第31話 もう一本
森川は、差し出された錠剤をすぐには受け取らなかった。ベンチに置いていたヘルメットを膝へ移し、大雅の指先を見ていた。
「……何ていう薬?」
「ギア」
「聞いたことねえな」
大雅も詳しいことは知らない。分かっているのは、飲んだ日には体がよく動くということだった。それをどう説明しようか考えているうちに、森川がフィールドへ目を向けた。
「俺も、卒業してから続けたいんだよな」
さっきまで二人で投げていた場所には、もう誰もいなかった。片づけ忘れたボールが一つ、照明の下に転がっている。
「お前が社会人でやるようになったら、見に行こうとは思ってるけどさ。客席から応援するだけってのも、何か嫌で」
「俺だって、入ってから通用するかどうかは分かんねえよ」
「その心配できるのが羨ましいんだって」
森川は笑ったが、大雅はうまく返せなかった。
森川は同じ三年で、練習が終わったあとも投げるのに付き合ってくれる相手だった。捕ってくれると思うから投げられるし、少しくらい遠くへ飛んでも文句を言いながら追ってくれる。そういう森川に、自分へ来ているような話はまだなかった。
大雅が錠剤を持ったままでいると、森川はヘルメットを脇へ置き、片手を差し出した。
「一回、試してみる」
大雅はその掌に、灰色の一錠を落とした。森川はそれを顔へ近づけてから、バッグから出したティッシュに包んだ。
「いくら?」
「いらねえよ。俺の分、分けるだけだから」
「いいのか?」
「一個だろ」
森川は包みをバッグにしまった。明日の練習で使ってみると言い、ヘルメットを抱えて立ち上がった。その動きは、さっきまで薬を見ていたときより軽かった。
大雅もケースを閉じた。森川は莉奈のことを知らないまま、フィールドに残ったボールを拾いに向かった。
「おい、大雅。消すってよ」
建物の入口にいる部員が、照明を指して待っていた。大雅は片手を上げて応じ、バッグを肩へ掛けた。
*
翌日の練習前、森川は日野本大学ヴァンガーズのロッカールームで、大雅の隣へ腰を下ろした。
周りでは部員たちが着替えている。ロッカーの扉が閉まる音に混じって、講義を寝過ごした部員をからかう声が聞こえた。大雅がスパイクの紐を結び直していると、森川が膝へ肘をつき、小声で言った。
「さっき飲んだ」
大雅は紐を引く手を止めた。森川はもうグラウンドへ出る格好で、ヘルメットの留め具を確かめている。
「今んとこ、別に何も変わんねえけど」
「まだ走ってないだろ」
「まあな。じゃ、行ってくる」
大雅の肩を叩いて立ち上がり、森川はほかのレシーバーたちへ合流した。大雅はその背中を見送ってから、途中になっていた紐を結んだ。
自分も、今日はすでに使っていた。いつもなら早く投げたくなるところだったが、フィールドへ出てからも、走り始めた森川の姿を何度か探した。
準備運動が終わり、パスの練習が始まった。
森川と、その走りを追ってパスを防ぐ守備の選手が向かい合った。合図とともに森川が踏み出したとき、大雅はボールを構えたまま、その動きに目を引かれた。
速い。
最初の数歩で相手の横へ出ると、森川はそこからさらに加速した。並んで走ろうとした相手が、すぐに後ろから追う形になる。
大雅は腕を振った。しかし、いつものつもりで投げたボールは、森川の走る位置より少し後ろへ向かった。
森川が体をひねって両手で受け止めたところへ、守備の選手が追いついて腰に組みついた。笛が鳴り、二人はその場で足を止めた。
「悪い。今の、遅れた」
大雅が声をかけると、森川はボールを持って戻ってきた。失敗を責める顔ではなかった。自分の足元を見てから、大雅の前へ来る。
「見た? 最初のとこ」
「ああ。速かった」
「蹴ったら、思ったより前に出た。走ってても、まだいける感じがすんの」
森川は興奮していたが、そばへ来た守備の選手に「次は止める」と言われると、いつもの調子で笑った。
「止めてから言えよ」
「今、止めただろ」
「あれは大雅が遅えから」
こちらへボールを押しつけて、森川は次の順番を待つ列へ戻った。文句を言われた大雅まで、少し笑ってしまった。
次はもっと前へ投げればいい。
ボールを持ち直すと、離れたところの森川もこちらを向いていた。
*
攻撃と守備に分かれた練習が始まる頃には、フィールドに照明がついていた。大雅はセンターの後ろに立ち、右側に構える森川を見た。
相手も、もう最初と同じ距離では待っていない。森川に抜かれないよう、少し後ろへ下がっている。
ボールを受けた大雅の前で、選手たちの肩がぶつかり合った。大雅は右へ走り出した森川を追いながら、前から迫る守備の位置も確かめた。
森川が内側へ体を向けた。相手がその動きについていくと、森川は踏み込んだ足で地面を蹴り、外へ向き直った。
切り返しに反応した相手の腕が伸びたときには、森川の肩はもうその先に出ていた。
大雅は後ろへ一歩下がり、腕を振った。
