第26話 救出
タクシーが歌舞伎町を離れてすぐ、玲司は久世へ電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってくる。
『黒瀬? どうした』
「葵がいなくなりました」
向こうが黙った。
『……何?』
「今日、《MUSE》を出たあとから連絡がつかないんです。スマホだけ歌舞伎町に落ちてました」
『本人は?』
「いません」
『店を出た時間は確認したのか』
「しました。とっくに仕事は終わってます」
車窓の向こうを流れていた新宿の明かりが、少しずつ遠ざかっていく。
久世の声から、いつもの軽さは消えていた。
『今どこだ』
「タクシーです。板橋の舟渡に向かってます」
『何で舟渡なんだよ』
当然の質問だった。
玲司は少し迷ったが、隠している場合ではない。
「真壁って男がいます」
『真壁?』
「前に、ギアを買おうとして会った奴です」
『待て。そんな男の話、俺は聞いてないぞ』
「言ってませんでしたから」
『何でだよ』
「それは後で怒ってください」
『もう怒ってるよ』
久世の声が強くなった。
「今は葵の方が先です」
そう言うと、電話の向こうが一瞬静かになる。
玲司は続けた。
「真壁は俺の名前も、葵の本名も知ってました。俺たちがギアを調べてることも知ってた。それで、葵に協力させたいって言ってきたんです」
『協力って何をする』
「ギアを使ったときの反応を見たいって。指定したところへ何度か来いって話でした」
『それを今まで黙ってたのか』
「だから、それはあとで」
『お前な……』
久世が何か言いかけ、やめた。
『それで、今回その真壁に連絡したのか』
「はい。葵がいなくなった、お前かって」
『返事は』
「自分じゃないって。でも、状況を話したら心当たりがあるって言い出しました」
『それで舟渡?』
「まだ詳しい場所は来てません。板橋区舟渡まで来いって、それだけです」
久世が小さく息を吐いた。
『分かった。着いたらすぐ連絡しろ』
「はい」
『それと、真壁から何か来たらその時点で連絡。勝手に動くなよ』
「分かってます」
『黒瀬』
「何です?」
『今の返事、信用してないからな』
「こんなときまでそれ言います?」
『こんなときだから言ってんだよ』
通話が切れた。
玲司はスマートフォンを膝の上へ下ろした。
向かいの車線を何台もの車が流れていく。
葵のスマートフォンは、もう一方のポケットに入っていた。
路上に落ちていたあのスマートフォンが、ただの落とし物だったならどれだけ楽だったか。
「……クソ」
玲司は座席へ背を預けようとして、やめた。
じっとしていると余計なことばかり考える。
真壁は何を知っている。
誰が葵を連れていった。
そして、なぜ葵なのか。
何一つ答えは出なかった。
*
タクシーが板橋区舟渡へ入った頃には、歌舞伎町とは街の景色が大きく変わっていた。
人通りは少なく、道路沿いには倉庫や事業所らしい建物が目立つ。大きな車とすれ違うたび、低い走行音が車内まで響いてきた。
「この辺でいいですか?」
運転手に聞かれ、玲司はスマートフォンの地図を見る。
「すみません。もう少しだけ先で止めてもらえますか」
真壁から指定されたのは舟渡までだった。
正確な場所はまだ来ていない。
大通り沿いの少し開けたところでタクシーを止めてもらい、玲司は久世へ電話した。
『着いたか』
「舟渡には着きました。でも、まだ住所が来てません」
『そこから動くな』
「真壁から連絡来たら?」
『すぐ俺に寄越せ。場所が分かっても一人で行くな』
「分かりました」
『本当だな?』
「二回言わせないでくださいよ」
『お前の場合、十回くらい言っても足りない』
こんな状況なのに、少しだけいつもの久世が戻った。
玲司は通話を切る。
「すみません」
運転席へ声をかけた。
「もう少し待ってもらっていいですか」
「大丈夫ですよ」
