が机の角へぶつかった。喉の奥から絞り出すような声に、葵がドアへ手をかける。
玲司はその前へ出て、扉を押し開けた。
「何やってんだ!」
黒いパーカーの男が振り返った。玲司たちを見るなり、刃物を腰の辺りへ隠す。だが、後ろの二人は戸倉から離れようとしなかった。
「関係ねえだろ。出てけ」
「そいつを放せ」
戸倉が顔を上げた。左目の周りが腫れ、口元から流れた血が顎に筋を作っている。玲司を見ても、すぐには何も言わなかった。
パーカーの男が近づいてくる。下げていた手が上がり、刃先がこちらを向いた。
「出てけって言ってんだよ!」
玲司は入口脇の椅子を掴み、二人の間へ突き出した。男の腕が椅子の背にぶつかり、硬い音が鳴る。押し返される前に体重をかけると、男は椅子ごと後ろへ下がった。
相手が足を踏ん張り、刃物を持つ手を横へ出そうとする。玲司は椅子を押しつけたまま肩からぶつかった。壁へ追い込まれた男が呻き、刃物が床に落ちる。
男は空いた手で玲司の顔を掴もうとした。玲司も必死だった。その腕を払って腹を殴り、かがんだ相手の顔へもう一発入れた。男は椅子を巻き込んで崩れ、床へついた手にも力が入らなくなった。
玲司は落ちた刃物を蹴って遠ざけた。自分の拳が痛い。殴ったところが擦れ、皮がむけていた。
「玲司、奥!」
葵の声に顔を上げると、灰色の男が戸倉を放してこちらへ向かっていた。手には何も持っていない。後ろでは、戸倉が短髪の男の腕を掴んだまま、机越しにもみ合っている。
こいつをどかせば、戸倉のところへ行ける。
玲司は近づく男へ踏み込み、顔を殴った。拳は当たり、鼻から血も出た。それなのに男は足を止めず、顎を引いて玲司を見た。
まずい、と思ったときには間に合わなかった。
男の拳が頬へ入った。
顔だけを横へ持っていかれたような衝撃だった。足が床を捉えられず、玲司は肩から倒れた。起きようとして手をついたが、腕が曲がって、また床へ顔が近づく。
「玲司!」
葵が駆け寄ってきた。返事をしようとすると顎が痛み、口の中に血の味が広がった。
「……こいつ、何だよ」
「そいつはギアだ!」
机の向こうで戸倉が怒鳴った。短髪の男に腕を振りほどかれかけ、靴底を滑らせながら踏みとどまっている。
「入ってきて、いきなり飲みやがった……!」
灰色の男は鼻血を拭いもせず、玲司のそばへ来ようとした。葵が間に立つと、邪魔だと言わんばかりに腕を伸ばしてくる。
葵はその手を避け、玲司を入口脇の机の陰へ下がらせた。ポケットから取り出した小さな包みが開かれ、灰色の錠剤が指先に見えた。
「葵」
「そこで待ってて」
止める言葉を探す間に、葵は錠剤を口へ入れた。喉を動かして飲み込み、空の包みをポケットへ押し戻す。
真壁から受け取った五錠。そのうちの一錠だった。
灰色の男が机を回ってきた。葵は玲司の前を離れ、相手を部屋の中央へ引きつける。顔へ飛んだ拳を避けたものの、続けて肩を押され、棚の手前まで下がった。
「おい、こっち片づけろ!」
短髪の男が戸倉ともみ合いながら叫んだ。戸倉の膝が落ちかけ、机を掴んでいた指が滑る。
玲司は立とうとした。まだ頬の痛みが頭の奥まで響き、片膝を立てるだけで吐き気がした。それでも、葵一人に任せたまま座っているのは嫌だった。
机の縁へ手を伸ばしたとき、葵の足が止まった。
今度は下がらなかった。
迫る拳の外へ身をずらし、そのまま相手の懐へ入る。右拳が男の腹へ深く入り、詰まったような声が漏れた。男の体が後ろへ飛び、壁際の棚へぶつかった。棚が壁にぶつかって大きな音を立て、割れた背板が男の足元へ落ちた。
