第29話 何のための薬
朝倉ひなたの荷物が増えただけで、中野の仕事部屋が昨日までより狭くなった気がした。
大きなバッグが玄関脇に置かれ、洗面所には見覚えのない化粧品が並んでいる。仕事用の机では朝倉がスマートフォンを見ており、その向かいで葵が髪をまとめていた。
玲司は冷蔵庫から水を取り出しながら、机の脇にある収納へ目をやった。
中には入っていない。
真壁から渡された五錠は、別の場所へ移してある。それでも警察官が同じ部屋にいると思うと、昨日までは気にもしなかった棚や引き出しまで妙に目についた。
「黒瀬さん」
「何?」
「この下、使っていいですか」
朝倉が机の下段を指した。
「ダメ」
思ったより早く声が出た。
朝倉が怪訝そうに玲司を見る。
「何か入ってるんですか?」
「仕事の物」
「そうですか」
あっさり引いたので、玲司は少し離れた棚を指した。
「朝倉、そっちなら空いてるぞ」
朝倉が顔を上げる。
「今、呼び捨てにしました?」
「したけど」
「しないでください」
「なんで?」
「なんでって……普通、昨日会ったばかりの人を呼び捨てにします?」
横で聞いていた葵が笑った。
「じゃあ、ひなちゃん」
朝倉がすぐにそちらを向く。
「篠崎さんも。勝手にちゃん付けしないでください」
「いいじゃん。ひなちゃんって感じするし」
「どういう感じですか」
「ちっちゃいし」
「身長は関係ないでしょ」
朝倉が少しむっとすると、葵はさらに楽しそうに笑った。
「ほら、そういうとこ」
「何なんですか、二人とも」
玲司は水を飲みながら口元を緩める。
「朝倉でいいだろ。呼びやすいし」
「よくないです」
「ひなちゃんも呼びやすいよ」
「そっちはもっと嫌です」
「じゃあ決まり」
「決まってません」
朝から面倒な二人を相手にすることになったと言わんばかりに、朝倉が小さく息を吐いた。葵はまだ笑っている。
そのとき、葵のスマートフォンが震えた。
画面を見た葵の表情が少し変わる。
『この前のやつ、少し分かった。話せる?』
三枝直人からだった。
葵は朝倉へ目を向けた。スマートフォンを見ていた朝倉と目が合い、何でもない顔で画面へ戻る。
『今は無理』
送ってすぐ、もう一通続けた。
『今日、店来れる?』
少しして返信が来た。
『店?』
『MUSE』
『なんで分析結果話すのにキャバクラ行かなきゃいけないの』
葵は少し考え、『客で来て』と返した。
『俺が金払うの?』
返事の代わりに、投げキッスのハートマークのスタンプを一つ送る。
『……まあ、行くけど』
それを見て、葵は画面を閉じた。
「何笑ってんの?」
玲司に言われ、そこで自分が笑っていたことに気づく。
「別に」
「絶対なんかあるだろ」
「ない」
朝倉が二人を見た。
「何か隠してません?」
「朝から疑いすぎじゃない?」
「昨日までの行動を考えると、これくらいでちょうどいいと思います」
「感じ悪」
葵はバッグを肩に掛けた。
「私、仕事だから」
「《MUSE》?」
「うん」
朝倉は時刻を確認する。
「終わったら連絡してください。そのままどこか行かないでくださいね」
「分かってるって、ひなちゃん」
「だから、それやめてください」
葵は聞こえなかったような顔をした。
二人が言い合っているところへ、今度は玲司のスマートフォンが鳴った。表示されたのは事務所からだった。
「はい」
電話に出ると、人探しの仕事が入った。
数年前から行方が分からなくなっている男について、最近になって上野でよく似た人物を見かけたという情報が寄せられたらしい。本人かどうか、現地で確認してほしいという依頼だった。
依頼人は男の娘で、これまでも手がかりが出るたびに探してきたものの、本人にはたどり着けていないという。
「分かりました。写真と目撃場所、送ってください」
電話を切ると、玲司は届いた画像を開いた。
「人探し?」
葵が横から覗き込む。
「何年も行方が分からない父親。上野で似た人を見たって情報が入ったらしい」
「それ確認しに行くの?」
「ああ。本人なら連絡する」
「普通の仕事じゃん」
「俺だって普通の仕事するんだよ」
「へえ」
「その反応やめろ」
朝倉も画像を確認した。
「私も行きます」
「これにも?」
「監視役なので」
「目撃情報が本当か見に行くだけだぞ」
