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歌舞伎町ドラッグ・ギャンビット  作者: Aramaki_mai
第3部 欲望の値段
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30/68

第30話 同じ名前

挿絵(By みてみん)

その日の夜、三人が中野の仕事部屋へ戻った頃には、もう九時を回っていた。


コンビニで買った夕食の袋がテーブルに残り、朝倉は明日の予定をスマートフォンで確認している。葵はソファに座って髪をほどき、玲司は昼間の依頼について事務所へ報告を送っていた。


「私、先にお風呂借ります」


朝倉が立ち上がった。


「どうぞ」


玲司が答える横で、葵が顔を上げる。


「ひなちゃん、長い?」


「普通です」


「何分くらい?」


朝倉が足を止めた。


「何で時間を聞くんですか」


「別に」


「私がお風呂に入ってる間に、二人でどこか行ったりしないでくださいね」


「行かないって」


「篠崎さんは信用してません」


「ひど」


「黒瀬さんもです」


「俺も?」


「今日、振り向いたらいなくなってましたから」


玲司は上野で勝手に父親を追いかけたことを思い出した。


「あれは仕事だろ」


「一言言ってください」


「はいはい」


「一回でいいです」


朝倉は二人をもう一度見てから、着替えを持って洗面所へ入った。


しばらくして浴室から水音が聞こえ始める。


葵はその音を確かめるように耳を澄ませ、それから玲司へ顔を向けた。


「今日、三枝来た」


玲司も声を少し落とした。


「薬調べてもらってた奴?」


「そう。《MUSE》に呼んだ」


「分析の話するためにキャバクラ呼んだのかよ」


「ここより話しやすいでしょ。ひなちゃんいないし」


「金払ったの三枝だろ」


「客だからね」


「かわいそうに」


葵は気にせず話を続けた。


「ギア、やっぱり簡単に作れる物じゃないって。市販の薬から何か取り出して、ちょっと加工すればできるような物じゃないらしい」


「じゃあ、どっかでちゃんと作ってるってことか?」


「ちゃんとかどうかは知らない。設備も専門の材料もいるけど、出来上がった物は普通の薬ほど丁寧に作られてないって」


玲司は少し眉を寄せた。


「何だそれ」


「私も同じこと聞いた。作るのは難しいのに、出来は粗いんだって」


既知の代表的な麻薬や覚醒剤とも一致しなかった。ただし、安全だとも合法だとも言えない。依存性や長期的な影響、葵だけが強い身体反応を示す理由も、一錠を調べただけでは分からない。


