第25話 行方不明
呼び出し音が七回鳴ったところで、玲司は諦めかけた。
これで何度目か分からない。
「出ろよ……」
切ろうとスマートフォンを耳から離しかけた、そのときだった。
『……もしもし?』
玲司の手が止まった。
聞こえてきたのは葵ではなく、知らない男の声だった。
「誰だ?」
『え?』
「そのスマホ、誰のだ」
『いや、俺も分かんないです。道に落ちてたんで』
玲司はソファから立ち上がった。
「どこに?」
『どこって……歌舞伎町ですけど』
「場所、詳しく教えて」
『ちょっと待ってください』
電話の向こうで、男が近くにいる誰かと話す声がした。少しして周囲の騒音が遠ざかり、男が戻ってくる。
『映画館の近くです。広場からちょっと外れた通り』
葵が仕事を終えたあと、よく通る辺りだった。
「それ、今持ってます?」
『持ってますよ。交番に持ってこうかと思ってたんですけど』
「すみません。俺、そのスマホの持ち主の知り合いです。今から取りに行くんで、少しだけ待ってもらえませんか」
『え、本人じゃないんですか?』
「連絡つかないんです」
一瞬、相手が黙った。
『……じゃあ、近くのコンビニの前にいます』
「すぐ行きます」
通話を切り、玲司は上着を掴んだ。
玄関まで行きかけたところで、まだ単に落としただけかもしれないと思い直す。葵ならスマートフォンを落としたことにも気づかず、どこかで誰かと喋っていることだってあり得る。
そう考えたものの、仕事が終わってからはかなり時間が経っていた。
念のため、《MUSE》へ電話をかける。
『はい、《MUSE》です』
「あの、ユナってまだ店にいます?」
『ユナですか? もう上がってますけど』
予想していた答えなのに、胸の奥が少し重くなった。
「何時くらいに出ました?」
時間を確認すると、葵はとっくに営業を終えて店を出ている。
「分かりました。ありがとうございます」
電話を切った玲司は、今度こそ部屋を飛び出した。
*
歌舞伎町へ向かう間にも、玲司は二度、葵のスマートフォンへ電話をかけた。
そのたびに、先ほどの男が出る。
三度目には、
『ちゃんと待ってますから、そんな何回もかけなくて大丈夫ですよ』
とまで言われた。
「すみません」
謝って通話を切る。
自分でも落ち着いていないのが分かった。
指定されたコンビニまで行くと、入口の脇に若い男が立っていた。その手には、見覚えのあるスマートフォンがある。
「さっき電話した黒瀬です」
「あ、これ」
差し出されたスマートフォンを受け取り、ケースまで確認する。間違いなく葵のものだった。
「どこに落ちてました?」
「そこの歩道です」
男が少し先を指した。
「踏まれそうだったんで拾っただけです」
「このスマホ持ってた女、見てないですか。十八くらいで、髪長くて」
「いや……」
申し訳なさそうに首を振る。
「スマホしか見てないです」
「そうですか。ありがとうございます」
「何かあったんですか?」
「まだ分かんないです」
今は、それしか答えられなかった。
男と別れ、教えられた場所まで歩く。
周囲にはまだ大勢の人がいた。立ち話をしている若者もいれば、スマートフォンを構えた観光客や、酔って大声で笑っている男もいる。
その中に、葵はいなかった。
拾ったスマートフォンの画面には、玲司が送ったメッセージの通知が残っている。
『今日戻る?』
『どこいる?』
『生きてるなら返事しろ』
「……最後のいらなかったな」
いつもなら、あとで葵に見られて何か言われるところだ。
その葵がいない。
玲司は顔を上げ、もう一度辺りを見回した。長い髪も、いつも肩へ掛けている黒いバッグも見つからない。
「どこ行ったんだよ」
自分のスマートフォンを取り出し、連絡先を開く。
久世凌介。
警察へ相談するなら今だった。葵と連絡がつかず、本人のスマートフォンだけが路上に落ちている。それだけでも、何かあった可能性は十分にある。
発信ボタンを押しかけたところで、御徒町で会った男の顔が頭に浮かんだ。
真壁。
あの男は玲司の名前だけでなく、葵の本名まで知っていた。ギアを渡したうえで、葵に協力させたいとも言っていた。
そして別れ際には、こちらの動きを把握していることまで匂わせていた。
玲司は久世の連絡先を閉じる。
「……先にこっちだ」
匿名のメッセージアプリを開くと、真壁とのやり取りはまだ残っていた。
『葵がいない。お前か』
送信する。
すぐには返ってこない。
玲司が画面を睨んでいると、数分もしないうちに通知が鳴った。
『俺じゃない』
すぐに指を動かす。
『じゃあお前以外に誰がいるんだ』
今度の返事は早かった。
『何があった』
『仕事終わってから連絡がつかない。スマホだけ歌舞伎町に落ちてた』
そこで返事が止まった。
玲司はしばらく待ったが、画面は変わらない。
『おい』
さらに少しして、ようやく真壁から返信が来た。
『少し待て』
『何で』
『心当たりがある』
玲司の指が止まった。
『誰だよ』
『確認する』
『今言え』
『まだ確認できてない』
玲司は舌打ちした。
やはり、何か知っている。
『一時間』
そう送ってから、続ける。
『それまでに返事なかったら久世さんに全部話す』
『お前のことも、取引のことも、大雅のことも全部だ』
今度は少し間があった。
『待て』
『待たねえよ』