玲司は机に手をかけた姿勢のまま、動きを止めた。
あの力は知っている。それでも、目の前で見るたびに信じがたかった。さっき一発で自分を倒した男が、腹を抱えて棚にもたれている。
男は荒い息をつきながら、なお葵へ手を伸ばした。
「まだやんの?」
葵が聞いても、男は答えなかった。棚から離れ、肩を振って殴りかかる。葵はその腕を避け、踏み込んできた男の腹へ蹴りを入れた。
男は体を折って床へ倒れた。片手をついて起き上がろうとしたが、膝が持ち上がらない。葵はそれ以上近づかず、戸倉の方へ向き直った。
短髪の男が、戸倉の腕を振りほどいたところだった。戸倉が机の脇へ崩れる。葵が駆け寄ろうとすると、男は刃物を向け、横へ大きく振った。
「来んな!」
葵の足が一度止まる。男は刃物を構え直し、入口へ目を走らせた。その視線の先には、まだ玲司がいた。
逃げる気だ。
玲司が身構えたとき、男は葵を押しのけるように踏み込んだ。刃先が葵の脇を抜ける。葵は半身になってかわすと、伸びきった腕を押さえ、男の腹へ右拳を打ち込んだ。
「二人とも、勝手に――」
朝倉が戸口へ飛び込んできたのは、その瞬間だった。
短髪の男の足が浮き、背中から壁へぶつかる。刃物が落ち、男もその横へ崩れた。朝倉は言葉を切り、倒れた男と葵を見比べた。
「……今、人が飛びませんでした?」
「ひなちゃん、そこ踏まないで。刃物」
葵が床を指した。朝倉はすぐに足元を確かめ、男を刃物から離れさせる。
「三人ですか。ほかには?」
「見たのは三人」
玲司が答えると、朝倉はこちらの顔に気づいた。
「黒瀬さん、その顔……」
「殴られた」
「動かないでください。応援はもう近くです」
朝倉は葵にも目を向けた。
「篠崎さん。さっきの力のことは、あとで聞きます」
葵が答える前に、朝倉は室内を見渡し、起き上がりかけたパーカーの男へ動くなと声を張った。さっきの驚きは残っていても、視線は倒れた三人から離さなかった。
*
警察官たちが階段を上がってきてから、部屋は急に狭くなった。
襲撃者三人は全員、その場で確保された。二本の刃物も押さえられ、朝倉が到着時の状況を説明している。灰色の男は警察官に両腕を押さえられてなお体を起こそうとしたが、さっきの勢いはなかった。
玲司は壁際に座り、渡されたガーゼを口元へ当てていた。隣へ来た葵も腰を下ろし、右手を開いたり閉じたりしている。
「手、痛いのか」
「ちょっと。脚もだるい」
葵は膝へ手を置いた。立っていたときには分からなかったが、肩も大きく上下している。あれだけ動いた身体が何ともないはずはなかった。
「……四つ、残ってるんだよな」
玲司が声を落とすと、葵は周囲を確かめてから頷いた。
「持ってきたのは一つだけ」
「勝手に持ち出すなよ」
「持ってなかったら、どうしてたの」
玲司は答えられず、ガーゼを口元へ押し当てた。助かった。その事実があるから、余計に腹が立った。
葵は玲司の頬へ顔を近づけ、腫れたところを見た。
「一人目、ちゃんと倒したじゃん」
「二人目もいけると思ったんだよ」
「無理だったね」
「見てたなら言うな」
少し笑おうとして顎が痛み、玲司は顔をしかめた。葵も笑いかけたが、向かいにいる戸倉を見て口を閉じる。
戸倉は机にもたれて座っていた。血を拭かれても顔の腫れは残り、シャツの襟は大きく伸びている。朝倉は久世へ連絡を入れ、戸倉のことも伝えていた。
戸倉が玲司たちを見た。
「何でここが分かった」
「真壁から電話が来た。お前が危ないって」
戸倉は目を伏せ、鼻から短く息を吐いた。
「……そうかよ」