「昨日も最初は、篠崎さんを探すだけだったんじゃないですか?」
玲司は何も言い返せなかった。
三人は葵の出勤時間に合わせて中野を出た。
まず向かったのは《MUSE》だった。
店の近くまで来ると、葵が二人を振り返る。
「ここまで来なくてもよくない?」
「送っていくだけです」
朝倉が答える。
「子供じゃないんだけど」
「昨日誘拐されたばかりでしょう」
「それ毎回言うつもり?」
「必要がなくなるまでは」
葵が嫌そうな顔をした。
玲司は二人のやり取りを聞きながら、店の入口を見る。
「ほら、遅れるぞ」
「分かってる」
葵は玲司を睨んでから、朝倉にも目を向けた。
「終わったら連絡する。それでいい?」
「お願いします」
「じゃあね、ひなちゃん」
「だから――」
朝倉が言い終える前に、葵は片手を振って《MUSE》へ入っていった。
朝倉は閉まったドアをしばらく見ていた。
「……絶対わざとですよね」
「気に入られたんじゃない?」
「嬉しくないです」
「そのうち慣れるって、朝倉」
「黒瀬さんもです」
玲司は笑いながら歩き出した。
葵を店まで送り届けた二人は、そのまま上野へ向かった。
*
《MUSE》へ三枝が現れたのは、葵が仕事に入って一時間ほど経ってからだった。
案内されてきた三枝は、少し緊張した様子で席へやってきた。
「……ほんとにここで話すの?」
「来たんだから座れば?」
「いや、来いって言ったのミオちゃんだからね」
葵が隣へ座る。
「ここではユナ」
「ユナちゃん?」
「そう」
三枝は改めて葵を見た。
「いいじゃん。こないだとは雰囲気が変わって、ユナちゃんって感じする」
「何それ」
葵は店員を呼び、三枝の前へメニューを押した。
「何飲む?」
「この後、大学に行くから」
「じゃあ適当に頼んで」
「完全に客扱いなんだ」
「客で来いって言ったでしょ。サービスしとく」
三枝はソフトドリンクを注文した。
グラスが届くまで、葵は普段の接客と変わらない顔で話していた。店の奥にはほかのキャストもいる。ここなら朝倉も玲司もいないし、三枝と二人で話していても、外から見ればただの客とキャストだった。
グラスが置かれ、店員が離れると、葵は声を落とした。
「で?」
三枝も表情を変える。
「先に言っとくけど、全部分かったわけじゃないからね」
「分かってる。何が分かったの?」
三枝は一度グラスへ手を伸ばしたが、そのままテーブルへ戻した。
「結論から言うと、あれ、素人が適当に作った物じゃない」
葵は黙って続きを待った。
「市販の薬から何か取り出して、それを混ぜたり加工したりすれば作れるような物でもない。少なくとも、俺が見た範囲ではね」
「じゃあ、ちゃんとした薬ってこと?」
「逆。そこが変なんだよ」
「何が?」
「作る側には、それなりの知識がいる。でも出来上がった物は、正規の医薬品みたいにきれいじゃない」
三枝は言葉を選びながら続けた。
「この一錠だけ見て全部は言えないけど、精製の状態とか、錠剤としての仕上がりとか、そういうところは粗い。製薬会社が普通に商品として出す物には見えない」
「でも、素人には作れない?」
「たぶん無理。知識だけじゃなくて設備もいるし、専門の原料も必要になる」
葵はテーブルのグラスへ目を落とした。
「そういう材料って、普通に買えるの?」
「物による。でも、専門的な化学物質をまとまった量で買い続ければ、何かしら記録は残ると思う」
「じゃあ、どっかから買ってるの調べたら分かるじゃん」
「そんな簡単なら、警察がとっくに見つけてるんじゃない?」
「じゃあどうしてんの」
「知らないよ」
三枝は即答した。
葵が睨むと、少し考えてから付け足す。
「原料の一部を自分たちで作ってる可能性はある。でも、あくまで可能性だけ。あの一錠から、そこまでは決められない」
「それにも設備いる?」
「当然、簡単にはいかない」
三枝はそこで一度言葉を切った。
「だから、変なんだよ」
「どういうこと?」
「ある程度の知識があって、設備も使って、簡単には手に入らない材料まで用意してる。それなのに、出来上がった物は正規の薬ほど丁寧に作られてない」
葵にも、三枝の言いたいことは何となく分かった。
ただの素人が遊びで作った物ではないが、かといって、表で売られる医薬品でもない。
「覚醒剤とかじゃないの?」
