第36話 捨てなかった
ギアの主成分が指定薬物として規制されたのは、ニュースが出てから十日ほど後だった。
施行日の朝、大雅は寮の食堂でそのニュースを見た。
壁に掛けられたテレビでは、昨日から何度も聞いた内容が繰り返されている。
『本日から、医療など認められた用途を除き、対象成分の所持や使用などが禁止されます』
隣のテーブルにいた部員が、箸を持ったままテレビを見上げた。
「これ、最近ニュースでやってたやつだろ」
「ギア?」
「そう。それ」
大雅は味噌汁を飲んだ。
誰も自分を見てはいない。
それでも、ケースを置いている自分の部屋が急に気になった。
捨てる時間はあった。
ニュースで規制されると知ってから今日まで、何度でも捨てられた。ゴミ箱へ入れるだけなら、数秒で終わったはずだった。
それでも残した。
大雅はテレビから目を逸らした。
「大雅さん、今日ミーティングあるの知ってます?」
向かいから声をかけられた。
二年の部員だった。
「何の?」
「全員集合です。練習前に」
「聞いてねえ」
「朝、連絡来てましたよ」
大雅はスマートフォンを出した。
部の連絡用グループに、確かにメッセージが入っている。
――本日の練習前、寮の共用スペースに全員集合。
理由は書かれていなかった。
大雅は画面を閉じた。
*
集合場所へ行くと、普段のミーティングとは雰囲気が違っていた。
監督だけではない。
大学の学生担当職員と、見覚えのないスーツ姿の男が二人いる。そのうち一人は大学本部の人間らしく、監督と小声で何かを確認していた。
部員たちも落ち着かない。
「何これ」
「北川の件じゃね?」
そんな声が聞こえる。
大雅は後ろの方に立った。
森川も少し離れたところにいる。
一瞬だけ目が合った。
森川はすぐに逸らした。
北川が倒れてから、二人はほとんど話していなかった。
全員が集まったところで、大学職員が前へ出た。
「今日は練習前に確認があります」
部員たちの話し声が止まる。
「先日の練習中、部員一名が意識を失い、救急搬送されました。現在は回復していますが、大学としても事実関係の確認を進めています」
北川の名前は出さなかった。
出さなくても全員が分かっている。
「また、警察から大学側にも当日の状況について確認がありました」
ざわめきが起きた。
大雅の腹に力が入る。
「警察?」
誰かが聞き返した。
職員は続けた。
「現時点で、大学として誰かの犯罪行為を確認しているわけではありません。ただ、部内に正体の分からない薬物などが持ち込まれていないか、確認が必要だと判断しました」
大雅は森川を見た。
森川もこちらを見ていた。
今度は逸らさなかった。
「本日、アメリカンフットボール部員全員を対象に、寮内へ持ち込んでいる荷物を確認します。特定の誰かを対象にするものではありません。本人立ち会いの上で、荷物確認への協力をお願いします」
「全員ですか?」
「何で俺らまで?」
質問が飛ぶ。
職員は、一人ずつ順番に行うことだけを説明した。
大雅は自分の部屋がある方向を見る。
ケースはバッグの奥にある。
今なら取りに戻ることはできる。
だが、一人ではない。
職員が付き添い、順番に自室へ戻って荷物を持ってくることになっていた。
捨てる時間は、もうなかった。
「……嘘だろ」
声にならないくらい小さく漏れた。
森川が聞いたのかどうかは分からなかった。
*
確認は一人ずつ行われた。
呼ばれた部員は職員と一緒に自室へ戻り、普段使っているバッグや荷物を共用スペースへ持ってくる。そこで本人が中身を出し、大学側が確認する。
プロテインや市販のサプリメント、テーピング用品、鎮痛剤などが次々に机へ並んだ。
何人かは文句を言っていたが、大きな問題になる物は出てこない。
大雅の順番が近づいた。
職員と部屋へ戻り、自分のバッグを持つ。
その重さを感じた瞬間、奥に入っているケースまで意識してしまった。
今さらどうすることもできない。
共用スペースへ戻る途中、職員は何も話さなかった。
その沈黙が余計に苦しかった。
順番を待っていると、森川が近くまで来た。
「まだ持ってんの?」
小さな声だった。
大雅は答えない。
森川の表情が変わった。
「お前……」
「黙ってろ」
「ニュース見ただろ」
「見たよ」
「じゃあ何で――」
「桐生」
大学職員に名前を呼ばれた。
森川が口を閉じる。
大雅はバッグを持って前へ出た。
長机の前に立つ。
向こう側には学生担当の職員と、部の責任者がいた。
「本人の荷物で間違いないですね」
「はい」
「では、開けてください」
大雅は自分でファスナーを開いた。
練習着やタオル、予備のシャツ、テーピング用品、財布、小物を入れたポーチを順番に机へ出していく。
まだ底に残っている。
「ほかには?」
職員に聞かれた。
大雅は手を止めた。
「桐生君」
仕方なく、バッグの奥へ手を入れる。
指先に硬いケースが触れた。
大雅はそれを掴み、机の上へ置いた。
黒い小さなケース。
職員が見る。
「これは?」
大雅は答えなかった。
「桐生君」
「……サプリです」
自分でも苦しいと思った。
「中を見せてもらえますか」
大雅はケースを開けた。