玲司は窓の外を見ながら待った。
五分。
何も来ない。
匿名アプリを開く。
『着いた。どこだ』
送信。
既読表示はない。
「早くしろよ……」
さらに数分。
スマートフォンが震えた。
玲司はすぐに画面を見る。
真壁から位置情報が送られていた。
『ここだ』
地図を開く。
今いる場所から、それほど離れていない。
「すみません、ここへ。急いでください」
玲司が地図を見せると、運転手はすぐに車を出した。
玲司は後部座席で地図を開いたまま、真壁へ返信する。
『葵はそこにいるのか』
『いる可能性が高い』
『可能性じゃなくて確認しろよ』
『こっちの人間を先に向かわせてる』
玲司の指が止まった。
『誰だ』
返事はない。
代わりに、
『お前は建物の前で待て。中には入るな』
と送られてきた。
「またそれかよ」
玲司は画面から顔を上げた。
車はすでに目的地へ向かっている。
住宅の並びから少し離れ、倉庫や古い事業所が目立つ一角へ入っていく。
玲司は地図と窓の外を何度も見比べた。
「もう少し先です」
「この辺ですか?」
「はい。あの建物です」
前方に、二階建ての古い建物が見えた。
一階には大きなシャッターがあり、その横に人が出入りするための小さな扉がある。二階の窓は暗く、外から中の様子までは分からなかった。
「ここです。この建物の前につけてください」
タクシーが建物の前へ寄って停まった。
玲司は料金を払いながら、自分のスマートフォンを取り出した。
久世へ場所を伝える。
そのつもりだった。
後部座席のドアを開け、外へ出る。
その瞬間だった。
建物の中から、何かが大きくぶつかる音がした。
玲司の動きが止まる。
続けて男の怒鳴り声。
「誰なんだよ、てめえ!」
また激しい音が響いた。
金属製の何かが倒れたような、耳障りな音だった。
「……葵」
玲司は建物を見る。
スマートフォンには久世の名前が表示されたままだった。
かければいい。
警察を待てばいい。
頭では分かっている。
その間にも、建物の中からもう一度大きな音がした。
玲司は運転席へ回った。
「すみません!」
窓越しに声をかける。
運転手が驚いてこちらを見る。
「警察呼んでください!」
「え?」
「この建物です。人がさらわれてるかもしれない!」
玲司はスマートフォンに表示された住所を見せた。
「ちょ、ちょっと待って、お客さんは?」
「中見てきます!」
「いや、危ないですよ!」
返事をせず、玲司は建物へ走った。
*
入口の扉は完全には閉まっていなかった。
玲司が押すと、そのまま内側へ開く。
「葵!」
声を上げながら中へ入った。
すぐに異変に気づく。
入口から少し入ったところに男が倒れていた。
見覚えはない。
男は床へ横向きに倒れ、腹を押さえたまま呻いている。玲司が駆け込んできた気配に顔を上げたものの、苦しそうに眉を歪めただけだった。
「ぐっ……」
玲司は男に構わず、廊下の先へ目を向ける。
もう一人いた。
壁際に座り込むように倒れ、鼻から血を流している。
「葵!」
「玲司?」
奥から声がした。
間違いない。
玲司は一気に廊下を進んだ。
開いたドアの先は、倉庫に使われていたらしい広い空間だった。
倒れた棚。
床に散らばった箱。
その中央に二人いる。
葵。
そして――。
「……は?」
玲司の足が止まった。
戸倉慎吾が立っていた。
少し離れた床には、三人目の男が倒れている。
戸倉の服も乱れ、口元には血がにじんでいた。
「お前……!」
玲司の頭に、ホテルの廊下が蘇った。
ミサキの部屋も。
戸倉が葵を狙い、ギアを奪って逃げたことも。
考えるより先に体が動いた。
「葵から離れろ!」
玲司が踏み込む。
「待って!」
葵の声で足が止まった。
「何だよ!」
「違う!」
「何が!」
「戸倉が助けてくれた!」
玲司は動かなかった。
「……は?」
葵が戸倉と、倒れている男たちを交互に見る。
「私が閉じ込められてた部屋、こいつが開けたんだよ」
