第24話 歌舞伎町の路上
《MUSE》を出ると、空にはまだ夕方の明るさが残っていた。
葵は仕事用のドレスから普段着に戻り、バッグを肩へ掛けて歌舞伎町の通りを歩いていた。
昼の営業を終えた女たちと、これから夜の仕事へ向かう男たちが入れ替わるように行き交っている。店の看板にも少しずつ灯りが入り始め、夕方と夜が混ざる時間だった。
葵はスマートフォンを取り出した。
玲司から新しい連絡は来ていない。
少し前までは、どこへ行くとか何時に戻るとか、いちいち聞いてきたくせに、最近は前ほど口を出してこなくなった。
「やっと学習したか」
小さく呟いて画面を閉じる。
今日はこのままトー横の方へ寄るつもりだった。
特に誰かと約束しているわけではない。それでも、しばらく顔を出していなかったので、知っている人間がいるかどうかくらいは見ておきたかった。
映画館の方へ近づくにつれ、普段とは違う音が聞こえてきた。
最初は店から漏れている音楽だと思った。
だが、曲の合間に拍手や歓声まで混じっている。
「何やってんだろ」
トー横が見えるところまで来ると、人だかりができていた。
広場の一角に小さなステージが組まれ、その上で四人の女の子が歌っている。
衣装の色はそれぞれ違った。
赤、黄、紫、青。
四人とも同じ形を基本にした衣装だが、担当する色が分かるように細かな部分まで揃えられている。
ステージの前には何十人もの客が集まり、ペンライトを振る者もいれば、スマートフォンを頭上へ掲げて撮影している者もいた。その後ろでは、何が始まったのか分からないまま足を止めた観光客まで混じっている。
「リオー!」
曲の間から男の声が飛んだ。
すぐ別の場所から、
「ナツー!」
「アン!」
と名前が続く。
葵は歩く速度を少し落とし、横目でステージを見た。
別にアイドルに詳しいわけではない。
それでも、近くでやっていれば目には入る。
四人が横一列に広がったあと、曲が切り替わった。
青い衣装の女の子だけが一歩前へ出る。
ほかの三人が左右へ開いた。
次の瞬間、青の女の子が大きく踏み込み、音に合わせて体を鋭く返した。そのまま一人だけ動きの密度が上がり、ステージの狭さを感じさせないほど大きく踊る。
さっきまで以上の歓声が上がった。
「まひるー!」
何人もの声が重なった。
葵は少しだけ目を丸くした。
「人気あんだ」
自分とそれほど年が違うようにも見えない。
あれだけ大勢の前で歌って踊って、歓声を浴びている。
少し前までなら何とも思わなかったかもしれないが、最近はいろんな人間を見る機会が増えたせいか、ほんの少しだけ気になった。
とはいえ、立ち止まって最後まで見るほどではない。
葵はまた歩き出した。
背後では次の歌が始まり、四人の声に合わせて観客の掛け声が続いている。
その人混みから少し離れたところで、不意に声をかけられた。
「篠崎葵さん?」
葵の足が止まった。
振り返る。
三十歳前後に見える男が立っていた。
スーツでもないし、見るからに柄が悪いわけでもない。暗い色の上着に普通のパンツという、街中ですれ違っても覚えていないような格好だった。
それでも、葵はすぐに警戒した。
「誰?」
男が少し笑う。
「黒瀬さんの知り合いです」
「知り合い?」
「はい」
葵は男の顔を見た。
覚えはない。
玲司から友達の話を聞いたこと自体、ほとんどなかった。
「黒瀬さん、少し先で待ってます」
男が通りの先を示した。
葵はそちらを見なかった。
「何で?」
「ちょっと話があるそうで」
「だったら本人から連絡来るでしょ」
男の表情がほんの少しだけ止まった。
葵は見逃さなかった。
「今、スマホ使えないみたいで」
「何それ」
「壊れたとか何とか」
「さっきまで使えてたけど」
実際には、さっき玲司から連絡が来ていたわけではない。
適当に言っただけだった。
だが、男はすぐに返してこなかった。
その間で十分だった。
葵は一歩下がった。
「黒瀬の下の名前、何?」
男の眉がわずかに動く。
「……玲司ですよね」
知っている。
それが逆に気持ち悪かった。
真壁の声が頭によみがえる。
――黒瀬玲司。篠崎葵。
自分たちの名前も、二人が一緒にいることも、向こうには知られている。
葵はバッグへ手を伸ばした。
中には、まだギアが二錠残っている。
だが、ここで飲むつもりはない。
人も多い。
何より、まだ目の前の男が何者なのか分かっていない。
「玲司に電話する」
スマートフォンを取り出す。
男が一歩近づいた。
「いや、それは――」
葵が顔を上げた。
「何で?」
男の足が止まる。
「電話されたら困るの?」
「そういうわけじゃないですよ」
「じゃあいいじゃん」
葵は玲司の名前を選んだ。
そこで、背後に人の気配を感じた。
振り返ろうとした瞬間、背中に強い衝撃が走った。
「――っ!」
何が起きたのか理解するより先に、全身が大きく跳ねた。
