第37話 近いから急げ
葵が投げたボールは、ほとんど真ん中から十本のピンへ突っ込んだ。
乾いた音が重なり、一瞬遅れて全部のピンが倒れる。
「よし」
戻ってきた葵が小さく拳を握った。
新宿コパボウルのレーン脇で、玲司はスコアの表示を見上げる。
「お前、さっきから調子よすぎない?」
「実力」
「二ゲーム目で急に実力出てくんのかよ」
「玲司が下手になってるだけじゃない?」
「なってねえよ」
「さっき七本だったじゃん」
「あれはボールが悪かった」
「ボールのせいにする人、初めて見ました」
隣に座っていた朝倉にまで言われ、玲司は振り返った。
「朝倉、どっちの味方だよ」
「どちらの味方でもありません」
「じゃあ黙ってろよ」
「黒瀬さんの番ですよ」
朝倉がレーンを指す。
「分かってるよ」
玲司は立ち上がり、ボールを取った。
平日の夜だったが、フロアにはそれなりに客がいる。隣のレーンでは大学生らしい四人組が騒ぎ、その向こうでは仕事帰りらしい男女が写真を撮っていた。ピンの弾ける音とボールが床を転がる低い音が、途切れることなく続いている。
玲司は助走をつけ、ボールを放った。
最初は悪くなかったが、途中から少し右へ流れた。
「あ」
葵が声を出す。
「言うな」
ボールは右端のピンを巻き込み、八本を倒した。
玲司は振り返らずに戻る。
「二本残りましたね」
「見りゃ分かる」
「惜しかったね」
「お前、笑ってるだろ」
「笑ってないし」
明らかに笑っている。
玲司はもう一投して一本だけ倒した。
席へ戻ると、葵がスコアを確認している。
「これ、私勝つんじゃない?」
「まだ終わってねえから」
「負けたらジュースね」
「いつ決まったんだよ」
「今」
「勝手に決めんな」
言い返していると、テーブルの上に置いたスマートフォンが震えた。
玲司は画面を見る。
非通知。
一度目の振動で切れるかと思ったが、そのまま鳴り続けている。
「誰?」
「知らねえ」
葵が画面を覗こうとする。
玲司はスマートフォンを取った。
「もしもし」
『黒瀬か』
聞き覚えのある声だった。
玲司は姿勢を変えた。
さっきまでスコアを見ていた葵が、その変化に気づいてこちらを見る。
「……真壁?」
朝倉も顔を上げた。
電話の向こうで、玲司の問いには答えず、真壁が言った。
『今、コパボウルにいるだろ』
玲司の眉が寄る。
反射的に周囲を見た。
レーンの後ろ、ゲーム機の並ぶ方、出入口。こちらを気にしている人間がいるようには見えない。
「何で知ってんだよ」
『戸倉が危ない』
「は?」
葵が立ち上がった。
玲司はスマートフォンを耳に押しつける。
「どういうことだよ」
『場所送る』
「待て。何が――」
『近い。急げ』
「だから何があったんだよ」
『急げ』
通話が切れた。
「おい」
玲司が画面を見る。
非通知の表示だけが残っている。
「真壁?」
葵が聞いた。
「ああ」
「何て?」
「戸倉が危ないって」
「戸倉?」
朝倉が立ち上がる。
「場所は」
「送るって」
言った直後、玲司のスマートフォンに別の通知が入った。
匿名のメッセージアプリだった。
開くと、見覚えのないアカウントから一件だけメッセージが届いている。
文章はない。
位置情報だけだった。
「……誰?」
横から葵が覗き込む。
「知らねえアカウント」
「真壁?」
「たぶんな」
玲司が地図を開く。
歌舞伎町二丁目。大久保公園の北東側、一本入った通りにピンが立っている。
「ここから近い」
玲司が言うと、朝倉が画面を覗き込んだ。
「真壁さんは、戸倉さんがここにいると言ったんですか」
「危ないって言っただけ。あとは急げって」
「何が危ないかは?」
「言ってねえ」
「何で私たちがここにいるって知ってたの?」
葵が周囲を見る。
「知らねえよ」
玲司ももう一度店内へ目を向けた。
さっきまで何とも思わなかった客の顔が、急に気になってくる。この中の誰かが見ていたのか。それとも店へ入る前からなのか。考えても分からない。
「行くぞ」
玲司が言った。
「ちょっと待ってください」
朝倉が止めた。
「何だよ」
「行かないとは言ってません。先に警察へ連絡します」
朝倉はもうスマートフォンを取り出していた。
玲司と葵は急いでボウリングシューズを脱ぐ。
「こんなときに靴……」
葵が紐を引っ張る。
「それで外走る気かよ」
「分かってるって」
玲司も自分の靴へ履き替えた。