「こいつが?」
「そう」
玲司は戸倉を見る。
戸倉は口元の血を手の甲で拭った。
「何だよ、その顔」
「いや……」
何から聞けばいいのか分からない。
「お前、葵さらった側だろ」
「今回は違えよ」
「今回はって何だよ」
「俺に聞くな」
「じゃあ何でここにいる」
「頼まれたから来た」
「誰に?」
玲司が聞いたところで、自分でも答えに気づいた。
「……真壁か?」
戸倉は否定しなかった。
玲司は思わず額を押さえた。
「お前ら、つながってんのかよ」
「今それ聞くか?」
「今だから聞いてんだよ!」
「うるせえな」
戸倉も苛立った声を返した。
少し前まで玲司を殴っていた男と、今は同じ場所で葵の無事を確認している。
状況が滅茶苦茶だった。
玲司は葵へ向き直る。
「怪我は?」
葵は背中へ手を回した。
「後ろから何か当てられて、一回気を失った。まだそこが痛い」
「ほかは?」
「頭がちょっとぼーっとする。でも歩ける」
玲司の顔が険しくなる。
「こいつらにやられたのか?」
「たぶん」
葵は倒れている男たちを見た。
「でも、何聞いても知らないって。真壁のこともギアのことも」
戸倉がその言葉に反応した。
「ギア?」
玲司と葵が同時に戸倉を見る。
「お前、まだ持ってんのか」
葵は答えなかった。
その視線が、壁際に置かれている黒いバッグへ向く。
戸倉も見た。
「まだ持ってんのかよ」
「悪い?」
「悪いとかじゃねえ」
そのとき、遠くからサイレンが聞こえた。
戸倉の顔つきが変わる。
玲司も入口の方を見る。
まだ距離はある。
だが、確実にこちらへ近づいている。
「警察呼んだのか」
戸倉が玲司を見る。
「当たり前だろ」
「クソが」
「俺に言うなよ。葵さらわれてんだぞ」
戸倉は舌打ちすると、葵のバッグを指した。
「ギア、今持ってんの何錠だ」
「二錠」
「それだけか」
「今持ってるのはね」
「出せ」
葵の眉が寄る。
「は?」
「全部よこせ」
「何であんたに渡すの」
サイレンが少しずつ近づいてくる。
戸倉は苛立ったように入口を見た。
「それ持ったまま警察に会う気かよ」
葵が黙った。
玲司もバッグを見る。
意味は分かった。
「……そういうことか」
戸倉が葵へ手を出す。
「早くしろ」
葵は数秒迷ったあと、バッグを拾った。
ファスナーを開け、小さなケースを取り出す。
中には灰色の錠剤が二錠残っていた。
葵がケースを差し出すと、戸倉はそのまま受け取った。
玲司が聞く。
「お前が持って逃げるのか」
「ああ」
「見つかったら余計まずいだろ」
戸倉が玲司を見る。
「俺はもう警察に追われてんだよ」
言われて、玲司は何も返せなかった。
ホテルで警察官を負傷させて逃げた男だ。
今さら一緒に警察を待てる立場ではない。
戸倉はケースをポケットへ入れた。
「じゃあな」
「待てよ」
玲司が止める。
「何だ」
「お前、本当にこれだけのために来たのか」
「行けって言われた。それだけだ」
「何でお前が真壁の言うこと聞いてんだよ」
「今度聞いとけ」
「お前に聞いてんだよ」
「警察来てんだろ。暇かよ」
戸倉が歩き出す。
葵がその背中を見た。
「戸倉」
足が止まる。
振り返りはしなかった。
「……何だよ」
葵は何か言おうとして、一度口を閉じた。
「別に」
「呼ぶなよ」
戸倉はそれだけ言って、建物の奥へ消えていった。
玲司が葵を見る。
「何だったんだよ」
「知らない」
「お前も知らないのかよ」
「私だって意味分かんないよ」
サイレンが急速に近づく。
今度は一台ではない。
玲司は倒れている三人へ目を向けた。
一人が何とか起き上がろうとしていたので、思わず声を上げる。
「動くなよ」
「……何だよ、お前ら」
「俺も聞きたいよ」
建物の外で車が止まる音がした。
*
「警察です! その場から動かないでください!」
入口から声が響いた。
制服姿の警察官が数人入ってくる。
