第32話 俺にも
次の練習日、大雅がロッカールームへ入ると、森川はもう着替えを終えかけていた。
目が合った途端、森川が自分のバッグを軽く叩く。
「持ってきた?」
何を、とは聞かなかった。
大雅は周囲を見た。まだ来ていない部員も多く、近くにいる連中は着替えながら講義や週末の予定を話している。こちらを気にしている者はいない。
バッグを足元へ置き、奥から小さなケースを取り出した。
最初に森川へ渡したときは、蓋を開けるまでにも迷った。
今日は違った。
ケースを膝の陰へ隠すようにして開け、一錠を摘まむ。
「一個だけだからな」
「分かってるって」
森川が出した掌へ、灰色の錠剤を落とした。
受け取った森川も、最初のように顔へ近づけて眺めたりはしなかった。そのまま指でつまみ、持っていたペットボトルの水と一緒に飲み込む。
「お前、ここで飲むのかよ」
「どうせ今から練習だろ」
森川は空になった口の中を見せるように笑った。
「前の練習でもよかったんだから、今日も試したいじゃん」
大雅はケースを閉じた。
その言葉に、反論するものはなかった。
前の練習で、森川は一度だけではなく何度も守備を振り切り、監督からも声をかけられた。練習が終わってからも、森川はその話ばかりしていた。
大雅自身も同じだった。
ギアを使った日は体が動く。パスが通る。それが何度も続いたから、今もやめていない。
「今日も前みたいに走れたら、次の試合、マジで出番増えるかもしれないからな」
森川はそう言ってヘルメットを抱え、先にロッカールームを出ていった。
大雅はケースをバッグの底へ戻した。
その間、莉奈の顔は浮かばなかった。
*
練習が始まってしばらくすると、大雅は森川の動きを目で追う必要がなくなっていた。
見ようとしなくても目につく。
前の練習と同じように、最初の数歩が速い。
相手に進路を塞がれれば止められるし、走る方向を読まれて簡単に捕まることもある。それでも、真正面から走り出したときの伸びは明らかに違っていた。
大雅から見れば、それが一番分かりやすかった。
長く一緒にやってきた。
どの辺りまでなら森川が追いつくのか、どれくらい前へ投げれば捕れるのか。考えなくても腕が覚えていた距離が、前の練習から少しずつ変わっている。
「森川、もう一回!」
監督の声が飛ぶ。
森川が元の位置へ戻った。
今度は守備側も簡単には抜かせまいと、さっきより距離を取って構えている。
そのプレーでは、北川が森川のマークについた。
二年生の北川は普段から大雅の部屋へ遊びに来ることもある後輩だったが、練習中は別だった。守備側に入れば、大雅たちの攻撃を止めることしか考えない。
森川と向かい合った北川が、軽く腰を落とした。
合図が出る。
森川が走った。
北川もすぐについていく。
最初の数歩では離れない。森川が内側へ寄ると北川も体を向け、そのまま進路へ入ろうとする。
大雅はボールを持ったまま二人を見る。
森川が一度速度を緩めた。
北川が詰めた、その直後だった。
森川が外へ切り返す。
北川も反応したが、半歩遅れた。
その半歩が、一歩になった。
大雅は腕を振った。
ボールは森川の前へ飛び、伸ばした両手へ収まる。
笛が鳴った。
「くそっ!」
北川が声を上げた。
森川はボールを抱えたまま振り返り、笑っている。
「惜しかったな」
「今の絶対止められただろ!」
「止めてから言えよ」
大雅は思わず笑った。
北川は悔しそうに森川の肩を押したが、次の練習へ戻る途中でも、何度かその背中を見ていた。
大雅には、その視線が少し気になった。
*
練習が終わったあと、森川はベンチに座ってスパイクを脱いでいた。
「今日も調子よかったですね」
向かい側で着替えていた北川が言った。
森川が顔を上げる。
「何、急に」
「いや、ほんと最近速くないですか?」
「前から速いけど」
「それ前にも聞きました」
北川は笑ったものの、すぐに森川の脚へ目をやった。
「何か変えたんですか。走り方とか」
「別に」
「筋トレ?」
「いつも通り」
「じゃあ何なんですか」
しつこく聞かれ、森川が面倒そうに笑った。
少し離れたところで荷物を片づけていた大雅にも、その会話は聞こえていた。
森川がこちらを見た。
目が合う。
嫌な予感がした。
「俺っていうより、大雅かな」
「おい」
大雅がすぐに声を出すと、北川もこちらを向いた。
「大雅さん?」
森川は悪びれもしない。