急いでいると、普段なら数秒で終わることまで妙に長く感じる。
三人がフロアを出た頃には、朝倉はもう電話をかけていた。
エレベーターを待つ。
表示されている数字がなかなか変わらない。
「階段」
葵が言った。
「行くぞ」
三人で非常階段へ向かった。
朝倉は走りながら、電話の相手に場所を伝えている。
「歌舞伎町二丁目、大久保公園の北東側です。位置情報が送られてきています。そこで暴力沙汰になっている可能性があります。男性一名が危険な状態かもしれません」
階段を下りる足音が重なる。
『現場を確認されていますか』
「まだです。こちらも今向かっています」
玲司が振り返った。
朝倉は通話を続けながら階段を下りてくる。
「先行くぞ!」
「待ってください!」
朝倉の声が飛んだが、玲司と葵はそのまま一階まで駆け下りた。
外へ出ると、歌舞伎町の夜は店内よりさらに騒がしかった。
客引きの声や外国人観光客の話し声、店から漏れる音楽が入り混じっている。道の端では酒に酔った男が友人に肩を借りて歩いていた。
玲司と葵は、その間を抜けていく。
「こっち!」
葵が地図を見ながら曲がった。
「お前、場所分かってんの?」
「地図見てる!」
「ならスマホ見ながら走るな!」
「玲司より速いから平気!」
「そういう問題じゃねえよ!」
後ろから朝倉の声が聞こえた。
「二人とも待ってください!」
交差点を越えたところで玲司が一度振り返ると、朝倉はすでに人波の向こうまで離れていた。スマートフォンを耳に当てたまま、通報先から聞き返されたことに答えているらしく、その場で足を止めている。
玲司は前へ向き直った。
「行くぞ」
「うん」
二人は速度を落とさなかった。
届いた位置情報の地点までは、それほど距離がない。
大久保公園の近くまで来ると、派手な店が並ぶ通りから外れた。大通りを一本入っただけで人通りが減り、地図のピンもすぐそこまで近づいている。
玲司と葵が角を曲がると、四階建ての古い雑居ビルが見えた。一階のシャッターは閉まっており、上の階にも明かりはほとんどない。入口だけに小さな照明が点いている。
「ここ?」
葵がスマートフォンを見る。
「合ってる」
玲司が答える。
警察車両のサイレンはまだ聞こえない。
朝倉もまだ来ていない。
「待つ?」
葵が聞いた。
玲司は建物を見上げた。
そのとき、二階から鈍い音がした。
二人が同時に顔を上げる。何か重いものが壁か床へぶつかり、続けて物が倒れる音が響いた。
「……今の」
葵が言いかけた。
今度は男の声が聞こえた。
「離せ!」
くぐもっていたが、玲司にも聞き覚えがあった。
葵が入口へ向き直る。
「戸倉」
もう一度、二階で大きな音がした。
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日本の指定薬物制度について、4回に分けてわかりやすく説明いたします。
そして、新宿コパボウルについてご紹介します。
【4回目 実際には、どんな薬物が指定されている?】
具体例には、次のようなものがあります。
・エトミデート
「ゾンビたばこ」と呼ばれる危険ドラッグに含まれる成分。海外では麻酔薬として使われていますが、日本では未承認で、2025年5月から指定薬物として規制されています。
・亜硝酸イソブチルなど
「ラッシュ」と呼ばれる薬物に含まれる成分です。2007年から指定されています。
・CBN
2026年6月から新たに規制が始まった成分です。指定される物質は、調査や危険性の評価に応じて追加されています。
【新宿コパボウルとは?】
新宿・歌舞伎町の中心で、1971年から営業を続けてきた老舗ボウリング場。新宿エリアでは最後まで残った唯一のボウリング場で、54年間にわたり歌舞伎町の遊び場として親しまれてきました。
大きな特徴は、夜の街らしく朝まで遊べたこと。時期によって営業時間は異なりますが、「ほぼ24時間営業」「オールナイト営業」と紹介されていた時代もあり、近年も午前11時から翌朝6時30分まで営業。終電を逃した人や、始発までの時間を過ごす人たちにも利用される、歌舞伎町らしい深夜スポットでした。
昼は学生や家族連れ、夜になると会社員や歌舞伎町で働く人たちが訪れるなど、時間帯によって客層が変わるのも特徴でした。
そして2026年9月30日、契約満了により閉店。1971年10月28日の開業から続いた54年間の歴史に幕を下ろしました。