手からスマートフォンが落ちる。
足に力が入らない。
葵は前へ倒れそうになり、反射的に片手を伸ばした。
「なに……」
声がうまく出なかった。
振り向こうとする。
後ろに、もう一人男がいた。
最初から一人ではなかった。
「ふざけ……」
立とうとしたが、膝が言うことを聞かない。
視界が揺れる。
最初に声をかけてきた男が、急いで近づいてきた。
「早く」
「分かってる」
二人の声が聞こえる。
葵は腕を振り払おうとした。
それでも、普段なら簡単に出せるはずの力が入らない。
「触んな……!」
声だけは出た。
右腕を掴まれる。
反対側からもう一人が左腕を抱えた。
葵は足を踏ん張ろうとしたが、膝から下の感覚がうまく戻らず、その場に体重を預けることもできない。
「離せ!」
体を捻った。
右側の男が顔をしかめる。
「まだ動くぞ」
「だから早くしろ」
少し先の路肩に、白いハイエースが停まっていた。
スライドドアが開く。
運転席には、もう一人男がいる。
三人。
そこまで見えた。
葵はもう一度腕を振りほどこうとした。
「玲司……!」
名前を叫んだつもりだった。
自分でも、どれほど声になっていたのか分からない。
トー横の方からは、まだアイドルの歌が聞こえている。
大勢の歓声。
手拍子。
誰かがまた、ステージ上の名前を叫んだ。
その音に紛れるように、葵は二人の男に左右から抱えられたまま車へ運ばれていった。
「やめろって……!」
足が地面を擦る。
蹴ろうとしても、力が入らない。
開いたドアの奥が見えた。
このまま乗せられたらまずい。
頭では分かっている。
それでも体が追いつかなかった。
二人が葵を車内へ押し込む。
葵は最後にドアの縁へ手を伸ばしたが、指先が届く前に体が座席側へ崩れた。
視界の端でスライドドアが閉まった。
外の音が一気に遠くなる。
車が動き出した。
「……玲司……」
今度は自分でも聞こえるかどうか分からない声だった。
窓の向こうで、歌舞伎町の明かりが流れていく。
葵は起き上がろうとしたが、腕に力を入れたところで視界が暗くなった。
そこで意識が途切れた。
*
中野の仕事部屋で、玲司は冷蔵庫を開けた。
中には水と、いつ買ったのか分からないペットボトルが数本入っている。
「何もねえな」
独り言を言いながら水を一本取る。
仕事から戻ったのは少し前だった。
葵はまだ帰っていない。
別に珍しいことではない。
《MUSE》の仕事が終わったあと、そのまま誰かに会いに行くこともあるし、トー横へ寄ることもある。
最近は勝手に消えるなとは言っているものの、逐一行き先まで報告しろとは言わなくなった。
玲司は水を飲みながらソファへ座った。
テレビをつける。
適当にチャンネルを変えていると、スマートフォンが目に入った。
時刻を確認する。
「遅いな」
もう少し早く戻ってくると思っていた。
玲司は葵へメッセージを送った。
『今日戻る?』
送信。
そのままテレビへ目を戻す。
数分経っても返信はない。
「まあ、あいつだしな」
スマートフォンをテーブルへ置いた。
さらにしばらくして、もう一度見る。
既読がついていない。
玲司は少し眉を寄せた。
『どこいる?』
二通目を送る。
また待つ。
返事はなかった。
以前なら、それだけで気にしなかったかもしれない。
葵は気分次第で返信しないし、スマートフォンを見ていても平気で無視する。
だが、真壁と会ったときの言葉が頭に残っていた。
――お前らだけが相手を見つけたと思うな。
玲司はすぐに打ち消した。
「いやいや」
考えすぎだ。
葵だって一人で歩けないような人間ではない。
むしろ、自分よりよほど喧嘩は強い。
玲司はスマートフォンを置こうとして、やめた。
電話をかける。
呼び出し音が続いた。
出ない。
「……何してんだよ」
一度切る。
もう一度かけた。
やはり出なかった。
玲司はソファから体を起こした。
今度は《MUSE》へ電話することを考えたが、その前に葵へもう一通送る。
『生きてるなら返事しろ』
どこかで見たような文章になった。
以前、莉奈が倒れたときにも似たようなことを送った気がする。
そのときは、こちらから電話をかけたら葵が出た。
今回は違う。
画面は静かなままだった。
玲司は時計を見る。
仕事が終わってから、かなり時間が経っている。
「……葵」
もう一度、通話ボタンを押した。
耳へ当てる。
呼び出し音が一回、二回、三回と続く。
それだけだった。
玲司の顔から、少しずつ軽さが消えていく。
「出ろよ、葵」
返事はなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回登場したアイドルたちは、別小説『アイドルとは!』と同じ世界線のキャラクターとなります。
作品同士のちょっとしたつながりとして、楽しんでいただければ幸いです。