『必ず返す。今確認してる』
『一時間だからな』
そこでやり取りが途切れた。
今すぐ久世へ電話することもできる。
それでも、一時間だけ待つと決めた。
真壁が本当に何か知っているなら、まずそこから葵の居場所を引き出したかった。
大雅との約束を破ることになっても、今は葵の無事の方が先だ。
玲司は二台のスマートフォンを握ったまま、その場を離れた。
*
葵が目を開けたとき、最初に見えたのは白い天井だった。
一本だけ点いた蛍光灯の明かりが目に入り、顔を背ける。
「……っ」
体を起こそうとしたが、腕にうまく力が入らない。頭も重く、まだ少し意識がぼんやりしていた。
そのまま何度か呼吸しているうちに、途切れていた記憶が少しずつ戻ってくる。
歌舞伎町で知らない男に声をかけられた。
玲司の知り合いだと言った。
電話をかけようとしたところで、後ろから襲われた。
そのあと、白い車へ押し込まれた。
「……最悪」
床へ手をつき、今度はゆっくり上体を起こした。
そこは古い事務室のような部屋だった。壁際には使われていない机と棚があり、窓にはブラインドが下りている。床には黒ずんだ汚れが残り、部屋の隅には段ボール箱がいくつか積まれていた。
見回しても、自分のバッグとスマートフォンはない。
葵は立ち上がった。
まだ少しふらついたものの、歩けないほどではない。ドアまで行ってノブを回したが、鍵がかかっていた。
「おい!」
拳で叩く。
「開けろ!」
返事はなかった。
もう一度強く叩くと、今度は廊下から足音が近づいてくる。
鍵が外れ、ドアがわずかに開いた。
顔を出したのは、歌舞伎町で最初に声をかけてきた男だった。
「うるせえよ」
「ここどこ」
「大人しくしてろ」
「私のバッグは?」
「知らねえ」
「スマホは?」
「知らねえって」
男はそれだけ言ってドアを閉めようとした。
葵が隙間へ手をかける。
「待って。誰に頼まれたの」
「知らねえよ」
「私をさらっといて?」
「黙ってろ」
「真壁って知ってる?」
葵は男の顔を見た。
表情に変化はない。
「誰だよ」
「じゃあ、ギアは?」
「何の話だ」
男がドアを押した。
「待てって!」
「騒ぐな」
そのままドアが閉まり、再び鍵がかかった。
「ふざけんな!」
葵が蹴っても、もう返事はなかった。
しばらくドアを睨んでから離れる。
真壁を知らないと言い、ギアという言葉にも反応しなかった。
本当に何も知らないのか、知らないふりをしているのかまでは分からない。
ただ、ホテルで自分を連れていこうとした戸倉たちとは何かが違う。
取られたバッグの中には、まだギアが残っている。
あれが手元にあれば、この状態でも何とかできたかもしれない。
「……クソッ」
葵は壁へ背を預けた。
外を大型車が通り過ぎるような音がして、窓ガラスがわずかに震える。
ここがどこなのかも、玲司が自分を探しているのかどうかも分からない。
ただ、スマートフォンが車へ乗せられる前に手から落ちたことだけは覚えていた。
「気づけよ……」
誰に言っているのかは、自分でも分かっていた。
*
一時間という時間は、待っているとやけに長かった。
玲司は葵のスマートフォンをポケットへ入れたまま、何度も匿名アプリを確認していた。
十分、二十分と過ぎ、三十分を越えても真壁から新しい連絡は来ない。
途中で一度、
『まだか』
と送ったが、返ってきたのは、
『確認中だ』
の一言だけだった。
「何を確認してんだよ」
吐き捨てるように言って、また時計を見る。
あと少し。
自分で決めた一時間を超えたら、迷わず久世へ電話する。
そのときは約束も何も関係ない。
葵を見つけるために必要なら、知っていることは全部話すつもりだった。
一時間まで残り十分を切ったところで、スマートフォンが震えた。
玲司はすぐに画面を開く。
『板橋区舟渡まで来い』
真壁からだった。
玲司は眉を寄せ、すぐに地図を開く。
「舟渡……?」
場所を確認してから返信する。
『住所は?』
『まだ送れない』
『何でだよ』
『着いたら連絡しろ』
玲司の指に力が入った。
『葵はそこにいるのか』
少し待って返事が来る。
『いる可能性が高い』
『可能性?』
『確認できたら場所を送る』
「ふざけんなよ……」
声に出してから、さらにメッセージが届いた。
『こっちからも人を向かわせてる』
『誰だよ』
返事はない。
『とにかく舟渡まで来い。着いたら勝手に動くな』
玲司はしばらく画面を睨んでいた。
詳しい場所はまだ分からない。
それでも、さっきまで何もなかった状態から、ようやく一つだけ行き先が出た。
立ち止まっている理由はなかった。
玲司は人通りの多い通りへ出ると、車道を見た。
近づいてきた空車のタクシーへ手を上げる。
車が脇へ寄ると、玲司はすぐに後部座席へ乗り込んだ。
「板橋区の舟渡まで。急いでください」
運転手がナビを操作する間にも、玲司は真壁との画面を見ていた。
「舟渡のどこだよ……」
タクシーが走り出す。
窓の外へ歌舞伎町の明かりが流れていった。
今の玲司が知っているのは、板橋区舟渡という地名だけだった。
正確な建物も、そこで何が待っているのかも分からない。
それでも、葵がそこにいる可能性がある。
玲司はスマートフォンを握り直した。
「待ってろよ」
誰に聞かせるでもなく呟き、前を向いた。




