第34話 誰にも言うな
北川が目を覚ましたのは、病院へ運ばれてからだった。
目を開けると白い天井があり、腕には点滴がつながっていた。頭を動かした途端、ひどく重い感じがして、すぐに枕へ戻す。
「北川さん、分かりますか」
横から声がした。
白衣を着た医師が覗き込んでいる。
北川は何度か瞬きをした。
「……はい」
「ここがどこか分かりますか」
「病院」
「名前は?」
「北川……悠斗」
答えながら、少しずつ記憶が戻ってくる。
グラウンド。
森川を押さえたこと。
監督に止められたこと。
大雅に肩を掴まれたこと。
そのあと。
そこから先が途切れていた。
「練習中に意識を失って、痙攣があったそうです」
医師が言った。
北川は自分の手を見る。
今は震えていない。
「俺、倒れたんですか」
「覚えていませんか」
「途中までは」
「何か薬を飲みました?」
北川の指が止まった。
救急隊員にも同じことを聞かれた気がする。
そのとき、少し離れた場所にいた大雅を見た。
前の練習後、大雅から言われた言葉が頭に戻ってくる。
誰にも言うなよ。
「飲んでないです」
医師はすぐには何も言わなかった。
「市販薬は?」
「飲んでません」
「サプリメントは?」
「プロテインくらいです」
「それ以外は?」
「ないです」
北川は言い切った。
医師は手元の画面へ目を落とした。
「分かりました」
それ以上は追及しなかった。
北川は少しだけ息を吐いた。
*
北川が意識を取り戻したと大雅が知ったのは、その日の夜だった。
寮の自室でベッドに座り、スマートフォンを耳へ当てている。
電話をかけてきたのは森川だった。
『意識戻ったって』
「マジで?」
『監督から聞いた。まだ病院にはいるけど、話はできてるらしい』
大雅は肩から力が抜けるのを感じた。
「よかった……」
口に出してから、自分でも思っていた以上に安心していたことに気づく。
『なあ』
森川の声が少し低くなった。
「何」
『北川、何か言ったかな』
大雅は黙った。
『薬のこと』
「知らねえよ」
『救急隊員、聞いてただろ』
「だから知らねえって」
『俺らの名前――』
「森川」
強く言うと、向こうが黙った。
大雅は床に置いてあるバッグを見る。
中にはまだケースが入っている。
「余計なこと言うなよ」
『……俺に言ってんの?』
「誰にもだよ」
『北川が倒れたんだぞ』
「分かってる」
『分かってる奴の言い方じゃねえだろ』
大雅は眉を寄せた。
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
『そういう話してんじゃねえよ』
「お前だって飲んだだろ」
言った瞬間、電話の向こうが静かになった。
「二回も使って、調子いいって言ってたじゃねえか」
『だからって――』
「俺だけが全部悪いみたいに言うなよ」
『そんなこと言ってねえだろ!』
森川の声が大きくなった。
『北川に渡したのはお前だろって言ってんだよ!』
大雅も立ち上がった。
「欲しいって言ったのはあいつだ!」
『じゃあ欲しいって言われたら何でも渡すのかよ!』
「お前には渡しただろ!」
言葉がぶつかった。
どちらもすぐには続かなかった。
大雅は電話を持ったまま、狭い部屋を見回した。
机。
椅子。
練習着。
壁際に置いたバッグ。
いつもと同じ部屋なのに、息苦しかった。
『……俺、もう寝るわ』
森川が言った。
「勝手にしろ」
『大雅』
「何」
少し間があった。
『ケース、まだ持ってんの?』
大雅はバッグを見た。
答えなかった。
『捨てろよ』
電話が切れた。
大雅はしばらくスマートフォンを耳に当てたままでいた。
*
翌日、北川はまだ病院にいた。
意識ははっきりしていたが、念のため経過を見ることになっていた。
診察室で向かい合った医師は、検査結果を確かめてから北川を見た。
医師は、覚醒剤など、一般的な薬物検査で調べる項目は陰性だったと説明した。
「ただ、追加の検査で、体の外から入ったとみられる成分が出ています」
北川は医師の顔を見た。
「……何が出たんですか」
「まだ分かりません。この病院では、そこまでは特定できないんです」
ギアという名前は出なかった。
「練習前にも、何も飲んでいませんか」
「はい」
「友人から何かもらったりは?」
北川は目を逸らした。
ケースから錠剤を摘まみ、自分の掌へ落とす大雅の手を思い出した。
誰にも言うなよ。
飲んだと言えば、誰にもらったのかも聞かれる。大雅の名前を出さずに、どこまで話せるのか分からなかった。
「……ないです」
医師は北川を見ていた。
「北川さん」
「何も、もらってないです」
自分から欲しがった一錠だった。
大雅が勝手に飲ませたわけじゃない。