そこまで聞いて、玲司は椅子の背へ体を預けた。


「結局、誰が作ってるかは?」


「分かんない」


「場所は?」


「それも」


「肝心なところ全滅じゃねえか」


「一錠調べただけで工場まで分かったら、三枝もう警察よりすごいじゃん」


「それもそうか」


葵は少し笑ったあと、膝を抱えるように座り直した。


「でも、変なこと言ってた」


「何」


「これ、本当に最初から違法ドラッグとして作った物なのかって」


玲司が葵を見る。


「どういう意味?」


「そのまま。最初から歌舞伎町で売るために作ったのか、それとも元は別の目的だったのかって」


「それは分かったのか?」


「分かんないって」


「またそれかよ」


「だから疑問だって言ってんじゃん」


浴室の水音が続いている。


玲司はテーブルの上に置いたペットボトルを手に取った。


何のために作られた薬なのか。


これまでは誰が作ったのか、誰が売っているのかばかり気にしていた。玲司自身も、そこを考えたことはなかった。


「まあ、何か分かっただけマシか」


「でしょ」


「三枝にはもう頼むなよ。あいつまで面倒なことに巻き込まれたら困る」


「分かってる」


葵の返事を聞いて、玲司は昼間のことを思い出した。


「そういや、俺も今日ちょっと変なの見た」


「何?」


「上野で探してた父親」


「見つかったんでしょ?」


「ああ。そいつが入った店でさ」


玲司は昼間保存した店名をスマートフォンに出した。


「飯食ったあと、金払わずに帰ったんだよ」


「食い逃げ?」


「店員が『ありがとうございました』って普通に見送ってた」


葵が首を傾げる。


「誰かが払ってたとか?」


「俺もそう思った。そしたら、別の爺さんも同じだった。そいつも払わずに帰って、店員は『またね』って」


「ただで食わせてんじゃない?」


「ああ。本人に聞いた」


「いい店じゃん」


「そうなんだけどな」


「何が気になるの?」


聞かれて、玲司は少し考えた。


昼間から引っかかっていたのに、自分でもうまく説明できていない。


「分かんねえ」


「何それ」


「無料で飯出してますって書いてるわけでもないし、支援やってるって宣伝してるわけでもない。なのに、店の奴らは前からやってるみたいだった」


「言わずにやってるだけかもしれないじゃん」


「そうかもしれない」


「じゃあいいじゃん」


「でも、気になる」


葵が呆れた顔になる。


「暇なの?」


「探偵って、気になったら調べんのも仕事なんだよ」


「それ、今仕事なの?」


「今は趣味」


「暇じゃん」


「うるせえ」


玲司はそのまま店名を検索した。


店自体は、ごく普通の飲食店だった。料理の写真や営業時間に混じって、運営会社の名前が載っている。その会社について調べていくと、都内でいくつかの飲食店を展開し、さらに複数の企業と同じ事業グループに属していることが分かった。


その中心人物として紹介されていたのが、一人の男だった。


玲司は画面を止める。


「久我省吾」


「誰?」


葵が横から覗き込んだ。


スーツ姿で笑っている五十代ほどの男が映っている。


「俺も今知った」


久我省吾。


飲食だけでなく、不動産やキャバクラなど複数の事業に関わる実業家らしい。検索しても、すぐに犯罪へ結びつくような情報は出てこない。事業を拡大してきた経営者として紹介されている記事がいくつか見つかるだけだった。