今度は森川の先へ投げた。長く一緒に練習してきた相手だからこそ、以前ならそこまでは届かなかったと分かる位置だった。
ボールが高く上がり、照明の明かりを受けた。
森川は肩越しに一度それを見たあと、腕を振って走った。後ろから追う選手との差が広がっていく。その先へ落ちていくボールを見つめ、大雅は思わず声を出した。
「行け、森川!」
森川が両手を伸ばした。
グローブに収まったボールを胸へ抱え、そのまま走り続ける。横から別の守備が寄ってきたが、森川は外側を駆け抜け、最後はサイドラインの外へ出た。
笛が鳴った途端、見ていた部員たちが声を上げた。
「ナイスキャッチ!」
「今の追いつくのかよ!」
森川はボールを抱えたまま、こちらへ振り返った。ヘルメットで顔はよく見えなかったが、空いた手を高く上げている。
大雅も同じように手を上げた。投げた腕にまだ力が入っていて、下ろしてからも笑いが収まらなかった。
自分のパスに、森川が追いついた。
戻ってきた森川の肩を叩くと、向こうからも強く叩き返された。
「お前、あそこまで投げるかよ!」
「取ったじゃねえか!」
「取ったけどさ!」
二人で笑っているところへ、監督の声がかかった。
「森川、今の走り出し、よかったぞ」
「ありがとうございます!」
「次も今みたいに走れ。一本で終わるなよ」
森川は大きく返事をしてから、大雅を見た。笑ってボールを返してきた。
その後も森川はよく走った。相手が先回りすれば進路を塞がれるし、短いパスを一度落として怒鳴られもした。それでも、森川が相手を振り切るたびに、サイドラインから声が上がった。
休憩でヘルメットを外した森川は、顔から汗を滴らせていた。水を飲んでいた大雅の隣へ来ると、ベンチへ腰を下ろし、まだ荒い息のまま話し始めた。
「最後のもさ、もうちょっと前に出してくれてよかった」
「次は落とすなよ」
「落としたのは短いやつだろ。あれは普通に俺がミスった」
「分かってんならいいけど」
大雅が笑うと、森川も笑った。膝についた草を払いながら、フィールドを眺めている。さっき走り抜けた場所を見ているのだろうと、大雅にも分かった。
「俺、あいつ相手にあんな離せたの初めてだわ」
森川はそこで声を落とした。
「ありがとな。お前に聞いてよかった」
大雅は、ペットボトルの蓋を閉めかけたまま相手を見た。
昨日、莉奈のことを話していたら、この礼はなかったかもしれない。森川は薬を受け取らず、今日もいつもと同じように走っていたかもしれなかった。
それなのに、目の前の笑顔を見ていると、渡さなければよかったとは思えなかった。
「……まだ練習だろ」
「分かってるよ。試合でやる」
森川はそう言って、握った拳を差し出した。大雅が自分の拳を当てると、森川はヘルメットを被り直し、先にフィールドへ戻っていった。
*
練習が終わると、大雅はロッカールームのベンチへ座り込んだ。肩も背中も重く、ユニフォームを脱ぐのに腕を上げるだけで顔をしかめた。
「大雅さん、飯、一緒に行きません?」
着替えを終えた北川が、隣のベンチに片膝をついて覗き込んできた。気の合う二年生の後輩で、寮の大雅の部屋へもよく遊びに来る。
「先に戻ってろ。俺、まだシャワー」
「待ってますよ」
「言っとくけど、俺、奢らないからな」
「分かってますって。実業団で活躍したら、高いの奢ってもらいますから」
「勝手に決めんな」
大雅が笑って肩を押すと、北川はベンチから降りた。
「じゃあ外で待ってます。森川さんも来ますよね?」
「行く。こいつ置いて先に食うか」
「おい」
北川は笑いながらバッグを持ち、ほかの二年生たちと出ていった。森川はまだ隣でスパイクを脱いでいた。片方を床へ置くと、両脚を伸ばして大きく息をついた。
「明日、脚やばそう」
「あれだけ走ったらな」
「でも、また走りてえわ。今日の感じで」
そう言って、森川は自分の太腿を揉んだ。指摘されたミスより、うまくいったプレーの方を何度も話したがった。大雅もそれに付き合いながら、シャワーへ持っていく着替えを探していた。
バッグの底で、小さなケースに指が触れた。
「大雅」
呼ばれて横を見ると、森川がこちらを向いていた。ほかの部員が離れたのを確かめ、少し身を寄せてきた。
「次の練習の分も、もらえる?」
大雅はケースから手を離した。自分のために取っておいた分は、まだある。
森川はもう冗談を言わず、こちらの返事を待っていた。
「今日だけで終わりたくねえんだよ。次もあの走りができたら、監督だってもっと使ってくれるかもしれないし」
大雅にも、覚えのある気持ちだった。練習でうまくいけば、試合でもできるところを見せたくなる。一度見てもらえたら、次も期待に応えたくなる。
次の練習で、森川の走る先へ投げるところを想像した。今日よりも早く、もっと遠くへ。森川がそれを捕って戻ってくる姿まで、はっきり浮かんだ。
「分かった。次の分も持ってくる」