「俺が確認できた範囲では違う。代表的な麻薬とか、よく知られてる違法薬物の成分とも一致しなかった」
「じゃあ麻薬じゃない?」
「そういう意味じゃない」
三枝の返事は早かった。
「知られてる物と一致しないってだけ。安全だとも合法だとも言ってない」
「依存は?」
「分からない」
「それも?」
「成分を見ただけで、人間が何回使ったら依存するかまでは分からないよ」
少し強い口調になった。
葵はミサキを思い出した。二日か三日するとまた欲しくなると言っていたうえ、食事もほとんど取らず、それでも本人は平気だと笑っていた。
「じゃあ、飲んだらどうなるかも?」
「詳しくは分からない。人体への作用とか、長く使ったらどうなるとか、一錠調べただけでそこまでは分からないよ」
葵は少し迷ってから口を開いた。
「私、これ飲むと力出るんだけど」
三枝の動きが止まった。
「……え?」
「力。すごい出る」
「それ今言う?」
「だって聞かれなかったし」
「薬調べてくれって頼んどいて、それ後から言う?」
「聞かれなかったし」
三枝はしばらく葵の顔を見ていた。
「ほかの人も?」
「違う。変にテンション上がったり、痛いの気にしなくなったりする人はいたけど、私とは違う」
「それ、同じ薬なの?」
「見た目は同じだった」
「……分からないな」
三枝は椅子の背にもたれた。
「成分だけ見ても、なんで君だけそうなるのかは分からない。体質なのか、量なのか、それ以外なのかも」
そこでようやくグラスを持ち、一口飲んだ。
葵はその横顔を見る。
「じゃあ結局、何の薬なの?」
今度は三枝が黙った。すぐに「分からない」と返してくると思ったが、そうではなかった。
「……それ、俺も気になってる」
「何が?」
「これ、本当に最初から違法ドラッグとして作られた物なのかなって」
葵が眉を寄せる。
「どういう意味?」
「そのままの意味。最初から歌舞伎町で売るために作ったのか、それとも別の目的があった物なのか」
「分かるの?」
「そこまでは分からない」
三枝はグラスを置いた。
「ただ、これだけ手間のかかる物を、何のために作ったんだろうなって思っただけ」
葵は答えなかった。
グラスの中で、氷が小さく鳴った。
これまで葵が考えていたのは、誰がギアを売っているのか、誰が自分を狙ったのかということばかりだった。
何のために作ったのか。
その疑問は、一度も考えたことがなかった。
*
その頃、玲司と朝倉は、目撃情報のあった上野駅周辺を歩いていた。
目撃された場所を中心に、近くの店や路上で聞き込みを続ける。朝倉も写真を見せながら、玲司の仕事を手伝っていた。
しばらくして、朝倉が通り沿いの店員に声をかけた。
「すみません。この人、この辺で見かけたことないですか?」
スマートフォンの写真を見せながら話す朝倉を少し離れた場所で待ち、玲司は辺りを眺めていた。
そのとき、向かいの歩道を歩く男が目に入った。
伸びた髭に汚れたジャンパー。肩には小さなバッグを掛けている。写真の男よりかなり痩せていたが、目元がどこか似ていた。
玲司はスマートフォンの写真を見直した。
男は通りを渡り、そのまま少し先の飲食店へ入っていく。
玲司は朝倉を見る。まだ店員と話していた。
まあ、すぐ戻ればいいか。
そう思い、そのまま男を追った。
聞き込みを終えた朝倉が振り返ったときには、玲司の姿はなかった。
「……黒瀬さん?」
*
玲司は少し遅れて飲食店へ入った。
昼を過ぎていたせいか、店内はそれほど混んでいない。さっきの男は壁際の席に座り、慣れた様子で定食を頼んでいた。
玲司も少し離れた席へ座り、スマートフォンの写真と男の顔を見比べる。
写真が撮られたのは数年前だ。髪も髭も伸び、頬はかなり落ちているうえ、服も汚れている。長く路上で暮らしているように見えたが、目元と鼻の形には写真の面影が残っていた。
本人かもしれない。
もう少し確かめてから声をかけよう。
やがて料理が運ばれてくると、男はほとんど休まず食べ始めた。その様子を見ているうちに、玲司はほぼ本人だと確信した。
目撃情報は当たっていた。
あとは店を出たところで声をかければいい。そう考え、玲司も適当に注文した。
先に食べ終えた男が立ち上がった。
