第35話 まだ売れる
間宮が来たとき、久我は事務所の窓際に立って電話をしていた。
「分かった。代わりはこっちで探す。明日は休んでいいから」
向こうで相手が何か言うと、久我は少し笑った。
「謝ることじゃないだろ。生まれるんだから、行ってやれよ」
電話を切り、入ってきた間宮へ手を上げる。隣の部屋では事務員が帰り支度をしていて、二人分の話し声が開いたドアから聞こえていた。
「悪い。待たせたな」
「今来たところです」
「あいつ、三人目だって。店長になったばかりの頃は、結婚なんかできないって言ってたのにな」
久我は机へ戻り、椅子の背に掛けた上着を取った。間宮がいつものように予定を告げず、ドアを閉めるのを見て、上着へ通しかけた腕を止める。
「どうした」
間宮はスマートフォンの記事を開き、机の上へ置いた。
「ギアの件です。見ましたか」
久我は画面へ目を落とした。主成分が指定薬物に加えられるという見出しだった。午前中にも一度、同じ記事を読んでいる。
「見たよ。まだ今日からじゃないんだろ」
「猶予のあるうちに、止めませんか」
久我は間宮を見た。間宮は画面を戻さず、机の向こうに立ったままでいる。
上着を椅子へ戻し、久我は自分だけ腰を下ろした。
「何を止める」
「製造と販売です」
「全部?」
「はい」
久我は背もたれへ体を預けた。間宮がこうした言い方をするのは珍しかった。普段なら問題があっても、どの程度なら続けられるかを先に持ってくる。
「座れよ」
間宮は向かいの椅子を引いたが、背中を預けなかった。
「警察は、今まで以上に動きます。実際に倒れた人間も出ている。うちが続ければ、いずれ調べられます」
「前から調べてるだろ」
「だから止めるんです」
机に置かれたスマートフォンが暗くなった。久我はそれを見てから、間宮へ押し戻す。
「注文は減ったのか」
「そういう話ではありません」
「減ったかどうか聞いてる」
間宮はすぐには答えなかった。久我が待っていると、ようやく口を開いた。
「減っていません。昨日も、追加の話が来ています」
久我は片肘を机へついた。
「だったら、客は欲しがってるんじゃないか」
「欲しがる人間がいても、続けていいことにはなりません」
「お前、いつからそういうことを言うようになったんだ」
「今日、止めなければならないと思ったからです」
返されて、久我の指が机の上で止まった。
隣の部屋から退勤の挨拶が聞こえた。久我が返事をすると、外のドアが開いて閉まる。人の声がなくなった事務所で、間宮は記事を開き直した。
「店も、不動産もあります。全部なくしたいわけじゃないでしょう」
「なくす話にするなよ」
「その可能性があります」
久我は椅子へ深く座り直した。間宮の顔はよく見える。こちらを怖がって黙る顔ではなく、何とか話を聞かせようとしている顔だった。それが、かえって腹立たしかった。
「店一つ増やすのに、どれだけかかると思ってる。場所を探して、金を出して、人を揃えて。開けてからも、いつ黒字になるか分からない」
「分かっています」
「分かってるなら、簡単に言うな。こっちはもう利益が出てるんだぞ」
「だから惜しいんでしょう。でも、ほかまで失うよりはいい」
間宮は資料を一枚、鞄から取り出した。今期の各事業の数字をまとめたものだった。久我は受け取ったものの、途中まで見て机へ戻した。
飲食の利益も、不動産の収入も知っていた。間宮に紙を見せられるまでもなく、どの店に金がかかり、どの物件から金が入ってくるかは頭に入っている。
「これだけあれば十分だって言いたいのか」
「立て直せるうちに手を引いてほしいんです」
「立て直す必要なんか、まだない」
久我が紙を押すと、端が間宮の手に当たった。間宮は引き取らず、そのまま机へ残した。
久我は資料から目を離し、窓の外を見た。隣のビルにも明かりのついた窓が並んでいる。この部屋を借りたときには、まだ机が三つしかなかった。間宮はその頃からここにいて、家賃を払う前になると、久我より先に口数が減った。
あの頃は、金が入る話なら夜中でも出ていった。今は同じ男が、入ってくる金を捨てろと言っている。
