第33話 止まれ
次の練習日、北川はいつもより早くロッカールームへ来ていた。
大雅が入ったときには、すでにユニフォームへ着替え、ベンチに座ってスパイクの紐を結んでいる。
「早いな」
声をかけると、北川が顔を上げた。
「大雅さん」
その返事だけで、大雅には何となく分かった。
近くでは別の部員が着替えている。北川はそちらを一度見てから、声を落とした。
「飲みました」
「もう?」
「さっきです」
大雅は足を止めた。
前の練習後に渡した一錠。
北川が持っていたギアは、それだけだった。
「何か変わったか?」
「まだ分かんないです。別に気持ち悪くもないし」
北川は両手を開いて見せたあと、立ち上がった。
「森川さんも最初は何も分からなかったんですよね?」
「走ってからって言ってた」
「じゃあ俺も同じか」
緊張しているのかと思ったが、声は明るかった。
そこへ森川が入ってくる。
「何、お前もう飲んだの?」
北川が振り返った。
「森川さん、声でかいですって」
「悪い悪い」
森川は笑いながら自分のロッカーを開けた。
「どう?」
「まだ何も」
「俺も最初はそんな感じだったよ」
森川が当たり前のように答える。
大雅は何も言わず、自分のバッグをロッカーへ押し込んだ。
最初に森川へ渡したときとは、空気が違っていた。
あのときは、薬を渡すこと自体に二人とも構えていた。
今は三人の間で、今日の調子を確かめる話になっている。
「行きましょうよ」
北川が先に出口へ向かった。
「早く試したいんで」
*
最初のうちは、何も起きなかった。
準備運動でも北川は普段と変わらず、隣の選手と喋りながら走っていた。
大雅も自分の練習に入る。
それでも、守備側で動く北川の姿は何度も視界に入った。
一対一のパス練習が始まり、森川が北川の前へ立つ。
「また俺?」
「前の練習で抜かれたままなんで」
「今日は止められんの?」
「止めますよ」
森川が笑い、北川も笑った。
大雅がボールを受け取る。
二人が構えた。
合図と同時に森川が走り出した。
森川の動きはいつも通りだった。
だが、北川が違った。
最初の数歩から離れない。森川が内側へ入ろうとすると、その進路へ迷わず体を寄せる。すぐに外へ切り返されても、前の練習のような遅れがない。
大雅は予定していた位置へ投げた。
森川が手を伸ばす。
その直前、横から北川の腕が入った。
ボールが弾かれ、芝の上へ転がる。
「よし!」
北川が叫んだ。
森川は空になった両手を見て、それから北川へ振り返った。
「マジかよ」
「止めたでしょ!」
「今のはいいな」
大雅が言うと、北川がすぐこちらを見る。
「見ました? 大雅さん」
「ああ」
「全然遅れなかったです」
興奮した北川が、自分の脚を確かめるようにその場で何度か跳ねた。
監督からも声が飛ぶ。
「北川、今のつき方いいぞ!」
「はい!」
大きく返事をして、北川は次の列へ戻っていく。
大雅は転がったボールを拾った。
森川だけではなかった。
北川にも効いているように見えた。
胸の奥に残っていた小さな引っかかりが、少しだけ薄くなった。
*
北川の動きは、そのあともよかった。
相手が方向を変えても離されない。ボールへ手を出す判断も早く、一本は受け取る直前のパスを奪いかけた。
失敗すれば悔しがり、成功すれば笑う。
話しかければ普通に返事もする。
大雅が心配していたような変化は、どこにもなかった。
「俺もこれ、合ってるかもしれないです」
休憩中、北川が水を飲みながら言った。
「まだ一回だろ」
「でも分かりますよ。いつもなら一瞬迷うところで、そのまま行けるっていうか」
「調子乗んなよ」
森川が横から言った。
「最初から飛ばしすぎたら後半きついぞ」
「森川さんに言われたくないです」
「何でだよ」
「前の練習、ずっと走りたいって言ってたじゃないですか」
「あれは調子よかったから」
「同じじゃないですか」
二人が笑う。
大雅もペットボトルを口へ運びながら、そのやり取りを聞いていた。
何も問題は起きていない。
北川も森川も、いつものままだった。
*
違和感が出たのは、攻撃と守備に分かれた練習へ移ってからだった。
短いパスを受けた選手へ、北川が外側から入った。
肩を当て、相手の腰へ腕を回す。
そこまでは普通だった。
笛が鳴る。
それでも北川は、相手を抱えたまま二歩ほど押し込んだ。