「ここも真壁に言われて来たのか」
「違う。隠れる場所を変えろって、メッセージが来たんだよ。ここで待ってろってな」
戸倉は引き伸ばされた襟元を見下ろした。
「待ってたら、こいつらが来た」
玲司は、警察官に囲まれている三人へ目を向けた。誰も戸倉と目を合わせようとしない。
「知ってる奴らじゃないのか」
「初めて見る顔だ。誰に言われたか聞いても、何も喋りゃしねえ」
戸倉はそこまで言うと、ドアの方を見た。階段では警察官が行き来し、外からも無線の声が聞こえる。
舟渡では、サイレンを聞いた途端に逃げた男だった。
今回は、立とうとしなかった。
「……もういい」
戸倉が呟いた。葵が顔を上げる。
「何が」
「警察行く。逃げ回って、最後がこれじゃ割に合わねえ」
投げ出すような言い方だったが、入口を見る目は動かなかった。
「捕まんの嫌だったんでしょ」
「嫌に決まってんだろ」
戸倉は葵を睨んだ。その顔が痛んだのか、すぐに頬へ手をやる。
「でも、もう逃げねえよ」
葵は少し黙ってから、戸倉へ言った。
「じゃあ、借りは返したからね」
「頼んでねえ」
「私だって、あのとき頼んでないし」
戸倉は言い返さなかった。目をそらし、血のついた指先をズボンへ押しつける。玲司も二人の間へ口を挟まなかった。
朝倉が電話を終えて戻ってきた。
「久世さんがこちらへ向かっています。戸倉さん、そのまま待っていてください」
戸倉は頷きもせずに座っていたが、朝倉が警察官に呼ばれて離れると、玲司たちへ顔を向けた。
「お前ら、まだギア調べてんのか」
「何か知ってんの?」
葵が身を乗り出した。
「街で広く流してるやつは、大田区の方で作ってるらしい」
玲司は口元からガーゼを離した。
「大田区?」
「ああ」
「場所は」
「そこまでは知らねえ。聞いただけだ。俺が作るわけじゃねえからな」
玲司は続きを尋ねかけたが、戸倉の顔を見てやめた。住所を隠して駆け引きしているようには見えなかった。戸倉はもう二人から顔をそらし、腫れた頬を手で押さえていた。
*
久我が応接室へ戻ると、テーブルに置いた携帯電話が鳴っていた。画面を見てドアを閉め直し、来客の使った湯呑みを端へ寄せてから、ソファへ座る。
「真壁か」
『お前が向かわせた三人、全員捕まったぞ』
久我は湯呑みから手を離した。終われば報告を寄越すことになっていたが、まだ何も届いていなかった。
「誰から聞いた」
『見張りからだ。今、連絡が来た。生きてる』
「……警察が来たのか」
『そうだ。止めろと言ったはずだぞ』
久我はソファへ背を預けた。目の前には、来客に渡すつもりで忘れていた菓子折りが残っている。あとで届けさせようと思っていたが、もうそれどころではなかった。
「お前が何かしたのか」
真壁は答えなかった。久我が待っていると、電話の向こうで車の走る音が遠ざかった。
『まだ使える人間だと言っただろう。俺の話も聞く。殺す必要はなかった』
「お前には使い道があるんだろうな。こっちは、警察に捕まったら何を喋るか分からん奴を、ずっと抱えてなきゃならない」
『だから、勝手に殺すのか』
「あいつはもう邪魔なんだよ。だから消そうとした。それの何が悪い」
久我の声が大きくなった。ドアの外で足音が止まりかけたので、久我は返事を待たずに立ち上がり、部屋の奥へ歩いた。
『その結果、どうなった。生きたまま警察に囲まれてるぞ。これで安心か』
「うるせえな。失敗したからって、今さら正しかったような顔をするなよ」
『失敗する前から止めてたんだ』
久我は窓際で足を止めた。カーテンの隙間から、向かいのビルの窓が見えた。人影が動いたので、布を引いて隙間を閉じる。