「最初の店、覚えてるか」
「覚えています」
「あそこも、お前は無理だって言ったな」
「家賃が高すぎましたから」
「それでも、やってよかっただろ」
「あれは店です」
間宮が強く言ったので、久我は窓から顔を戻した。
「借金して店を出すのと、薬を売り続けるのは違います。あのときうまくいったから、今度も大丈夫だなんて言えません」
久我は間宮を見据えた。長い付き合いのせいか、この男は時々、自分と同じだけ決める権利があるような口を利く。
「説教をしに来たのか」
「止めに来ました」
間宮は目を逸らさなかった。
机の電話が鳴り、二人ともそちらを見た。久我は一度間宮へ視線を戻してから、受話器を取った。
さっき話した店長と同じ店の、副店長だった。明日の人手について相談され、久我は別の店から手伝いに出せる者の名前を挙げた。相手がそれで回せると言うと、声に少し笑いを含ませた。
「頼むよ。あいつ、子供が生まれるんだ。戻ってきて店が潰れてたら困るだろ」
電話の向こうでも笑い声がした。久我は残りの話を聞いて通話を終えたが、受話器から手を離しても、間宮はまだこちらを見ていた。
「何だよ」
「今の人たちも、困るんです」
久我の顔から笑いが消えた。
「俺が捕まったらって話か」
「はい」
「さっきから、俺を捕まえたくて仕方ないみたいだな」
「捕まってほしくないから言ってるんです!」
間宮の声が部屋に響いた。言った本人も少し息を詰めたが、謝らなかった。
久我は椅子から立ち上がった。間宮も立とうとしたので、その肩を見下ろしたまま言う。
「座ってろ」
間宮が腰を戻すのを待ち、久我は机の端へ手をついた。
「危ないのは分かってる。俺だって、何も考えずに金だけ数えてるわけじゃない」
「だったら――」
「聞けよ」
久我は声を強めた。
「もう金を入れた。人も動かした。買う奴もついた。それを全部やめて、ほかの奴が儲けるのを見てろっていうのか。ここまで俺たちがやったんだぞ」
間宮は久我の手元を見ていた。机の縁にかかった指へ力が入り、爪の色が変わっている。
「その分の金を取り戻したら、やめますか」
久我は答えなかった。
間宮が顔を上げた。
「どこまで売れたら、もう十分だと思えるんですか」
「そんな話はしてない」
「私は、その話をしています」
久我は机から手を離し、椅子の背の上着を掴んだ。袖へ腕を通す間も、間宮は座ったまま待っている。返事をしなければ、この男はいつまでも帰らないつもりらしかった。
「やめない」
久我は前のボタンを留めた。
「製造も販売も続ける。俺が止めると言うまで、勝手に止めるな」
間宮は唇を結んだ。スマートフォンを鞄へしまい、机に残した資料を手に取る。
「それは置いとけ」
久我に言われ、間宮は紙を元へ戻した。
「数字は見る。お前の話を全部、聞かなかったことにするつもりはない」
間宮は何も答えなかった。立ち上がって鞄を持つと、ドアへ向かう久我の後ろについた。
階段を下りる途中で、久我が振り返った。
「飯、まだだろ。何か食ってくか」
「今日は帰ります」
いつもなら、店の名前か食べたい物が返ってくる。久我は手すりに触れたまま、間宮の顔を見た。
「そうか」
一階まで下りると、間宮は先に頭を下げ、駅の方へ歩いていった。久我はその背中を少し見てから、路肩に待たせていた車へ向かった。
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日本の指定薬物制度について、4回に分けてわかりやすく説明いたします。
【2回目 指定されるまで、どのくらいの期間かかる?】
新しい薬物が見つかっても、その場ですぐ指定されるわけではありません。成分を調べ、危険性を評価してから指定の手続きに進むため、発見から規制開始までの時間は物質によって異なります。
一方、評価後の手続きは迅速化されています。実際に2026年8月には、専門家の審議の翌日に指定が公布され、その10日後に規制が始まりました。「発見から10日」ではなく、「指定を公表してから10日」という違いがあります。