北川は膝に目を落としたまま、医師が次に何を聞くのか待った。
けれど、医師は問いを重ねなかった。画面へ向き直り、検査結果を確かめていた。
*
その日の午後、病院から最寄りの警察署へ相談が入った。担当医が院内の責任者へ相談したうえでの連絡だった。
練習中の異常な行動に、意識消失と痙攣。本人の説明と、症状と、検査結果が合わない。
相談を受けた所轄の刑事は、ギアを疑った。その名前はもう歌舞伎町だけの噂ではなく、いくつかの事件で出ている。使用したとみられる人間に、似た反応が起きた例もあった。
ただし、成分はまだ特定できていない。
病院からの相談内容は、その日のうちに薬物事件を扱う部署へ送られた。
「大学のアメフト部?」
久世凌介は資料から顔を上げた。向かいには榊美冬が座っている。
「はい。本人は何も飲んでいないと話しています」
久世は、資料に並ぶ症状と検査結果を読んだ。
机の脇には、これまでに押収されたギアの資料がある。使用者ごとに出方は違い、異常に興奮した者もいれば、痛みをほとんど気にしなくなった者もいた。
「症状だけじゃ決められないな」
「はい」
久世はもう一度、大学名へ目を戻した。
「運動部ねえ」
「何か?」
「もし本当にギアなら、使う理由が変わってきてるなと思って」
「まだギアとは決まっていません」
「分かってるよ」
「なら結構です」
「ほんと信用ないな」
久世は資料を置いた。
「病院側の結果、もう少し詳しく確認できる?」
「進めています」
「早いな」
「久世さんが言うと思いましたので」
「先回り好きだなあ」
「仕事です」
久世は苦笑した。
「大学の方も?」
「まず事情だけ確認します。薬物事件と決めつけずに」
「それでいい」
*
街にギアが出始めてから、半年ほどが経っていた。
名前が先に広がり、そのあとを追うように、警察が確保した錠剤や使用したとみられる人間の症例が積み上がっている。専門機関での成分分析も、健康被害のおそれがある薬物として指定薬物に加えるための検討も、北川が倒れる前から始まっていた。
そこへ北川の症例が加わった。
病院で採取された検体についても詳しい分析が進み、これまで警察が追っていたギアと同じ系統の物質である可能性が高まっていった。
そして数日後、その動きはニュースになった。
*
大雅は寮のベッドに寝転び、何となくスマートフォンを眺めていた。
画面に出てきた見出しで、指が止まる。
――新型薬物「ギア」 指定薬物へ。
大雅は起き上がった。
記事を開く。
都内を中心に流通している「ギア」と呼ばれる薬物について、厚生労働省が主成分を指定薬物に追加する方向で手続きを進めているという。
健康被害が複数確認され、成分の危険性についても検討が進められていた。
指定が施行されれば、医療など認められた用途を除いて、所持や使用も禁止される。
大雅はそこまで読んで、スマートフォンを伏せた。
部屋が急に静かになった。
大雅はベッドを降り、壁際のバッグを引き寄せた。ファスナーを開けて底へ手を入れると、指先が小さなケースに触れた。
これを捨てればいい。
そう思って取り出したのに、机に置いたケースの蓋を開けていた。椅子に腰を下ろし、中を覗き込む。
まだ残っている。
北川が倒れた。
莉奈も倒れた。
森川には、捨てろと言われた。
そして今度は、施行されたら持っているだけでも違法になる。
大雅はケースを掴み、ゴミ箱を見て立ち上がった。
二歩歩いて、止まった。
パスが通った試合を思い出した。
監督に名前を呼ばれた。
社会人チームの人間が自分を見に来た。
少し前まで、卒業したあとも競技を続けられるか分からなかった。
今は違う。
ここまで来た。
大雅はゴミ箱の前に立ったまま、ケースを見下ろした。
「……俺は平気なんだよ」
誰に言ったわけでもなかった。
蓋を閉じる。
ゴミ箱には入れなかった。
大雅はケースを持ったままベッドへ戻り、バッグの一番奥へ押し込んだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
日本の指定薬物制度について、4回に分けてわかりやすく説明いたします。
【1回目 指定薬物とは?】
「指定薬物」は、危険なドラッグによる健康被害を防ぐため、国が規制する物質です。興奮や幻覚などを引き起こす可能性が高く、身体に害を及ぼすおそれのあるものを、厚生労働大臣が指定します。
対象になるのは商品の名前ではなく、含まれる成分。そのため、名前や包装を変えても、同じ規制成分が入っていれば対象になります。指定後は、認められた医療・研究などの用途を除き、販売だけでなく所持や使用も禁止されます。