「おい!」
倒された選手が芝の上から声を上げる。
北川はすぐに手を離した。
「悪い」
謝って、手を差し出す。
相手もその手を掴んで立ち上がった。
監督が北川を呼んだ。
「北川、練習だぞ。笛聞け」
「はい、すみません!」
北川はいつも通り返事をした。
大雅も、その時点では大して気にしなかった。
勢いがついて止まりきれなかっただけに見えた。
次のプレーが始まる。
北川はまた迷わず前へ出た。
今度はパスが通らなかった。
それでも相手へ寄り、投げ終わったあとまで体をぶつける。
「北川!」
監督の声が飛ぶ。
「はい!」
北川はすぐ離れた。
だが、顔には不満が残っていた。
「今の何だよ」
相手が言う。
「まだ動いてただろ」
「ボール来てねえじゃん」
「だから何だよ」
北川の返し方に、周りの空気が少し変わった。
さっきまで笑っていた森川も黙る。
大雅は北川を見た。
息は上がっている。
顔から汗も流れている。
それでも、もっと続けたいという気持ちだけが強くなっているようだった。
「北川」
呼ぶと、こちらを見る。
「何ですか?」
「一回落ち着け」
「大丈夫ですよ」
「さっきから当たり強すぎるぞ」
「普通ですって」
言い切って、北川はヘルメットを被り直した。
「次、行ってきます」
止める間もなく、フィールドへ戻っていく。
その背中を見ながら、大雅はさっきまで薄れていた不安を思い出した。
*
次に北川の前へ立ったのは森川だった。
「今度こそ抜くからな」
森川が言う。
北川は今度は笑わなかった。
「来てくださいよ」
二人が構える。
ボールが動いた。
森川が外へ走り、途中で内側へ切り返す。
北川がついていく。
森川が一瞬だけ前へ出た。
大雅はそこへ投げた。
ボールを受けた森川が、そのまま前へ進もうとする。
すぐ後ろから北川が追いついた。
腰へ腕を回す。
森川の体が傾き、そのまま二人で芝へ倒れた。
笛が鳴る。
プレーは終わった。
森川が起きようとする。
だが、北川の腕が外れない。
「北川」
森川が笑いながら言った。
「もう終わってるって」
北川は離さなかった。
「おい」
森川の声から笑いが消える。
もう一度、笛が鳴った。
「北川、離せ!」
監督が怒鳴る。
大雅も声を張った。
「北川!」
ようやく北川が顔を上げた。
「何してんだよ。離せ!」
北川は森川へ目を戻した。
「まだ抜けようとしてたじゃないですか」
「笛鳴ってただろ!」
森川が北川の腕を押した。
「だから終わりだって!」
そこでようやく北川が手を離した。
森川が立ち上がり、ユニフォームについた芝を払う。
「何なんだよ、お前」
「ちゃんと止めただけでしょ」
「止めたあとも離さなかっただろ」
「一瞬じゃないですか」
北川も立ち上がった。
本気で何が悪いのか分かっていないような返し方だった。
大雅が二人のところへ駆け寄る。
「北川、今日はもうやめろ」
「何でですか」
「何でって、さっきから笛鳴っても止まってねえだろ」
「止まってますよ」
「止まってねえから言ってんだよ!」
大雅が声を強めると、北川も苛立ったように口を結んだ。
「ちゃんとやってただけです」
「今のがちゃんとに見えるか?」
「森川さんだって怪我してないでしょ」
「そういう問題じゃねえよ」
森川も肩を押さえながら睨んでいる。
「お前、今日おかしいぞ」
「何がおかしいんですか」
北川の声が強くなった。
監督が近づいてくる。
「北川。今日は上がれ」
「まだできます」
「いいから外れろ」
「でも――」
「北川」
監督が腕を掴んだ。
その瞬間、北川は反射的に振りほどいた。
勢いで監督が一歩よろめく。
周囲から声が上がった。
「北川!」
「何やってんだ!」
北川自身も一瞬驚いた顔をした。
だが、すぐに苛立ちが戻る。
「掴まないでくださいよ」
近くにいた部員が北川の前へ入った。
「もういいって。落ち着け」
「どいて」
「北川」
「どいてください!」
肩を掴まれ、北川が強く押し返した。
部員が足をもつれさせ、芝へ尻をつく。
大雅が北川の正面へ回った。
「北川、止まれ!」
肩を掴む。
北川は大雅を見る。
誰に止められているのかは分かっていた。
「大雅さん、離してください」
「離さねえよ」
「まだ練習できます」
「できねえって言ってんだろ!」
「何でですか!」
北川が大雅の手を外そうとする。