中には、縁に切れ込みのある灰色の錠剤が数錠残っていた。
その場にいた人間が黙った。
少し離れて見ていた部員たちの話し声まで消える。
監督が大雅を見た。
「お前、それ何だ」
「だから、サプリです」
「何のサプリだ」
「……もらったやつです」
「誰に」
大雅は答えなかった。
森川がこちらを見ている。
学生担当の職員は、ケースへ触れずに隣の職員と短く話した。
それから大雅を見る。
「桐生君。申し訳ないですが、ここに残っていてください」
「何でですか」
「確認したいことがあります」
「俺の物ですよ」
「分かっています」
「だったら返してください」
「今は触らないでください」
声は強くなかった。
だからこそ、大雅も押し切れなかった。
職員の一人が少し離れ、スマートフォンを取り出した。
誰へ連絡するのか、聞かなくても分かった。
森川が目を伏せた。
*
警察官が寮へ来た頃には、ほかの部員の確認はほとんど終わっていた。
大雅は共用スペースの椅子に座っていた。
拘束されているわけではない。それでも、勝手に立って帰れるような空気ではなかった。
机の上にはケースが置かれたままだ。
警察官は大学側から経緯を聞いたあと、大雅の前へ来た。
「桐生大雅さん?」
「はい」
「これはあなたの物?」
ケースを示される。
大雅は少し迷った。
「……俺のバッグに入ってました」
「自分で入れた?」
答えなかった。
警察官は無理に続けなかった。
錠剤を見ただけで、ギアだと決めつけることもしない。
大学側から北川が倒れたときの状況を聞き、大雅にもいくつか確認した。
どこで手に入れたのか。
何のために持っていたのか。
自分で使ったことがあるのか。
大雅はほとんど答えなかった。
ただ一度だけ、自分から聞いた。
「これ、ギアなんですか」
警察官はケースを見た。
「調べないと分かりません」
それだけだった。
その後、錠剤は必要な手続きを経て詳しい分析に回されることになった。
大雅はその場では逮捕されなかった。
それが逆に怖かった。
*
数日間、大雅は練習に参加できなかった。
大学から自宅待機を求められ、寮の部屋で過ごした。
社会人チームから来ていた話も止まった。
正式に断られたわけではない。
だが、連絡は来ない。
大雅はベッドに横になり、天井を見る時間が増えた。
ギアはもう手元にない。
あれだけ捨てられなかったケースは、今は警察の手にある。
なくなってみると、体の一部を持っていかれたような気がした。
使いたい。
そう思った。
北川が倒れたことを思い出しても、それでも一度はそう思った。
自分でも嫌になる。
それでも、思ってしまう。
スマートフォンには森川から一度だけメッセージが来ていた。
《北川、退院した》
大雅は、
《そっか》
とだけ返した。
それから会話は続いていない。
*
午前中、寮の部屋がノックされた。
大雅はベッドから体を起こした。
大学の職員だと思った。
「はい」
ドアを開ける。
立っていたのは警察官だった。
その後ろにも二人いる。
大雅の体が止まった。
「桐生大雅さんですね」
「……はい」
一人が書類を示した。
何を言われているのか、最初の数秒は頭に入らなかった。
聞き取れたのは、自分の名前と、指定薬物という言葉だった。
押収された灰色の錠剤から、施行されたばかりの規制対象成分が確認された。
警察官が続ける。
「指定薬物を所持した疑いで逮捕します」
大雅は相手の顔を見た。
「……売ってないです」
自分でも、なぜ最初にそれを言ったのか分からなかった。
「俺、売ってないですよ」
警察官は表情を変えなかった。
「今は販売の話ではありません」
「自分で使ってただけです」
言ってから、森川と北川の顔が浮かんだ。
自分で使っていただけではない。
大雅は口を閉じた。
寮の廊下には、物音を聞いて出てきた部員が何人か立っていた。
遠巻きにこちらを見ている。
その中に森川はいなかった。
大雅は警察官に促され、建物の外へ出た。
グラウンドが見えた。
何度もパスを投げた場所だった。
森川が走り、その先へ何度もボールを投げた。
北川と笑いながら練習したこともある。
社会人チームの人間が見に来た日も、あそこでプレーしていた。
少し前までは、その先のことばかり考えていた。
パトカーのドアが開く。
大雅は乗り込む前に、一度だけグラウンドを振り返った。
何も言わなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
日本の指定薬物制度について、4回に分けてわかりやすく説明いたします。
【3回目 持っているだけでも罰則がある?】
指定薬物は、自分で使うために持っている場合も規制対象です。所持・使用・購入などに違反すると、3年以下の拘禁刑、または300万円以下の罰金となり、両方が科されることもあります。
業として製造・販売などを行った場合は、5年以下の拘禁刑、または500万円以下の罰金で、こちらも両方が科される場合があります。これらは法律で定められた上限です。なお、現在の「拘禁刑」は、従来の懲役と禁錮を一本化した刑です。