伝票を持っていない。そのまま入口へ向かい、レジの前を通る。店員も男を見ているのに、誰も止めなかった。
「ありがとうございました」
店員が普通に声をかける。
男は振り返らずに片手を上げ、そのまま外へ出ていった。
「……え?」
玲司は入口を見た。
会計をしたようには見えなかった。常連で後払いなのか、誰かがまとめて払っているのかもしれない。
そう考えていると、別の席にいた年配の男も立ち上がった。着古した服に大きな紙袋を持ち、その男もレジへは向かわない。
「ごちそうさん」
「はい。またね」
店員は笑って返し、男もそのまま店を出ていった。
玲司は店内を見回した。
ほかの客は普通に会計をしている。入口にも壁にも無料食堂や生活支援を示すものはなく、慈善活動を宣伝するようなポスターも見当たらない。
二人とも、金を払わずに帰った。
玲司は残っていた料理を口へ運んだ。
困っている人間に飯を食わせること自体は悪くない。そんな店があってもいい。
ただ、それならなぜ何も掲げていないのか。なぜ店員は、あれほど当たり前のように帰しているのか。
会計を済ませて外へ出ると、探していた男は少し先を歩いていた。
玲司は追いついた。
「すみません」
男が振り返る。
「娘さんから頼まれて来ました」
その瞬間、男の顔が固まった。
「……帰らないぞ」
「連れて帰る仕事じゃないです。無事かどうかだけでも知らせてほしいって」
男は黙った。
玲司は少し離れたところで立ち止まる。
「生きてるって伝えていいですか」
「好きにしろ」
「一回くらい連絡した方がいいと思いますけど」
「分かってる」
本当に分かっているのかは怪しかったが、何年も帰らずにいた人間を、玲司がここで説得できるとも思えない。
玲司は店の方を振り返り、もう一つ尋ねた。
「さっきの店、食事代は払わなくていいんですか」
「ああ。俺らにはタダで食わせてくれる」
玲司は朝倉へメッセージを送った。
『本人だった』
ほとんど間を置かずに返信が来た。
『どこにいるんですか?』
続けて、もう一通。
『勝手にいなくならないでください』
玲司は店の名前と場所を送った。
『すぐ行きます』
「怒ってるな……」
画面を閉じると、男はもう歩き出していた。
玲司はその背中を見送り、さっきの店へ目を戻す。
入口から見れば、ごく普通の飲食店だ。支援活動をしているようには見えないし、それを宣伝している様子もない。それなのに、金を払わない客へ当たり前のように料理を出している。
もし、金を払っていない客の分まで「売上があった」ことにしているとしたら、その分だけ別の現金を混ぜることができる。
「……いや」
玲司はそこで考えるのをやめた。
証拠は何もない。ただ飯を食わせているだけかもしれない。
それでも、店の名前はスマートフォンに残しておいた。
少しして、朝倉が早足でやってきた。
「黒瀬さん!」
「悪い、朝倉。本人っぽいの見つけたから」
「悪いじゃないですよ。振り向いたらいないし」
「すぐ戻るつもりだったんだよ」
「戻ってないじゃないですか」
「まあ、そうだけど」
朝倉は頬を少し膨らませた。
「ほんとに勝手にいなくなるんですね」
「久世から聞いてた?」
「聞いてましたけど、こんなに早く実感したくなかったです」
「次は言うよ」
「絶対ですよ」
「たぶん」
「そこは『はい』でしょ」
「はいはい」
「一回でいいです」
玲司が笑うと、朝倉はまだ少し不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
「それで、本人でした?」
「ああ。目撃情報は当たりだった」
「話は?」
「無事だって伝えていいって。帰る気はなさそうだけど」
「じゃあ、依頼人には報告できますね」
「まあな」
朝倉は男が消えた方向を一度見た。
「戻ります?」
玲司は答える前に、もう一度だけ店を見る。
「……朝倉」
「何?」
「いや、何でもない」
今はまだ、自分でも何を見つけたのか分からない。ただ、無料で飯を食わせているだけの店が妙に引っかかった。
玲司は店の名前が保存された画面を閉じた。
葵が《MUSE》で三枝から聞いた言葉を、玲司はまだ知らない。
何のために作った薬なのか。
そして玲司の方にも、別の疑問が一つ残っていた。
何のために、この店は人知れず飯を食わせているのか。