力任せに殴りかかるわけではない。
それでも、自分から引く気がない。
後ろから二人の部員が近づき、北川の腕を押さえた。
「北川、もうやめろ」
「落ち着けって」
北川は振りほどこうと体を動かしたが、二人を投げ飛ばすようなことはなかった。
ただ、止められても何度も前へ出ようとする。
「離してくださいって!」
「北川!」
大雅が名前を呼ぶ。
「もう止まれ!」
北川は大雅の顔を見ている。
聞こえている。
分かっている。
それでも、踏み出そうとする足だけが止まらなかった。
その姿を見て、大雅の腹の奥が冷えた。
ギアだ。
自分が渡した一錠だった。
*
その日の練習は、そこで中断された。
森川は倒されたときに打った肩を気にしていたものの、自分で歩けていた。北川に押されて転んだ部員も、肘を擦りむいた程度だった。
監督にも大きな怪我はない。
北川はグラウンド脇のベンチへ座らされていた。
ヘルメットは外している。
さっきまでの苛立ちは残っているようだったが、何人も周囲に立っているせいか、もう立ち上がろうとはしなかった。
大雅は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
森川が横へ来る。
「……これ、ギアだよな」
大雅は答えなかった。
「大雅」
「分かんねえよ」
思ったより強い声が出た。
森川が黙る。
「俺も使ってる。お前だって二回使っただろ」
「ああ」
「じゃあ何で、北川だけああなるんだよ」
森川は何も言わなかった。
大雅にも答えはなかった。
莉奈が倒れたときもそうだった。
自分は平気だった。
だから、自分には合っていると思った。
森川も二度使って平気だった。
だから北川にも渡した。
「別に俺、平気ですよ」
声がして、大雅は北川を見る。
ベンチに座った北川が、こちらへ顔を向けていた。
「ちょっと熱くなっただけですって」
「お前、自分が何したか分かってんの?」
森川が聞く。
「分かってますよ」
「じゃあ何で止まらなかったんだよ」
北川は返事をしなかった。
少し苛立ったように顔を背け、足元のペットボトルを取る。
キャップを開け、一口飲んだ。
「今日はもう帰れ」
監督が少し離れたところから言った。
「寮まで誰か――」
途中で、ペットボトルが落ちた。
芝の上に水がこぼれる。
北川はそれを拾おうとしなかった。
「北川?」
大雅が呼ぶ。
返事がない。
北川の体が、ゆっくり横へ傾いた。
「おい」
森川が動く。
次の瞬間、北川がベンチから崩れ落ちた。
「北川!」
大雅が駆け寄った。
さっきまで普通に話していた北川の目は閉じている。
呼んでも返事がない。
「おい、北川! 聞こえるか!」
肩へ手を伸ばしかけたところで、北川の体が大きく震えた。
腕が跳ねる。
脚が強く突っ張り、全身が痙攣し始めた。
「何だよ、これ……」
森川の声が震えた。
周囲にいた部員たちが一斉に集まってくる。
「救急車!」
監督の怒鳴り声が飛んだ。
「誰か救急車呼べ!」
一人がスマートフォンを取り出して走っていく。
大雅は北川のそばから動けなかった。
痙攣する体を見ているうちに、別の姿が重なった。
莉奈。
ホテルのベッドで意識を失ったまま動かなかった莉奈。
あのときも、自分と同じギアを使っていた。
「大雅」
森川に呼ばれても、すぐには返事ができなかった。
自分が渡した。
北川が欲しいと言ったから。
森川も平気だったから。
一回だけならと思った。
その一錠を飲んだ北川が、今、目の前で倒れている。
*
救急車がグラウンドへ入ってきた頃には、北川の痙攣は治まっていた。
意識も少し戻ったらしく、呼びかけには反応している。
それでも、自分で立ち上がれる状態ではなかった。
大雅たちは少し離れたところまで下がらされ、救急隊員が北川の状態を確認している。
森川が大雅の隣に立っていた。
さっきまで何度も口を開きかけていたが、もう何も言わない。
大雅も北川から目を離せなかった。
救急隊員の一人が北川へ何かを聞いている。
最初は声が小さくて聞こえなかった。
しばらくして、もう一度質問する声がした。
「北川さん。今日、何か薬を飲みましたか?」
大雅の喉が詰まった。
北川はすぐには答えなかった。
地面へ向いていた顔を、ゆっくり上げる。
その目が、少し離れた場所に立つ大雅へ向いた。