「普通のおっさんじゃん」


「今んところな」


「この人が、ただ飯やれって言ってんの?」


「知らねえよ。そもそも店の社長も別人だ」


「じゃあ何で見てんの」


玲司は答えず、記事の中にあった一つの言葉を見直した。


不動産。


その瞬間、別の建物が頭に浮かんだ。


「……葵」


「何」


「お前が閉じ込められてた建物、住所残ってるよな」


葵の顔から軽さが消えた。


「残ってるけど」


玲司は仕事用のノートパソコンを開き、舟渡の住所を確認した。


葵もソファから立ち上がり、玲司の後ろへ来る。


「あの建物も調べるの?」


「久我が不動産やってるなら、一応な」


「それで久我だったら?」


「先に見ろよ」


建物の所有者として出てきたのは、久我省吾ではなかった。


聞いたことのない不動産会社の名前だった。


葵が画面を見て言う。


「違うじゃん」


「そうだな」


玲司はその会社名でもう一度調べた。


会社概要を開き、関連する企業を確認していた手が途中で止まる。


「……待て」


「何?」


「これ」


画面を少し戻す。


さっき見た事業グループの名前が出ていた。


玲司は最初のページをもう一度開き、その中に並んでいる会社名と見比べる。


同じだった。


葵が玲司の肩越しに画面へ顔を近づける。


「久我の会社?」


「久我本人の会社じゃない。この不動産会社も、久我のグループに入ってる」


「同じじゃん」


「違うだろ」


「店もこの人のところで、私が閉じ込められてた建物もこの人のところなんでしょ?」


「系列ってだけだ」


「十分怪しいじゃん」


葵の声が大きくなり、玲司は浴室の方を見た。


まだ水音は続いている。


「声落とせ」


「だって二回出てる」


「一回目は、ただで飯食わせてる店だぞ。犯罪かどうかも分かってない」


「じゃあ、あの建物は?」


葵の声から今度は苛立ちが消えなかった。


「あそこで私、閉じ込められてたんだけど」


「分かってる」


「だったら――」


「分かってるって」


玲司も少し強く返した。


葵が口を閉じる。


舟渡の建物をただの貸し物件として見られないのは当然だった。葵は実際にそこで閉じ込められ、何人もの男に囲まれていた。


それでも、建物を所有している会社と、中で何をしていた人間が同じとは限らない。


「貸してるだけなら、持ち主が中で何やってるか知らないこともあるだろ」


「でも、偶然だと思ってんの?」


「思ってねえよ」


玲司は即答した。


葵が少し目を見開く。


「だから調べたんだろ。店と、あの建物。二回同じ名前が出た。それは覚えとく」


「ひなちゃんには?」


今度は葵も声を落とした。


玲司は浴室の方を見た。


「何を言うんだよ」


「久我って奴が怪しいって」


「何が怪しいんですかって聞かれたら?」


「二回出た」


「だから、それだけだろ」


葵は不満そうに口を尖らせた。


「警察って、そういうの調べるんじゃないの?」


「犯罪があればな」


「私が閉じ込められたのは犯罪でしょ」


「建物の持ち主が関わってた証拠がないって言ってんの」


しばらく睨むように玲司を見ていた葵だったが、やがてソファへ戻った。


「……じゃあ、どうすんの」


「何もしない」


「は?」


「今はな」


玲司はスマートフォンのメモに、久我省吾の名前を入れた。その下に、上野の店と舟渡の建物だけを書き足す。


「また出てきたら、そのとき考える」


葵は返事をしなかった。


ちょうどそこで、浴室の水音が止まった。


「三枝の話はしないでよ」


葵が小声で言う。


「分かってる」


「絶対だからね」


「お前も余計なこと言うなよ」


洗面所のドアが開き、少しして朝倉が戻ってきた。


髪を乾かしきっていないまま、部屋の入口で足を止める。


「……何ですか」


「何が?」


葵が何でもない顔で聞いた。


「二人とも、さっきより静かじゃないですか」


「ひなちゃんいないから平和だった」


「もう一回入ってきましょうか?」


「そんな怒んないでよ」


「怒ってません」


言いながら朝倉は葵の向かいへ座った。


玲司はノートパソコンを閉じる。


久我省吾。


昼まで知らなかった名前が、二つの場所から出てきた。


今は、それだけだった。


*


上野の店では、閉店前の客がまだ二組、食事をしていた。


久我省吾が暖簾をくぐると、レジにいた店長が顔を上げた。厨房へ声をかけようとしたのを、久我は片手で止める。


「いいよ。客がいるんだから」


入口に近い席で、古い上着を着た男が茶碗を置いた。


「社長さん。いつもすいません」


「今日は何食ってるの」


「生姜焼きです」


久我は男の皿を覗き、店長を振り返った。


「俺にもそれ。飯は少なめで」


「奥へお持ちしますか」


「ここでいい。間宮、お前は?」