「誰のせいで失敗したか、まだ分からんだろ」
『俺を疑いたいなら疑え。だが、俺が使ってる人間に手を出すなら、先に話を通せ』
「何でお前に決めてもらわなきゃならない」
真壁が何か言いかけたが、久我は電話を切った。ソファへ戻り、携帯電話をテーブルへ置く。菓子折りが邪魔になり、脇へ押しやると、角が湯呑みに当たった。
倒れた湯呑みから、残っていた茶が広がった。久我は包み紙に染みができるのを見て舌打ちし、ドアの方へ声を張った。
「誰かいないのか!」
*
久世が来たとき、玲司は廊下の椅子へ移っていた。部屋の中では、救急隊員が戸倉の傷を確認している。
「お前、また殴られたのか」
顔を見るなり言われ、玲司はガーゼを持ち上げた。
「見れば分かるでしょ」
「朝倉を置いていくからだ」
言い返せなかった。久世はそれ以上責めず、戸倉のいる部屋へ入った。
しばらくして、傷の手当てを終えた戸倉が出てきた。足取りは重かったが、自分で歩いている。久世に促され、廊下の端へ腰を下ろした。
「出頭するつもりだって?」
「そう言っただろ」
「知ってることは話してもらうぞ」
「知らねえことまで聞くなよ」
久世は戸倉の顔を見たまま、少し黙った。それから朝倉を近くへ呼び、部屋の中へ一度目をやる。
「こいつの移動先は、俺から伝える。今は広げるな」
朝倉の顔つきが変わった。
「署へ連れていくんじゃないんですか」
「その前に、少し待ってもらう」
今度は戸倉が久世を見た。
「何だよ。行くって言ってんだろ」
「逃がす話じゃない。お前の本当の居場所を伏せたまま、確かめたいことがある」
玲司は椅子から顔を上げた。
「誰に伏せるんですか」
久世はすぐには答えず、声を落とした。
「前に、お前らの本名が向こうへ知られてた件があっただろ。こっちの情報が外へ出てる可能性も、まだ捨ててない」
玲司は葵を見た。葵ももう戸倉ではなく、久世を見ていた。
「警察の中から?」
「決めつけてはいない。だから確かめる」
久世はそれ以上説明せず、朝倉へ向き直った。
「中野を使う。戸倉は、一時的にあそこへ置く」
「待ってください」
玲司は腰を浮かせた。
「あそこ、俺の仕事場なんですけど」
「知ってる。朝倉にも残ってもらうし、こっちでも人をつける」
「そういう話じゃなくて。俺たちのいる部屋へ、またこいつらの仲間が来るんじゃないんですか」
「中野を餌にするつもりはない。向こうへ伝わるか確かめるのは、別の場所だ」
葵が戸倉を見た。戸倉も不満そうだったが、立ち上がろうとはしなかった。
久世は二人の反応を確かめ、最後に玲司へ目を戻した。
「戸倉は今夜、中野へ移す。正式な出頭は、こっちの確認が済んでからだ」
お読みいただき、ありがとうございます。
指定薬物制度と覚醒剤取締法との違いについて簡単に説明を致します。
【覚醒剤と指定薬物は、どう違う?】
メタンフェタミンなどの「覚醒剤」は、覚醒剤取締法で規制されています。一方、「指定薬物」は、新たに出回る危険ドラッグなどの成分を厚生労働大臣が指定し、薬機法で規制する仕組みです。「指定薬物」は、違法な薬物すべてを指す名前ではありません。
罰則にも違いがあります。自分で使うための不正な所持・使用の場合、覚醒剤は10年以下の拘禁刑。指定薬物は3年以下の拘禁刑、または300万円以下の罰金で、両方が科されることもあります。
作中のギアは、既存の覚醒剤とは異なる新成分が見つかり、健康被害の確認を経て「指定薬物」として規制される設定です。