「別に何も言ってねえだろ」
「今、明らかに何かある言い方したじゃないですか」
「気になるなら本人に聞けよ」
「お前、余計なこと言うなよ」
「何が余計なんだよ。名前出しただけじゃん」
北川が二人の顔を交互に見る。
「だから何なんですか?」
森川が答えようとしたので、大雅は先に言った。
「お前には関係ない」
「森川さんには関係あるんですか?」
大雅は黙った。
北川の目が森川へ向く。
森川も今度は何も言わなかった。
それだけで、北川には十分だったらしい。
「最近調子いいの、それと関係あるんですか」
「全部じゃねえよ」
森川が言い返した。
「俺だって練習してんだからな」
「それは分かってますよ」
北川はすぐに返した。
「でも、何かあるんでしょ?」
大雅は立ち上がり、バッグを肩へ掛けた。
「帰るぞ」
「大雅さん」
「飯行くんだろ」
話を切ったつもりだった。
だが、北川はそのままついてきた。
*
建物を出ると、昼間の熱がまだ地面に残っていた。
先に出た部員たちの声が駐輪場の方から聞こえる。森川は別の部員に呼ばれ、少し離れたところで話していた。
大雅が自動販売機で水を買うと、横に北川が立った。
「まだ聞くのかよ」
「聞きますよ」
北川は即答した。
大雅はペットボトルの蓋を開けた。
「大したもんじゃねえよ」
「じゃあ教えてください」
「面倒くせえな」
「森川さん、二回続けてあんな感じなんですよ」
北川はグラウンドの方を振り返った。
「前の練習でも速かったし、今日も俺、普通に抜かれたし」
「お前が遅かったんじゃねえの」
「それはないです」
「自信あるな」
「守備でそれ認めたら終わりじゃないですか」
北川は笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「俺も知りたいです」
「だから――」
「自分も、もっと試合出たいんですよ」
大雅の言葉が止まった。
北川は二年生だった。
まだ来年がある。
そう言おうと思えば言えた。
けれど、自分が二年だった頃、来年があるから焦らなくていいと言われて納得できたかと考えると、たぶん無理だった。
試合に出たい。
結果を残したい。
使ってもらいたい。
その気持ちは分かる。
分かりすぎるくらいだった。
「薬だよ」
北川が目を瞬いた。
「……薬?」
「ギアっていう」
大雅は水を一口飲んだ。
「飲むと体が動く。俺はそうだった。森川も前の練習から使ってる」
北川はすぐには何も言わなかった。
森川がいる方を見る。
遠くで笑い声がしていた。呼ばれた森川が誰かの肩を叩き、いつも通りの顔で話している。
「危なくないんですか」
その質問に、大雅はペットボトルを持つ手を止めた。
莉奈が倒れたホテルの部屋が、一瞬だけ頭に浮かんだ。
ベッドの上で動かなくなった姿。
救急車。
何度呼んでも返事をしなかった。
大雅は目を逸らした。
「俺は何回も使ってる」
それは嘘ではない。
「森川さんも平気ですよね」
「ああ」
「だったら……」
北川はまた森川を見た。
その目にあるものを、大雅は知っていた。
羨ましいのだ。
大きく変わらなかった相手が、急に前へ出た。
監督に名前を呼ばれた。
何度もいいプレーをした。
それをすぐそばで見せられたら、自分もと思う。
大雅自身がそうだった。
ギアを使って結果が出るたびに、次も欲しくなった。
「俺にもください」
大雅は何も答えなかった。
北川が一歩近づく。
「一回でいいです」
「やめとけ」
「森川さんには渡したんですよね」
「あいつは――」
言いかけて、続かなかった。
森川ならよくて、北川なら駄目な理由が出てこない。
一度使って森川が速くなった。
二度目も同じだった。
自分だって何度も使っている。
莉奈だけが、その中から外れていた。
もしかしたら、あいつに合わなかっただけなのかもしれない。
一度そう考えると、大雅にはその方が辻褄が合うように思えてきた。
大雅は肩からバッグを下ろした。
北川の顔が変わる。
「大雅さん?」
「一回だけだからな」
バッグを開く。
底に入れていたケースを取り出すと、北川は森川と同じように、それをじっと見た。
大雅は蓋を開けた。
並んだ灰色の錠剤から、一つを摘まむ。
「誰にも言うなよ」
「言いません」
「森川にも余計なこと喋らせんな」
「分かりました」
北川が右手を出した。
大雅は、その掌へ一錠を落とした。