玲司は両手を見える位置まで上げた。
「俺らじゃないです」
「分かりました。まずそこにいてください」
倒れていた男たちの確認が始まり、葵のところにも警察官が来る。
「怪我はありますか?」
葵は背中へ手を回した。
「後ろから何か当てられて、一回気を失いました」
「どの辺ですか?」
「この辺。まだちょっと痛いです」
「ほかに痛むところは?」
「頭が少しぼーっとします。歩けるけど」
警察官は葵の様子を確認すると、その場に座るよう促した。
玲司が横へ行こうとしたが、一度止められる。
「知り合いです」
「分かっています。少し待ってください」
「はい」
今度は素直に止まった。
建物の中が一気に騒がしくなる。
外にも赤い光が見えた。
少しして、入口から久世が入ってきた。
その後ろには榊もいる。
久世は中を一通り見たあと、玲司を見つけた。
その顔が露骨に険しくなる。
「黒瀬」
「はい」
「俺、お前に何て言った?」
玲司は少し考える。
「着いたら連絡しろ」
「それから?」
「真壁から連絡来たらすぐ知らせろ」
「それから?」
「……勝手に動くな」
「全部覚えてるじゃないか」
久世が額を押さえた。
「連絡しようとしたんですよ」
「したんですよ、じゃない」
「中ですごい音したんですって」
「だからって一人で入るか?」
「入りますよ」
「何で即答なんだよ」
榊は葵のそばへ行き、先に対応していた警察官から短く状況を聞いた。
「意識を失ったんですか?」
「はい。一回」
「無理に立たないでください」
「分かりました」
久世はそれを横目で確認してから、倒れている三人を見る。
「こいつらが篠崎を?」
「たぶん」
葵が答えた。
「歌舞伎町で声かけてきた奴が一人います。あと、車に乗せられたときにも何人かいました」
「何か言ってた?」
「ほとんど何も。聞いても知らないって」
「ギアについては?」
「聞きました。でも、知らないみたいでした」
久世の目が少し細くなる。
「真壁は?」
「それも知らないって」
久世は考えるように倒れた男たちを見る。
やがて、玲司へ向き直った。
「それで、お前が入ったときにはどうなってた」
玲司の口が止まる。
葵もこちらを見た。
ほんの短い間だった。
「……もう、こいつらは倒れてました」
嘘ではない。
「誰がやった?」
久世が聞く。
玲司と葵の視線が一瞬だけ重なった。
葵が先に答えた。
「私をさらったのは、この三人です」
「いや、それは聞いてる。倒したのは誰だ」
今度は二人とも黙った。
久世が眉を寄せる。
「お前ら」
玲司は建物の奥を一度だけ見た。
戸倉の姿はもうない。
「……それも、あとで話します」
「黒瀬」
「今度は逃げませんから」
「そういう問題じゃないんだよ」
久世の声が響いた。
建物の外では、まだ警察車両の赤い光が回っていた。
少し前まで閉じ込められていた葵は、今は警察官に囲まれて座っている。
玲司はその姿を見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
お読みいただき、ありがとうございます。
第14話から第26話までが、第2部となります。
いかがでしたでしょうか。
第2部では、物語をどこまで広げるか、どのタイミングで新しい人物や謎を出すかなど、頭をひねりながら展開を考えてきました。
おかげさまで、9月の連休は寝るのも忘れるくらい、物語を描くことに没頭できました。
大変な部分もありましたが、それ以上に楽しかったです。
ここから物語は、さらに大きく動いていく予定です。
不定期投稿になりますが、
引き続き『ギア23区』を楽しんでいただけましたら幸いです。
よろしくお願いいたします。
※訂正:物語を見直しまして、14話から28話までを第2部とさせてください。2026/09/29
※タイトルを『歌舞伎町ドラッグ・ギャンビット』に変更しました。2026/10/01