一緒に入ってきた間宮は、先に隣のテーブルの椅子を引いた。久我の事業を長く手伝ってきた男で、外出するときはこうして同行することが多い。


「同じ物を」


「こいつの飯は普通にしてやって」


店長が笑って厨房へ向かうと、久我は上着のボタンを外して座った。間宮が椅子を入口へ寄せすぎていたので、客が通れるよう、自分の方へ引かせる。


先ほどの男が食べ終わって立ち上がった。金を出す様子はなく、店長も皿を下げながら見送った。久我にも頭を下げるので、久我は卓上の紙ナプキンを指した。


「口、ついてるよ」


男は慌てて口元を拭き、照れたように笑って出ていった。


料理が届くと、久我はすぐに箸を取った。肉を一切れ食べてから、店長へ声をかける。


「前より薄くした?」


「少しだけ。固いっておっしゃる方がいたので」


「うん。この方が食いやすいな」


店長の顔がほころんだ。厨房へ戻っていく背中を見送り、久我は味噌汁へ手を伸ばした。


最後の客が帰ってから、間宮が隣の席を一度見た。厨房では店長が食器を洗っており、水音に交じって皿の触れ合う音が続いている。


「ギアの方ですが、先月より出ています」


久我は箸を止めなかった。


「どのくらい」


間宮が声を落として数字を伝えると、久我はようやく顔を上げた。聞き直しはしなかったが、口元が少し緩んだ。


「思ったより早いな」


「一度買った人間が、また欲しがるそうです」


「じゃあ、まだ売れる」


「ただ、街で目立つようにもなっています」


「売れてる物は、名前も出るだろ」


久我は肉を一切れ取り、飯の上へ置いた。間宮の箸が動いていないのを見ると、皿の方を顎で示した。


「食えよ。話は車でもできる」


厨房から、店長が味を尋ねた。


久我はそちらへ茶碗を持ち上げた。


「うまいよ。飯、少なめにしなきゃよかったな」


*


練習後のフィールドには、照明だけが残っていた。


片づけを終えた部員たちが次々に建物へ戻る中、桐生大雅は同じ三年のレシーバーを相手に、もう一本だけと頼んでボールを投げていた。


「ほんとにこれで最後だからな!」


離れた場所から声が飛んでくる。


「取れたら終わる」


「ミスったら俺のせいみたいに言うなよ!」


相手が走り出す。


大雅はその背中を見ながら一歩下がり、ボールを構えた。


狙う位置が自然に決まる。


腕を振ると、ボールは夜の照明を横切り、走っている相手の少し前へ落ちていった。


レシーバーは速度を落とさず両手を伸ばし、そのまま胸元で受け止めた。


「……お前、最近ほんと外さないな」


ボールを抱えて戻ってきた相手が、呆れたように言った。


「取った方も褒めろよ」


「俺は前からうまい」


「はいはい」


二人でベンチへ向かう。


ヘルメットを置いたレシーバーが、大雅を横から見た。


「社会人の話、どうなってんの?」


「まだ決まってない」


「でも、この前見に来てたんだろ?」


「ああ」


「いいなあ」


冗談っぽい声だったが、大雅には少し羨ましがっているのが分かった。


ほんの少し前まで、自分も卒業後に競技を続けられるのか分からなかった。


今は違う。


試合に出る機会が増え、結果も出ている。社会人チームからの話も、ただの噂ではなくなってきた。


「それでさ」


隣から声がした。


「何?」


「ほんとに何やった?」


大雅が相手を見る。


「何って」


「急に変わりすぎだろ。前からうまかったけど、最近おかしいって」


「おかしいは余計だろ」


「褒めてんだよ」


笑いながら言ったあと、相手は少し声を落とした。


「何かあるなら教えろよ。トレーニングでも食い物でも」


大雅は答えず、足元のバッグを見た。


中には小さなケースが入っている。


莉奈の顔が浮かんだ。


ホテルで倒れたあと、意識が戻っていないと聞いた。それを忘れたわけではない。


大雅自身も、一度はギアを捨てようと考えた。


それでも、やめなかった。


使った日は体が動く。


パスが通る。


試合に出られる。


ずっと欲しかった場所が、手の届くところまで来ている。


「何だよ」


相手が笑う。


「その顔。絶対なんかあるじゃん」


大雅はバッグを引き寄せた。


「何でもいいんだよな?」


「筋トレでも何でも教えろって」


「あとで文句言うなよ」


「何だそれ」


大雅はファスナーを開けた。


奥に入れていたケースを取り出す。


それを見た相手の笑顔が少し薄れた。


「……薬?」


大雅は蓋を開いた。


縁に切れ込みのある灰色の錠剤が並んでいる。


「何これ」


「俺が使ってるやつ」


「マジで?」


相手はケースと大雅の顔を交互に見た。


「大丈夫なのかよ」


大雅の指が、一錠に触れる。


ほんの一瞬、莉奈の姿がまた浮かんだ。


それでも手は引かなかった。


「俺は何回も使ってる」


大雅は一錠を摘まみ上げた。


「……試してみる?」


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